失うことの奥深さ

今日はフワッと書いて見ようかなと。こんな前置きをする理由は、何を書こうか固まっていないのにこうして書き出してしまったからです。

自分にとって大切なものってありますよね。それが、人であろうと物であろうと。あるいは、場所だったり特別な時間だったりもします。

そうした大切なものに、取り囲まれて日々生きているわけですが、それを失ってしまったらどうなるのかなと考えたことありますか?

自分が気に入っている衣食住がなくなってしまうのは、相当に不便だし不快なことになると予想できますね。

失くしてみて初めてわかる本当のありがたみ、のようなことをよく言われますが、そんなことのないように日頃から失うイメージを持っておくことは、悪いことではない気がします。

きっと多くの人にとって、一番失いたくないものとは、大切な家族、好きな人、友人などではないでしょうか?

けれども、もしもそこに依存がないのであれば、悲しみや寂しさに負けることはないはずです。逆にそうした感情を十二分に味わうことで、人生に深みが生まれるのでしょう。

思うに、新たな出会いも素敵ですが、失うということの中にも表現できないような素晴らしい趣きがあるのですね。

セッションをどう生かすか

私のところに来ていただいているクライアントさんのタイプを、大きく二つに分けるとすると以下のようになります。

片方は、困ったときにだけセッションのことを思い出すタイプであり、もう一方は日頃から生活の中にセッションの内容を当てはめられるタイプです。

残念ですが、どうしても前者の方が多いのは仕方のないことですね。彼らは早く癒しを進めて、もう大丈夫となったらさっさと癒しのことなど忘れていくのです。

癒しに興味があるというよりも、どちらかというとお医者さんに行って病気が治れば、そのこと自体を忘れて行くタイプです。

後者の方は、癒しの本質を理解されているので、どのようにして実生活の中で癒しを生かして行くかを考えられるのです。

どちらが有利かは明らかですが、それでもこればっかりは興味があるかどうかの問題になってしまうため、セラピストとしてはどうすることもできません。

セッションに来られない間にも、セッションの内容などを忘れてもらいたくないので、昨年出版した本を読んでもらえたらいいのにと思うのですが…。

セッションでできることは、非常に限られているのです。たかだか2時間くらいの間に、深い理解を得ることは難しいからです。

本当に大切なことは、自分の生き方を見つめる作業を実生活の中でし続けることなのです。

そこに気づいた人は、時間はかかっても必ず大きな変化を手にすることができるはずなのです。

意識に意識を向ける

肉眼で何かの対象物を見ようとする時には、それなりの距離が必要です。物体との距離があまりにも近すぎると、かえって見ることができないのは明白ですね。

遠すぎてもダメ、近すぎてもダメで、ちょうどいい頃合いの距離を保つことが必要となるわけです。

自分の内面を見ようとするときも、それと全く同じことが言えるのです。内面を見る時には、肉眼の代わりに意識を使うことが違うだけです。

たとえば、マインドのこの部分を見ようとするなら、その部分からある程度の距離を保つ必要があるのです。

その部分と一体になってしまっている限りは、それを見ることはできません。だからこそ、気づいていられるためには、距離が必要になるのです。

もしもあなたが自分のマインドを見ようとするなら、マインドとの距離を取ることになって、それはマインドから離れるということを意味するのです。

そのときのあなたは、もうマインドではない何かになるということです。それを意識と呼ぶのです。

あらゆるものを見る訓練をするということは、意識になるということと同じことなのです。それは元々本当の自分は意識そのものだったと気づくことです。

では最後に、意識を見ることはできるのか?それができるのです。意識に意識を向けるとはそういうこと。

そして不思議なことに、意識だけは距離を必要とせずにそれ自体を見ることができる唯一のものなのですね。

目的の洪水の中で生きている

目的というのは、〜のため、〜を実現するため、のようなもののことですね。だから必ず未来に向けたものです。

生物の進化のプロセスを見てみると、まるで何かはっきりとした目的意識をもって変化してきたように感じるかもしれません。

けれども、そこにはどんな目的もなく、ただ環境に順応できる生物が生き残るという、自然の淘汰が起きてきただけなのです。

植物にしても、たとえば桜の木は一年に一度だけ綺麗な花を咲かせるのが目的で生きているわけではありません。

ところが私たち人間だけが、なにかと目的を持って生活することになったのです。朝目が覚めれば、寝具を片付けて部屋を掃除するのは、その日1日の準備をするという目的がありますね。

何か一つの目的を達成すれば、その後にすぐまた別の目的がやってきて、それを目指して生きるのです。

本当は人間だって自然の一部なのですから、自然が目的を持たないのであれば自分も目的を持つ必要などありません。

たまには、このような視点に立って自分の日々の言動を見直してみるといいかもしれません。すると、どれだけ目的に依存しているかが分かります。

無目的というとあまりいい印象を感じないかもしれませんが、思考(マインド)が作った「目的」から、距離をとってみるとただ在ることの素晴らしさに気づくことができるかもしれませんね。

中心人物などいない

今からほんの500年くらい前までは、誰もが地球が宇宙の中心であって、空に見える太陽にしても月も星々もみんな、地球の周りをグルグル回っていると信じていました。

ところがそういった常識に捉われずに、勇気を持って地球の方が太陽の周りをまわっているのだと自説を唱える者が現れました。

その説が科学的に認められるまでにはしばらく時間がかかりましたが、今ではそれが当たり前のようになったのですね。

これが天動説から地動説への転換です。こうした大きなパラダイムシフトというのは、世の中の常識に飲み込まれているだけでは、決してやってこないものです。

一方でもう一つ、人類全体レベルではまだ気づいていない大切なことがあるのですが、それは自分の人生の中心人物はこの私だというのは単なる思い込みだということ。

この一般常識は、地球や宇宙にまつわることではなく、この自分自身に関することなので、常識というより真実であると感じているのです。

この感覚というのはマインドの感覚であって、思考が落ちた時には消えて無くなるということにも気づいていないのです。

個々人の人生というのは、実は思考の産物であるため、そこに中心人物としての自己というものはないということです。

宇宙には中心というものがないという気づきと同じようにして、どこにも中心人物なるものはないのです。

人類の一割の人がこのことを真に気づくことができたなら、世界の様相は一変するのかもしれませんね。

それって誰なんだ?

最近の梅雨空続きの景色を見ていると、なんだかどんよりした気分になってしまうのですが、そんな時にそれを感じているのは誰なんだ?と見ることにしています。

すると、確かに自分ではあるのですが、非常に表面的な部分であることに気づくのです。

逆に抜けるような青空を見ながら、ゆったりしているとなんて清々しい気分だろうと感じるのです。

そうしたら、やはりそう感じているのは一体誰なんだ?と見るのです。そうすると、そのときにもそれを感じているのはあくまでも表層の自分だと気づくのです。

そしてそのどちらの場合にも、まったく変化というものがあり得ない、ずっとそこに在るだけの自己に思い当たることになるのです。

これはどんな場合にでも当てはまるのです。何か嬉しいことがあったときに、喜んでいるのは誰なんだ?と見てあげる。

何か困ったことが起きている時にも、困ったなと思って立ち往生しているのは誰なんだ?と見るのです。

どんな状況であれ、どんな気持ちのときであれ、いつだってそういうことには一切かかわりのない、純粋な自己があると気づくのです。

これこそが自分の真のよりどころになるのです。これ以上安心を与えてくれるものはないのでしょうね。

依存と執着

私たちは、みんな自分という存在は何か大切なものでぎっしりと詰まっていて欲しいと直感的に感じているのです。

もしも自分の中身が空っぽで空虚であるなら、心もとない気がして不安に苛まれてしまうはずだからです。

ところが、真実はどうかといえば個人という自分の存在自体がイメージでしかないため、足りない空虚感を外側の何かで埋めようとするのです。

幼い頃であれば、自分にとって大きな存在である親であるとか、もう少し成長すれば好きな人だったり、戦う相手だったりで埋めるのです。

そうやって内側を埋めるために使った外側のものは、それが永遠に続くわけではないために、次から次へと変わっていくのです。

けれども変わらないのは、常に何かを外側から入れ込んでそこを満たすという生き方なのです。

これこそが依存の正体です。内側の空虚を満たすために入れ込んだ外側のものがなければやっていけないという切実な思い、これが依存心です。

そしてその依存している対象を決して失いたくないと強く願うことが執着になるのです。つまり依存と執着は一つものなのです。

もしも自分の内側を、自分自身で満たすことができるなら、そのときには依存も執着も消えていってしまうでしょうね。

そのときに初めて、自由で清々しい人生を生きることができるはずなのです。

問題行動を見抜けば、自己否定は消えて行く

これまでにも何度となくマインドの問題行動について書いてきました。ここで言う問題行動とは、抑圧されたエネルギーが具体的な行動として本人の意思とは無関係に表に出てくる現象のこと。

親にとって問題だと思うような言動を起こして、少しでも自分の本当の気持ちを分かってもらおうとするのです。

幼い頃であればオネショであったり、小児喘息やアトピーといったアレルギー系の病気、あるいは不登校なども代表的な問題行動です。

けれども実際には、個々の生育環境の違いによって、具体的な問題行動というのは本当に千差万別なのです。

だから自分自身で、自分の言動のうちのどれが問題行動なのかを見抜くのは大変かもしれませんね。

特に大人になってからの問題行動というのは、少々手が込んでいたりして見破るのはやっかいになる可能性が高いです。

たとえば、何となく人に嫌われるような言動をとってしまうだとか、能力が足りないわけでもないのに、いざとなるとミスばかり犯してしまうなど。

このような自己嫌悪を起こしてしまうようなものは、大抵が問題行動だと思って間違いありません。

それをしっかり見抜いて、問題行動を起こさざるを得なくなってしまった過去の痛みを思い出して、まったく見当違いの自己否定をやめることです。

マインドの仕組みとして備わっている問題行動への理解をより深くし、不要な自己否定、自己嫌悪を消すことができたら、人生の風味は必ず変わってくるはずですね。

「知りたがり屋」のマインド

私たちのマインドというのは、「知りたがり屋」なのです。分からないことを分かるようにしたいという欲求を常に持っているのです。

もっとも、分かろうとする対象というのは、そのマインドによって違いがあるのですが、たとえば相手の気持ちだったり、宇宙の構造だったり…。

「知りたがり屋」の根っこにあるものは、決して「知り得ない」ということに深いところで気づいているからなのだと思うのです。

知識というレベルでは、それを増やしていくことは勿論できるのですが、本当の意味で「知る」というのは不可能なことなのです。

「真に知る」とは、それで在ること以外にはないということ、思考がとまったときにこのことは理解できます。

逆に言えば、「知りたがり屋」が知ろうとする努力が無駄であり、それに降参することができたなら、思考がやってこなくなるのです。

思考の飢餓状態になったとき、マインドは自然と落ちてゆくことになるのですね。そうして内側には完全なる静寂がやってくるのでしょう。

自己同化こそ自分の根っこ

自分が自分として成立するためには、必ずその根っこに自己同化があるということに気づいている人は少ないかもしれません。

自己同化とは、自己同一視という意味合いなのですが、厳密にはこれは矛盾を含んでいます。

なぜなら、そもそもこれが自分なのだという思い込みに使う「元々の自分」というものがないからです。

ないものを何か別のものと同化するのですから、不思議としかいいようがありません。けれども、ともかく私たちはまず初めに身体と同化するのです。

そしてそのうちには、マインドとの同化を果たすようになるのです。その後はあらゆる経験との同化を日々継続していくことになるのです。

だからこそ自分という存在がどんどん大きく膨れ上がっていくのです。この状態から自己同化をはずしていくためには、相当な意識改革が必要になります。

まずは、あらゆる経験はただ経験があると理解することです。この経験をした自分がいるというふうな身勝手な解釈をやめること。

更には、身体は自分にとってとても大切な存在ではあるけれど、自分自身ではないと気づいて同化をはずすのです。

そして最後に残ったマインドとの同化については、できる限りマインドの動きを見つめ続けることでしかはずしていくことはできません。

結局最後は如何に意識的であり続けられるかにかかっているということですね。同化が外れると、一まとまりだった自分は消えてしまうはずです。