あの無目的感をもう一度

少し前のブログで、瞑想することを覚醒するための手段にしてはならない、ということについて書きました。

ちょっと変わり者の自分は、とにかく覚醒したいという欲求が強くて、真っ先に考えつくことと言ったら熱心に毎日瞑想するということでした。

ところが、覚醒状態というのは100%無目的な状態になることだとすれば、覚醒することを目標として瞑想をする限り、100%絶対に覚醒することはないのは当然です。

それで今は、瞑想をするということ自体を目的にしたのです。つまりは、瞑想が大好きで気持ちよくなれるので、つい毎日やってしまうということです。

こうしたことは、瞑想とか覚醒とかに関わることだけに言えるのではありません。人生の全てのことについて、同じことが言えるのです。

今日はもう徹底的に浮世離れさせてもらいますが、今日この瞬間を生きているということが全てで、それ以外のどんな目的も持たないようにする、これしかありません。

目的と手段が離れてしまうことが欲望となるのです。そこに自我が入り込む隙間ができてくるのです。

今私はこれを書きたいから書いているのです。書くことが手段であると同時に、それ自体が目的になっています。

こうしたことを少しずつ毎日の中で増やしていくしかないのですね。そんなことをしていたら、生活が成り立たなくなってしまうと不安になるかもしれません。

そうしたら、そこであれを発動するのです。つまり、「信頼」です。存在に対する信頼です。そうすれば、人生を究極的には単なる戯れにすることもできるはずですね。

幼い頃に時間を忘れてみんなで遊んでいた時の、あの無目的感をまた思い出せばいいのです。手段は今ここにあるので、手段と目的が一つになれば、目的も今にあることになるのです。

そうなればもう未来は必要なくなるのです。何だか想像しただけで清々しい気持ちになることができますね。

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