退屈の向こう側

マインドにはそれ自身の正体を見ようとすると、それを阻止するような仕組みが備わっているのです。

だから私たちは、マインドを深く見ることができないでいるのです。マインドは、その正体がバレてしまうと、とても具合が悪いことを知っているのですね。

たとえば何もせずにジッとしていると、退屈な感じがしてきます。疲れている時などは、何もしたくないのでそのままただ休養していることもできます。

けれども、充分に休息を取ってまた活力が出てくると、身体を動かしたくなったり、何かをしたくなるのです。

それをそのままに放っておくと、退屈で退屈で死にそうになるのですが、それは文字通り自我が死にそうなくらいに危機的状態になっているということなのです。

退屈というのは、そのままジッとしていると、下手をするとマインドの正体がバレてしまう危険があると察するからでしょうね。

だから退屈がやってきても、何もせずにいることができるなら、誰でもマインドの正体に近づくことができるのです。

瞑想というのは、そこに近づこうとしているわけですが、瞑想をしているという意識があるなら、それは退屈を避ける格好の手段となってしまうのです。

瞑想もせずに、真にただ無目的に何もせずにいるなら、退屈の向こう側に気づくことになるかもしれません。そのとき、マインドの真の姿を見ることになるはずです。