コンフォートゾーンを飛び越える

一昨日のブログで、東京都知事選に絡めて石丸伸二という人物について私なりの考察を書きました。

今回はその補足をしてみたいのですが、大手銀行のニューヨーク支局で為替アナリストして働いていた人が、突如として広島の地元の市長に立候補する。

これが四年前に起きたことです。この決断力が一体どこからやってくるのかを考えてみたいと思うのです。

人は無自覚のうちにこれまでの自分の人生の経験則から、自分にとっての安全で安心できる環境を求めるようになるのです。

その安全安心の環境をコンフォートゾーンと呼びます。コンフォートゾーンと言っても、それはまさに千差万別。

例えば、幼い頃に親から厳しくコントロールされ、奴隷のように育てられた人にとっては、そうした環境もコンフォートゾーンになり得るからです。

まさかそんなことあるものかと、人は自由を求めるものだし奴隷になりたい奴などいるわけないと思うでしょうね。

けれども、そんな劣悪な環境でも、その環境で大人しく逆らわないようにすることが、その子にとってのコンフォートゾーンになり得るのです。

きっとその子にとっては、自由の方が居心地が悪く感じてしまうはずです。話を戻して、石丸氏にとっては、アナリストから地元の市長に立候補するのは、コンフォートゾーンの外の行為だったはず。

それは、地方の一市長が都知事に立候補するよりも大きなコンフォーゾーン外へのジャンプなのですから。

私が見るに、それを可能にさせた原動力は無我の境地なのだろうなと。彼は、自分をみんなのために最大限使うにはどうしたらいいか?という視点で考えたのだとか。

その視点に立てるからこそ、あっという間にコンフォートゾーンを飛び越えてしまうことができたのだろうなと。

凄すぎて参考にならないかもしれませんが、勉強にはなりますね。七夕の選挙結果が楽しみです。

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未来世や地球外の記憶と繋がりたい

最近時々感じることなのですが、この宇宙というのは自分が理解できないことの方が圧倒的に多いのだろうなと。

つまり、ほとんど何も知らないということです。常に知りたいという欲求はあるものの、不可能であることも分かっています。

ただし、それはこの自分という今記憶している今回の人生を生きている自分にとっては不可能であるということ。

もしも全くこれまで知ることもなかったような記憶を突然思い出してしまったとしたらどうでしょう?

そしてその可能性が全くないと誰が断言できるでしょうか?そう考えると、そうしたことが起きるかもしれないと思えてくるのです。

なんなら、何かの拍子にこれまで知らずに来た記憶を思い出しそうになる感覚がやってくることもあるような。

バシャールが言っていたように、実は記憶というのは頭の中にあるのではなく、脳が記憶データをどこからか受信するのだと。

そのメカニズムであるなら、ある時不意に全く知らなかった全く異次元の記憶と繋がってもおかしくないのかなと。

過去世の記憶と繋がっても大して面白くない。どうせなら、未来世の記憶とつながらないかなと。もっと言えば、地球外での記憶を思い出せたら面白いでしょうね。

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超魅力的な候補者あらわる

東京は今、四年ぶりの都知事選が始まっていて、正直言っていつもあまり興味がなかったのですが、今回はいつもと違うのです。

それは、彗星のように現れた一人の人物がいるからです。少し前まで安芸高田市の市長だった石丸伸二さんです。

ここで実名を挙げるのはどうかとも思うのですが、でもそんなことはどうでもいいくらいに感じているわけです。

大阪に橋下さんが出てきた時にも興奮しましたが、その時ともまた違う感覚なのです。シンプルに波動が高くて気持ちいい。

現都知事の都民ファーストという発想とは根本的に違うのです。都知事だからといって、東京のことを最優先で考えるということをしないのです。

東京の極端な一極集中によって、地方が衰退してしまえば、自ずと東京にもその衰退の波がやってくることは明白。

だから、東京のためにもまずは日本のことを考えねばならないという姿勢です。これって、人間にも言えることですね。

自分のことばかりを考えていれば、いずれは他者との関係に行き詰まってしまうことになるのですから。

他者が苦しんでいるのを見ながら、自分だけ幸せでいられるなんて不可能です。人間とはそういう生き物なのです。

もしもこの人が都知事になるようなことがあったら、日本は大きな変化を迎えることができるでしょうね。

そしてその波は、例えばテレビの文化とネットの文化の攻防にも大きな影響を及ぼすことになると思いますね。

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終わり良ければ全てよし

今朝いつもの道路をスポーツクラブへとクルマを走らせていると、踏切のかなり手前からクルマが数珠繋ぎ状態になっているのです。

その踏切は、時々開かずの踏切へと変貌してしまう憎き奴なのです。単に、電車の巡り合わせが悪くてそうなっているのか、あるいは人身事故などで遮断機が開かない状態になっているのか。

しばらく様子を見ていたのですが、埒があかないのでネットを検索してみたところ、やはり人身事故があったということで、もういつ遮断機が開いてくれるのか分からない。

仕方なく、前後ともにびっちりとクルマが詰まっているのを何とかして方向転換をして、かなりの遠回りを覚悟の上で線路との立体交差になっている道路へと向かったのです。

運よく、そちらの道路は比較的空いていたので結局は普段よりも10分程度遅くなっただけで、目的地へと到着することができたのです。

こういうの、オーバーに表現すると「不幸中の幸い」とか何とか言うんですよね。あるいは、「結果良ければ全て良し」と言ったりもします。

いずれにしても、何の問題もなかったわけです。さて、仕事を無事終えて帰宅する途中、今度は幹線道路に出たところで謎の渋滞に遭遇したのです。

あれ、これ朝の波動がまだ残ってるのかもなと。と、前のクルマが急に知らない極細の道へと入っていったので、これだと思って付いて行ったところ、なんと袋小路のようになっている困った道だったのです。

結局そこから元来た道をそのまま戻って、2台揃って渋滞の反対車線へと出ることに。もうこうなったら前のクルマと運命を共にしようと。

そのあたりは、知っている道でもあったので少し遠回りはしたものの、無事帰宅することができたのですが、事務所を出る時には夕食までには十分に間に合うなと思っていたのに、ギリギリの時間に到着したのです。

と言っても、これも遅れることはなかったので、「終わり良ければ全てよし」の範疇だなと。実際遅れたところで問題はないのですけどね。

今日は、人生そのものにも言えるであろう、「終わり良ければ全て良し」を満喫させてもらった日でしたね。

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催眠状態と瞑想状態は何が違う?

催眠状態というのは、いわゆる変性意識状態になることを言うのですが、その定義はなかなか難しいですよね。

起きている状態と寝ている状態の間の、ちょうどウトウトしているような感じとイメージされている人もいると思います。

けれども、それともちょっと違うんですよね。もっと正気な状態だと思って間違いありません。夢うつつではないわけです。

そういう意味では、本人の自覚としては、ごくごく普段の状態とあまり違いがないという感じがもしれません。

ただし、普段と少し違うのは気がつくといつもよりも感情を感じやすくなっているのです。もしもそこで開放的な気持ちになれたなら、たくさんの感情が溢れて来るかもしれません。

瞑想状態も変性意識状態と言われることもありますが、私の場合はちょっと違うように感じています。

というのも、私の場合に限るのかもしれませんが、瞑想状態ではある種の集中力が必要になるのです。

ただ漫然とリラックスして静かにしていればいいというよりも、より意識的に集中するようにしています。

一体何に対して集中するの?と聞かれてもうまく答えられないのですが、少なくともぼーっとしているのとは対極にある感じです。

例えば、集中が深くなると呼吸のスピードがとても遅くなるのがわかります。逆に言えば、呼吸を遅くすることで集中を深めることもできるのかなと。

あるいは、閉じた眼の中で何かを凝視しようとすることによって、集中を高めるという方法もありますね。

とにかく動かないことによって、この瞬間と同期が取れてくる感じです。きっと人によって感じ方もやり方も違ってくることだと思いますので、参考になったらいいですね。

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今の地球は住みづらい

今日1日の生活を通して、なんだか嫌だなと思ったことのほとんど全部が、お金がベースにあるということが分かります。

銀行に行って、振り込みの処理をしなければならないのですが、時期のせいか非常に混んでいて、係員の人に分からないことを聞くこともできない。

貨幣経済でなければ、振り込みなんてないわけです。銀行はそのうち崩壊するだろうと思っているのですが、その時にはきっと痛みを伴うでしょうね。

家具などの総合メーカーに出向いて、何点かを購入してきたのですが、これもできればコストパフォーマンスのいいものを手に入れたいと。

その思いが我ながら煩わしくて、しまいには価格はある程度もうどうでもいいので、さっさと切り上げたいと。

あの場所に長くいたくないのに、いざるを得ないのも貨幣経済が原因なのですね。あんなことに時間を割きたくないと。

新たに導入するインターネットの業者のサイトに行って、ああでもないこうでもないと謳っている説明書きの嵐の中にいると、目が回ってきます。

なぜなら、少しでもユーザーを獲得して利益をあげようとするエネルギーが渦巻いているからですね。

これも貨幣経済の為せる技。どれもこれも、対価を獲得するという争いをし続けているわけで、心底今の地球は住みづらいですね。

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「ありのままの自分自身であること」の責任

次のoshoの言葉、胸にしっかりと刻みつけておいた方がいいですね。

『ありのままの自分自身であることの責任を、受け入れなさい
良いことも、悪いことも
美しいことも、美しくないことも
すべてを含めて受け入れなさい
その受け入れの中から超越が起こり、人は自由になる』

そうなんですよね。いつも言っていることですが、私たちには他にどんな義務も責任もないのです。

ただし、たった一つだけあるとするなら、これです!「ありのままの自分自身であること」この責任だけは果たすこと。

ところが私たちは、他のどうでもいいことに義務や責任を勝手に感じてしまい、何かと苦しい人生を生きているのです。

そういったバカバカしいことには関わらないようにして、唯一の責任である「ありのままの自分自身であること」を全力で全うすること。

これ以外にないということですね。この責任を受け入れることなしに人は自由になることはないと言っているのです。

ではなぜ、容易には受け入れられないのか?個人という存在は、他者との比較なしには存在できないということが鍵なのです。

他者との比較において、惨めな思いをしたくないために理想となる自己イメージを作り上げてしまうのでしょうね。

その理想から遠いと感じる自分という存在を否定してしまうために、丸ごと自分を受け入れることができなくなったわけです。

私の受け入れ方は、人間としての自分は一旦傍に置いて、存在という見方で自己を見つめるのです。

そうすると、存在は完全無欠なので当然受け入れられるのです。そうやってまずは、自分という存在を受け入れる。

その次に、自分という人間を受け入れる。この順番であれば、かなり受け入れることへの抵抗が減ってくれるはずです。ぜひ試してみてください。

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自我として人生を全うした先に何がある?

私たち自我という存在は、必ず目標や目的を持っています。というより、それなしには生きていけないと言った方が正しいのです。

幼い子供の頃のあの無邪気さのままであれば、特にこれといった目的などなくても毎日楽しく生きていられるはず。

ところが、いつの頃からなのか知らぬ間に常に未来に目標を掲げるようになるのです。明日はこれができるようにしようとか。

来年は小学生になるから、あれもこれもやれるようになりたい等々。そうやって、自然と未来に向かって生きていくようになるわけです。

そうして、今この瞬間に十全に在ることができなくなってしまうのです。ただし、人類の中には無目的になれた人もいます。

それは完全に覚醒してしまった人たちですね。と言っても本人の中に自我はもうなくなってしまっているのですが。

そうなることを希望する自我もごく稀にはいるようですが、普通の自我は自我として自分の人生を全うすることを願っているのです。

自我としては、後者の方が正しいのは明らかです。だから、世の中にはどんな自分になりたいのか?という質問が溢れているのです。

誰もがより優れた自分になり、自らの潜在的パワーを引き出して、望む人生を手に入れようと躍起になっているのです。

それが良いとか悪いということではないのですが、それで一体どこに到達できるというのかについては疑問が残りますね。 

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未来の交通事情を見たい

昨日久しぶりに車で少し遠出をしたのです。自宅からすぐに高速に乗って、ほとんどそのまま目的地に到着したのです。

運悪く酷い雨と渋滞に遭ってしまったのですが、それでも精神的な疲労感が思ったほど残っていなかったのです。

普段は、自宅とスポーツクラブと事務所をグルグル回るだけの単純な道順なので、歩くよりも楽な気がしていたので。

それと比べたら、もっと疲れていてもいいのかなと思ったので、すごく意外だったのです。それで理由を考えてみたのです。

その時、家人の言葉に気付かされたのですが、高速道路には歩行者もいなければ危険な自転車もいないのです。

え?それが疲労しない理由?とびっくりしたのですが、なるほど納得。毎日のルーチン道路は歩行者と自転車で溢れています。

それも、ものすごく劣悪な交通法規違反の人ばかり。それが理由で、非常に気を使うし、腹も立つしで。

本来高速道路の方がスピードが出ているので危険なはずだし、それなりに気を使うわけですが、違うのですね。

改めてクルマと歩行者or自転車が別れているべきだなと、つくづく思い知ったのです。その辺り、未来はどうなっているんでしょうね?見れるものなら見てみたいものです。

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「ただ在る」ことを味わってみる

次のoshoの言葉は肝に銘じておくことですね。

『自然になりなさいと言うとき、私はただこう言っている。”なる”ことを止め、”ある”ことのなかに落ち、くつろぎなさい。あなたはすでにそこにいる!』

私たち自我は、「なる」ことにしか興味を持っていないようです。幼い頃からずっと、あなたはどんな人になるの?と言われて育つのですから。

周りの親や先生などの大人たちが、こぞって子供達の未来ばかりを取り上げるのです。だから「なる」ことがとても大切なことだと思い込んでしまっても無理ないのです。

何者でもない幼い頃の自分が、「大人」になると同時に何者かへとなっていくというイメージが満載なのです。

それに比べて「ある」ことを意識に上げられる人がどれだけいるのか?笑ってしまうくらい、怪しくないですか?

私はこの仕事をするようになって初めて、「在る」ことの重要性に気づいたのです。「ある」ことは決定的です。

どんなことよりも素晴らしい。そこにはどんな修飾も必要ないし、誰と比較されるようなものでもありません。

「ただ在る」ことの中に坐って、静かにその感覚を味わい尽くすのです。それはもう立派な瞑想と言ってもいいでしょうね。

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