ゴミをゴミだと理解すること

私たちの行動で一つはっきりしていることがあるのですが、それはゴミだなと思ったものは捨てるということです。

ゴミというのは、本人にとって用無しになってしまったもの。持っている如何なる意味もないと感じたもののことです。

だからすぐにでもゴミ箱に捨てたくなるのです。ところが、私たちの周りにはゴミだと思われるものをずっと持ち続けている人がたくさんいるのです。

たとえば、誰もがあんなクズ男と言いたくなるような、しょうもない男性といつまでもぐずぐずした関係をやめられない女性がいますね。

あるいは、時々テレビ番組などで紹介される、いわゆるゴミ屋敷と言われるような家に住んでいる人がいます。

彼らは悪臭を放つ山盛りのゴミの中に暮らしているのです。綺麗さっぱり掃除したら、どれほど気持ちがいいだろうと想像してしまいます。

なぜこうしたことが起きるのかというと、本人は決してゴミだとは認識していないからなのです。

癒しというのは、これまでに培ってきたあらゆる教えやルール、そう言ったものを捨てていく作業なのですが、これがすごく難しいのです。

セラピストの目からすると、親や社会から押し付けられたそうした教えのほとんどは、我々を幸福にはしてくれません。

だからそのほとんどはガラクタなのです。でも現実はどうかというと、本当に多くの人がなかなか過去培ってきたものを手放すことができないでいるのです。

その理由は、本人にとっては心のどこかで価値あるものだと思っていたり、手放すのが怖いと思っていたりするからです。

自分が満ち足りた人生を生きる上で、障害となるあらゆるものをゴミだと認識することこそが、とても大切なことだと分かります。

その深い理解に至ることさえできれば、後は自動的に不要なものは落ちていってくれるのです。自分で捨てる必要すらないのですね。

信仰と信頼

私はこれまでどんな宗教とも関わったことがないので、信仰心というものから遠いところで生きてきたような気がしています。

少し穿った見方をするなら、信仰する心というのはそこに疑いがあるからこそなのではないのかなと。

もしも少しの疑いもないのであれば、どうして信仰することができるでしょうか?信仰などいらないはずなのです。

信仰することで疑う心をなんとか鎮めて、場合によってその疑いを覆い隠すためにも信仰心が必要となるのかもしれません。

それでも、初めはそうした疑いがあったとしても、それにもめげずに熱心に信仰し続けることで、帰依する深さを増していくことができるのかもしれませんね。

一方で、信頼というのは自然発生的に起こるものであり、そこにはどんな理由も原因も見出すことができないものです。

私にとって、信頼は少しは身近なところにあるような感じがしますが、それほど容易なものではないことも理解できます。

けれども、信仰がより深くなっていった先には、自ずと信頼へと向かうことになるのだろうなと思うのです。

そうして信仰と信頼の区別がつかなくなった頃、自我は居場所がなくなって消滅していくことになるのですね。

最大の皮肉とは

この世の中にはそれこそ沢山の皮肉なことがありますね。せっかく買った宝くじのことを忘れて、気がついたら高額当選していたけれど、期限が昨日で切れていたとか。

子供の時に、広い原っぱで小石を思い切り空に向かって投げた後、それを見失ったので全速力で走って避けたつもりが、まんまと頭に落ちてきた時とか。

この頭に直撃してしまったのは、情けないけれど実話です。それを見ていた友達も呆気に取られていましたので。

ところであまり知られていない最大の皮肉は何だと思いますか?それは、実は私たちの誰もがすでに「それ」であるということ。

「それ」というのは私たちの本質のことです。私たちはこの世的な欲望は五万と持っていますが、それ以外に本当に求めているモノがあるのです。

その求めてやまないターゲットこそが、私たちの本当の姿だということです。これほどの皮肉は他には見当たりません。

私はたまに「それ」に出会いたいと強く願うことがあるのですが、そんな時にはこの世界のことには無頓着な感じになるのです。

老後の不安のこととか、健康上のこととか、あるいは仕事のことなど、普段少しは気にしていることが全く眼中になくなるのです。

修行僧ではないので、その状態が長く続くことはないのですが、もしそれにどっぷり嵌まり込んでしまったらと思うと、ちょっと怖いですね。

ただ言えることは、私たちは初めの初めからすでに「それ」だったので、全ての人が最初から救われているということです。

自我としての夢を見続けているので気が付かないだけなのです。だから何があっても気楽に、そして悠々と生きることとしますかね。

道元の生い立ち

かつて日本に輸入されて、日本で独自の花を咲かせた「禅」というものがありますね。その禅僧として最も有名な一人が、道元です。

彼はずば抜けて聡明な子供だったらしいのですが、実は二歳の時に父親が亡くなり、七歳の時には母親が亡くなったのです。

そんな状況にも関わらず、彼は心の奥で「これは好機だ、もはや障害は何もない」と思ったのだとか。

「両親二人は私を愛し、私は彼らを愛した。それこそが危険だったのだ。二人ともちょうど良い時に死んだ。」

「二人は私を破壊することなく、ちょうど良い時に死んだことに、私はこの上なく感謝している」

たった七歳の子供がこんなことを理解できるなんて、とても不思議なことではあるのですが…。

けれども、誤解を恐れずに言えば、人間の最大の障害は父親であり、母親であるという事実を踏まえれば、彼は冷静な判断をしていたのです。

彼は親からやってくる期待を裏切る心配をする必要がなくなったことに安堵して、その後の人生を全く自由に生きることができたのですね。

それが彼を覚醒させたと言ってもいいのかもしれません。こうしたことを知ると、やはり癒しというのはこれまで培ってきたものを捨てていく作業だということがよく理解できますね。

執着が一番癒しの邪魔

私たちのマインドが備えている仕組みの一つとして、執着心というのがありますね。

この執着の根っこは防衛から来るのですが、要するに自分を守りたくて、何かにしがみつこうとするのです。このしがみつきを執着と呼ぶわけです。

もう助からなくていいとなったら、人間は執着がなくなって無防備となり、一切の争いがマインドから消えていくことになるのです。

普通に生きている限りそんなことにはならないので、私たちは死ぬまで何かに執着し続けることになるのです。

もちろんその執着の強さというのは増減するので、できれば減らして行けたらいいですね。

なぜなら、執着が強いとそれ以外のことを見たり聞いたりできなくなってしまい、出口が見えなくなってしまうからです。

執着が小さくならなければ、癒しを進めていくことすら難しくなり、癒しを進めていけなければ執着は小さくならない。

こうしたデッドロックに陥った人を時々見かけます。その場合は、人間の自然治癒力に任せるしかないですね。

そして実は最も頑丈な執着が最後に残るのですが、それは「私」という自我への執着です。

この執着が小さくなっていくことで、人は覚醒へと近づいていけるのですね。

エネルギーが可視化したもの

つい先日もこのブログで書きましたが、私はこの世界、この宇宙全体を「現象界」と呼んだりしています。

現象というのは個別の分離した存在があるというよりは、エネルギーの動きを可視化したものだとも言えるのです。

風が吹いて来た時に、小さな子供がそれを大きな袋に取り込もうとしていたら、かわいいなと思わず笑顔になりますね。

分別があれば、風というのは分離した個別の存在ではなく、空気の動きでしかないことを知っているからです。

子供が取り込んだ袋の中には、ただの空気が溜まっているだけ。そこには風を起こしていたエネルギーはもうありません。

海面に発生する波も同じです。海面を上下運動させるエネルギーを可視化したものが波なのです。

このようにして、私たちが生きているこの世界の全てがエネルギーが起こしている現象でできているというわけです。

つまりこの現象界にあるものは、一つとして独立して存在しているものなどなく、全てはエネルギーが可視化された現象に過ぎなかったのです。

あなたも私も例外ではありません。ビジュアル的にはあまりにも個別に存在しているように見えますが、実のところただの現象なのですね。

誰かが苦しみ、悩み、絶望してもそうした現象はそのうち消えていくのですから、元々深刻になる必要もないということですね。

見守るって無敵

自我(「私」)として人生を生きる当事者の側面と、それをただ見守る側面の両方があると思って下さい。

ただし、長い間その両者のうちの前者側として生きてきてしまったため、後者の側面をすっかり忘れてしまっていたのです。

少しずつ後者としての自己を思い出すようにしても、なかなか自我の勢力が強いために、後者を忘れがちになるのです。

最近になって、見守る側の自分に真になれているかは別として、言ってみればそのフリをじ〜っとしてみたところ、意外なことを発見しました。

自我の側の私は、自分のことを決して嫌いではなく、どちらかと言えば好きな部類だなと思っていたのです。

けれども、見守る側としての立ち位置に慣れてきた今、どうも自我が思っているほど愛しくも何ともないのです。

もっと言えば、他人の眼として自分のことを客観的に見てみると、あまり好きな奴ではないと思っていることが判明しました。

なんか別に一緒にいたくないなあと…。気難しいし、ワガママだし、理屈っぽくて面倒な初老なのですね。

救いはもう一度見守る側になってみると、当然ですがそこにはどんな判断もないので好きも嫌いもありません。

結局、自分を見る三つの立場によって、全く異なる自分に対する印象があったということです。

私の場合、自我だけが自分のことを好ましいと思っていて、第三者の目では全く好ましくは思っていなくて、見守る目がそのどちらでもないと分かったのです。

見守るって無敵ですね。

万年欠乏症

自我というのは万年欠乏症なのです。自我と欲望がセットなのはそのためです。つまりは、何かが足りない、欠落しているという感覚が拭えないでいるのです。

それが自我の本性です。なぜそうなのかというと、私たちの本質である全体性からみれば、個人として在ることは全体性から見放された孤児のようなものだからです。

その欠乏感とは、全体性へと戻りたい、それとまた元通りに繋がりたいという感覚に過ぎないのです。

そして実は私たちは今この瞬間も全体から乖離したことなど一度もないのですが、自我として生きることでそのことを忘れてしまったのです。

その結果、果てしなく深い個人であるという思い込みから目覚めようとすることなく、そこからやってくる欲望をただ満たそうとするようになったのです。

これがどれほどの見当違いなのか、冷静にみればわかるはず。この見当違いの営みのことを人生というのですが、真実に気づくまではエンドレスになるのも頷けますね。

自我の欲望はあなたに時空の広がりをもたらします。もちろん全てイメージに過ぎないのですが。

欲望があればそれを満たそうとして、思考の働きによって過去と未来が生まれ、そのプロセス全体が人生となるのです。

あなたが自我を傍に置いて、全体性に気付いたなら、求め得るもの以上のものが手に入ったことになり、全ての欲望は消滅していくでしょうね。

人生はドッキリカメラ

テレビ番組の中で、概ね視聴率を稼げる番組と言うのが昔からあると思うのですが、私の中ではドッキリカメラがその筆頭に挙げられると思います。

子供の頃からよく観ていましたが、少しずつ趣向を変えてはまたやるのです。もうかれこれ50年以上は、何らかのドッキリテレビ番組を観てきましたね。

何がそれほど面白いのか自分でもイマイチ分からないのですが、ドッキリを仕掛けられた人が、ドッキリと知ったときのあの安心する顔が見たいのかもしれません。

実は私たちが日々生きている人生も、ドッキリテレビに似た要素がたぶんにあると思うのです。

人によってその人生は様々ですが、大抵の場合は人生物語の中にどっぷりと浸されてしまうのです。

そして必死になって、その難題を解こうと頑張るわけです。テレビのドッキリカメラと違うのは、定期的に種明かしをされているのに気づけないでいること。

実はドッキリでした!と言う天からの声が聞こえないくらい、人生物語に熱中してしまっているのです。

そして何かこれおかしいなと感じだした人から、天の声に耳を澄ますようになるのです。そしていつかはその声を聞いて、な〜んだそうだったのかとホッとするのです。

どうせホッとできるなら、早い方がいいに決まっていますが、人によってはドッキリにハマった状態を楽しんでいたいと言う人も多いのでしょうね。

いずれにしてもいつかは気付かされる時が必ず来るのですから、どちらでもいいと言うことなのでしょう。今日も天が仕掛けたドッキリを楽しむとしますか。

存在していて存在しない

私はいつの頃からか、この世界、この宇宙のことを現象界と呼ぶようになりました。あらゆる現象が起きては消えていく世界だからです。

それは私たちにとっては全く知ることのできない何処かからやってきて、現象として生じた後、またその知ることのできない何処かへと消えていくのです。

その知ることのできない何処かのことを、「無」と呼んだり、「空」と呼んだりするのですが、所詮は絶対に知られ得ないものです。

現象界においては、何かが生まれて存在することになり、いずれは消えてその存在がなくなるのです。

つまりは存在するか存在しないかの世界ですね。そう捉えるなら、「空」と言うのは存在するでもしないでもないのです。

どちらでもないのですが、だからこそ私たちの思考では決して把握することができないのです。

あなたの本質は、今この瞬間でも実はその「空」にあり、この現象界にはありません。だからあなたは生まれたり消えたりしないのです。

一方で、あなたがこれが私だと信じてきた自我は、残念ながら現象界に属しているので生まれては消えていくのです。

私たちは存在とは確固としたものだと信じていますが、存在ほどあやふやなものはありません。それはちょうど海面の波しぶき程度のものと同じだからです。

あなたの脳に立ち上がる全ての決意信号は、その「空」からやってくるので、脳神経科学者にはそれが理解できないのですね。

てことで、あなたの独自の決意なんてただの思い込みの産物であって、全ては「空」からやってきたものでこの現象界は回っているのです。

じゃあもっと気楽に生きようじゃないですか〜