本当の優しさが肝

サラリーマンの頃に、時々アメリカに出張することがあって、短期のときには大抵オフィス近くのホテルに宿泊するのです。

仕事が終わって特に約束などがない日は、そのホテルのレストランで夕食を済ますのが常だったのですが、あまりいい記憶がないのです。

食事の内容は別にいいのですが、一品目を食べ終わってもなかなか次が出てこないので、一人で暇を持て余してしまうのです。それが結構待つのです。

間の時間を伸ばして、アルコール類を追加オーダーさせようというレストラン側の作戦なのかもしれませんが、あれはダメですね。

そうなることを見越してか、一人の女性は本を持参していて、次が出てくるまでの間にその本を読んでつなげている光景を見たことがありました。

会食などの場合はその間の会話を楽しむこともできるのでいいのでしょうけれど、一人の場合には辛いものがあります。

そんな諦めムードで行ったどこかのホテルのレストランが、とても秀逸だったのでよく覚えているのですが…。

常時サーブする人がいるわけでもないのに、私が一品食べ終わると間もなくどこからか食器を下げにやってきて、すぐに次を準備をしてくれるのです。

そして本当に暇を持て余すことなく、気持ちよく最後まで食事をすることができたのです。同じアメリカのごく普通のホテルのレストランなのに。

そんなときこそ、本当の意味でありがとうを込めてチップを弾みたくなりますよね。あれから30年ばかりが過ぎた、ちょうど今日のことです。

久しぶりにコートを買いたいと思って行ったことのない店舗に出かけたのですが、そこで目指していた品を見つけてさあどうしようかと思った矢先。

不躾な店員さんの横槍が入ってきたのです。知ってる知識を客に伝えたいのは分かるけど、こっちもその情報を調べて来て知ってるし。

放っておいて欲しい旨を伝えてホッとしたのも束の間。まだ袖を通してもいないのに、別の店員さんがご試着はどうですか?ときた。

心の狭い私はそこへ来てもうダメ。キツイ言葉でその店員さんを追っ払うことはできたのですが、気持ちが落ちてしまって買わずに帰ってきたという顛末。

そういえば、最近はもっぱらユニクロやGUなどの放っておいてくれるお店でばかり買っているので、くっつき店員に対しての免疫が落ちていたのかもしれません。

ちょっと長くなるけどもう一つ。最近よく行くようになったスーパーがあるのですが、そこを御用達にしている理由はクルマの充電設備があるということ。

それともうひとつ、あるレジ担当の人の気持ちよさが光っているからなのです。真っ直ぐにこちらの目を見て対応してくれるので、流れ作業ではない丁寧さが滲み出るのです。

どのお店に行こうかというとき、取り扱っている品で決めるというよりも、店員さんが客目線で仕事ができているかどうかということが大事。

客商売であっても、最後に成功するためには本当の優しさが肝になるということですね。

癒しか自然治癒力か

自然治癒力という言葉がありますが、病気や怪我をしたときに特別何の治療もしないのに自然に回復してくれるのは、その力のおかげなわけです。

皮膚を切ってしまって血が出ても、自然と血が固まって出血は止まり、切り傷も時間の経過とともに治ってくれます。

心の傷であっても、似たような自然治癒力というものが働くのですが、放置していればそれだけ治癒にかかる時間は長くなってしまいます。

もしかしたら、生きている間には治癒できなくなってしまう場合だってあるかもしれません。

それと同時に、自然治癒力が働いて治癒するまでの間、相当に苦しまなければならないはずですね。

たとえば防衛によって「嫌だ〜」という思いが溜め込まれると、そのエネルギーを原動力として問題行動を起こすことになります。

問題行動は親に問題視してもらうために起こす行動なので、本人の理性の部分では非常に困ったことになるのです。

問題視されるためには、反社会的な行動を起こす必要があるからです。そしてそれはほとんど徒労に終わるのです。

そしてそれがエスカレートして行って、もう社会的にも取り返しがつかないようなことをしてしまったとすると、そこで自然治癒力が働いて問題行動が整理されていくのです。

そこまで放置して自然治癒力が働きだすのを待つよりも、意識的に治癒させてあげる方がいいのですが、そのお手伝いをするのがセラピストなのです。

能動的に癒しを進めて行って、自然治癒力の発動前に楽になっていくのか、それとも時間はかかっても自然治癒力に任せるのかは、本人の自由ですね。

親離れができない

人は成長するにつれて、自然と親から離れていくものです。それは勿論物理的にというよりも精神的にということです。

あれほど身近にあった親の存在が、自分の人生の中心ではなくなっていくのです。いつまでも大切で愛しい存在であるかもしれませんが、人生の脇役へと変化するのです。

大抵は10代の後半ともなれば、家族のことよりも友人や好きな人のことの方に意識が向くようになるのです。

それがいわゆる「親離れ」と言われるものですね。親離れの時期は個々に違いがあるものの、それが20代になっても30代になってもやってこないなら、何かがうまく行ってないと思って間違いありません。

たとえば、子供の頃に親に対する不満があるにもかかわらず、そのことに気づくことなく過ごしてしまうと、それが後になって表面化したりするのです。

そうなると、いつまでも親に対する不満をぶつけるような毎日になるのです。本人はそれが異常だということに気づけないのです。

そして不満をぶつけるためには、親の近くにいる必要があるため、物理的にも精神的にも親離れができなくなってしまうのです。

またあらゆる問題行動を引き起こして、何とかして親の気持ちをこちらに向けようと努力するため、ひどく苦しむことになるかもしれません。

もしも大人になっても、あなたの人生の中の親の存在が大きいままであるなら、親離れができていない可能性が高いのです。

その場合には、その原因を子供の頃に見出して、そこをしっかりと癒していくこと必要だと思われます。

優しい人とは?

世の中には優しい人もいれば優しくない人もいますね。とは言うものの、優しい人と一口で言ってもその定義はなかなか難しいものです。

たとえばいつもニコニコ笑っていて感じがいい人、何かにつけて親切な人、このような人を単純に優しい人と呼ぶこともあります。

相手の申し出に対して、断らない人も優しい人と思われるかもしれません。もてなすのが上手な人も優しさを感じるかもしれません。

けれども、もてなす側ともてなしを受ける側の感覚が一致しているうちはいいのですが、それがずれてきたときには優しさは仇になってしまうはず。

相手の誕生日にサプライズを企画して喜ばそうとして、それを相手が喜んでくれるならいいのですが、サプライズ嫌いという人もいるはずですね。

客人がとても食べきれないほどのご馳走を出してもてなしたところで、食べ過ぎで身体に悪いだけで喜んでもらえるとは思えません。

このように、よかれと思ってやったことであっても相手にとってそれが迷惑なことであれば、その優しさは苦痛でしかないのです。

そう考えると、本当の優しさとは相手の立場に立って物事を考えることができること、そこに自己防衛の要素が混ざらないこと。そこが大事なのです。

もしもあなたが優しい人になろうと自分を強いるなら、今すぐにでもそれはやめた方がいいのです。

なぜなら優しさとは意識的になれるものではなく、自我(防衛)が消えていった先におのずとやってくるものだからです。

苦しみの原因は分かりづらい

人によって様々な生きづらさを感じながら、それらの原因は過去のいくつかのトラウマによるものだと思い込んでいる場合があります。

あの体験さえなかったら、こんなしんどいことにはなっていたなかったはずとか、あのときのあの苦しみが元で今こんな状態になっている等々。

それが間違っているということではないのですが、セラピストの目で見てみると、特定の何かの体験がその後の人生に与える影響はそれほど大きくはならないと感じるのです。

むしろ何気ない毎日の生活の中で、どのようなエネルギーに囲まれて生きていたのか、そうした目には見えない継続的な環境の方がはるかに影響度は大きいのです。

だからこそ実は分かりづらいわけです。たとえば、親が人生と戦っているような場合、その余裕のなさは幼い子供に強く影響を及ぼすのです。

これといって怒られたわけでも、口うるさく注意されたのでもなく、あるいはひどい仕打ちを強いられたわけでもないのに…。

子供は親の関心が自分には向いていないということを察知してしまい、さらには余裕のない親に迷惑をかけまいとして自己表現を抑えてしまったりするのです。

生きづらさが幼い頃の親子関係からくると理解できたとしても、自分だけで安易に分析しても役に立たない場合が多いかもしれません。

そんな場合には、プロのセラピストの力を借りてみるのも悪くないと思います。考えもしなかったところに、解決の糸口を見いだせるかもしれません。

波は海の一部

今これを書いているのは日曜日の夕方なんですが、もうすぐ12月だというのにどういうわけか気温が20度近くあります。東京だけかもしれませんが…。

あったかくてすごく気持ちがいいですね。もうそれだけで気分が良くなってしまいます。なぜそんな些細なことに自分の大事な気分が影響されてしまうのか、ホント不思議です。

と同時に、もう少しじっくり内面を感じてあげると、どのような気持ちや気分にも全く影響を受けないドシっとした何かがあると分かります。

つまりそれに関しては、自分自身の気分の影響も受けないし、ましてや外側の世界にもどんな影響も受けないということが言えるのです。

普段は気分の中にすっぽりと入り込んでしまっているので、それを感じることができないのですが、静かに見つめればそれは必ずそこにあると分かるのです。

それを自分の一部だというには違和感があるし、どう表現しようとしてもうまく伝えられないのですが、敢えて言えばすべての背景のようなもの。

だから決して私という個人に特有のものではないのは確かです。いつもこのブログで全体性と呼んでいるのもそれかもしれません。

私としては正体不明なのですが、ただ自我としての私を一つの波だとすれば、それは海ほどの大きさのものだと表現できます。

海面で一つの波が作られてまたすぐに消えていくのですが、それが自我であり、海が全体性ということになりますかね。

私たち個人とはそんなはかない存在でしかないのですが、間違いなく海の一部として永遠に在るということにも気付いていられたらいいなと思うのです。

どこに意識を向けるか?

私たちは誰であれ、辛く苦しいことよりも快適で楽しいことの方が好きなはずですね。悲しみよりも悦びの方を好むものだと思っています。

ところが実際はどうかというと、自我の強さ(防衛の強さ)によって変わってくるのです。

自我による防衛が強くなればなるほど、本人がどう思っていようが結局は辛く苦しいこと、悲しみや不安の方に意識が向くのです。

なぜならそうでなければ、防衛を続けていくことができないからなのです。本末転倒なのですが、自我とはそういうものなのです。

たとえば不安に意識を向け続けている人は大勢います。健康面での不安だったり、将来の不安だったり、大切な人やものを失う不安等々。

不安のネタは尽きません。または、嫌なことを考えても何も解決しないと分かっていながら、その思考を止めることができなかったり。

あるいは、自分が理不尽な目に遭ったときのことばかりを思い出しては、怒りをどうしていいか分からず、悔し泣きしてみたり。

なぜ嬉しいことや楽しいことの方に意識を向けることをしないのか?本人には理解できないのでしょうね。

それが自我が求めることだからです。自我に飲み込まれてしまえば、そうなってしまうということに気づくことです。

このような場合には、無理やり楽しいことや嬉しいことの方に意識を向けようとするのではなく、自我そのものに意識を向けるようにするのです。

それが唯一自我からエネルギーを奪うことができる方法なのです。うまくいけば、望まない事柄に意識を向けることが少なくなっていくはずです。

古い記憶と一時記憶

来年早々に91歳を迎える母親の記憶力が、日に日に曖昧になってきているのが気になるようになってきました。

昔の記憶は普通に覚えているのですが、昨日のこと、今日のこと、何なら10分前のことを忘れるようになってきたのです。

思い出してごらんと言って待っていると、少しずつ思い出せる時もあるのですが、それが最近になって思い出せないことが多くなってきました。

要するに、一時記憶装置である海馬の部分が正常に動作しなくなってきたからなのだと判断しているのですが、今のところ特効薬のようなものはないようですね。

本人としてもそれはとても気持ちの悪いことのようで、本当に可哀想だなと思うのですが、こればかりはどうしてやることもできません。

私自身もうすぐ高齢者の仲間入りをする身として、いつか自分がそうなったらどうするだろうと考えることがあるのです。

しばらくは慣れるのに時間がかかるとは思うのですが、もしかしたら充分に意識的であるなら、あまり不便を感じずに生きられるのではないかと思うのです。

記憶というのはそもそも思考が使うものなので、思考を緩めて生きるのであればあまり記憶は重要ではないのです。

それよりは、日常的な生活全般を不便なく行えるマインドの部分さえ機能してくれれば、後は意識があればいいのです。

そこで使われる記憶情報は、基本的に古いものばかりなので海馬の能力が低下しても大丈夫なはずです。

いつかそれを自ら検証できるときがやってくるのかもしれませんね…。

ただ起きることが起きる

よく「思い立って」何かをし出すということがあると思います。あれってちょっと考えると不思議だと思いませんか?

その思いつきのようなものは、一体どこからやってくるんだろうかって考えても、絶対に分からないのですから。それは何か受動的な感覚があります。

それに対して、自分でこうしようああしようと能動的に考えた事は、単なる思いつきのレベルではなく、自発的な自由意志によるものだと感じるのです。

けれども、能動的に考えると言ってもそれがなぜ起きるのかを誰も説明することはできないのです。これ分かるでしょうか?

説明がうまくできなくて申し訳ないのですが、よくよく見てみれば分かるのですが、その両者に違いはないのです。

つまりは、あなたが何を思い立とうが、何を自由意志を使って能動的に考えようが、所詮はただ起きることが起きているのです。

だから私たちには完全なる自由意志があると感じるだけで、すべては何処かからやってくるものでしかないということです。

ある人は自分の人生をこういうものにしようと決意して、毎日たゆまぬ努力を続けるかもしれません。

またある人は、人生なんてくだらないと絶望して、ダラダラとただ生きているような毎日を繰り返すかもしれません。

ある人は優しい人格者かもしれないし、ある人は道を踏み外して罪を犯すかもしれないのですが、何がどうであれそれが起きたのならそれが起きるということがやってきたのです。

ただし、だからといって未来がすべて決まっているということを言いたいのではありません。瞬間瞬間に起きることがやってくるだけ。

もしかしたら私はこの感覚を子供のころから持っていたかもしれません。長いこと忘れていたのですが、今の仕事をするようになってまた思い出したのです。

つまりは、誰も悪くないし、誰も良くないってことですね。思考で納得できることではないのですが、ただ起きることが起きるということです。

何もする必要はない

本当は何もする必要などないということ、やらなければならないことなど本質的には何もないということを見抜くこと。

このことをあなたの内面の深いところに定着させることです。勿論、私自身も毎日生きていれば、今日中にメールを返信しなければならないとかあります。

こうして毎日ブログを書くのも、ああ午前0時になるまでに書かなきゃなあなどと思ってキーボードに向かったりするわけです。

だから表面上では、誰だってやらなきゃいけないと思っていることがなくなることはないのですが、あくまでも自分が安心でいられるためにということなのです。

もしも人生を安心でいようと思わないのであれば、つまり防衛することから離れることができるなら、何もせずにいることは自然なこととなるのです。

別な見方をすると、あなたは自分が従事していることのやり手だと信じているのです。けれども、真実はそれがただ起きているだけだということ。

自分はやり手ではないと気づくことができるなら、やらなければならないことがないのは明白ですね。

安心しようとせずに、つまり防衛せずにいることと、やり手ではないと気づくこと、この二つを理解して実践するなら、本当は何もする必要などないと理解できるのです。