信頼と信念

この社会を生き抜く上では、信念を持って生をまっとうしようとすることが良しとされていると思います。

一つ強い信念を持っていた方が、一本筋の通った人物のように思えるし、これといった目的もなくその日暮らしをしている人よりも断然評価が高くなるはずです。

この信念ですが、言い換えると強く信じ込むことと言えます。強すぎて凝り固まった思考を信念と呼ぶのです。

つまりはマインドのものだと分かります。信念が広がって主義主張のようになっていくことも多々あるはずです。

だから信念がコロコロ変わってしまうようなら、人として信用することができなくなってしまうはずです。

一方信頼というのは、信念とは似ていて非なるものです。信念が思考から出来上がっているのに対して、純粋な信頼は一切思考を含みません。

つまり信頼には信頼する理由というものがないのです。理由なく沸き起こるものといったら、愛もそうですね。

この二つはとても似通っているといつも感じています。両者ともあなたの存在の内奥からやってくるものです。

日々信念に基づいて生きるのか、信頼とともに生きるのか、この二つは全く人生の風味が異なるものとなるでしょうね。

好みのやり方を見つける

この世界の法則として誰もが知っていることですが、それは必要とされるものが発展し、不必要となったものは消滅するということです。

スマホが広まったおかげで公衆電話がすっかり影を潜めてしまったように、これは当たり前の現象ですね。

芸能界でも似たようなことが起きます。人気絶頂の時には、そのタレントさんは大活躍しますが、人気に翳りが出てくると活躍の場が消えていくのです。

自然の摂理とも言えますね。こうしたことは私たちの自我についても言えるのです。自我の活躍の場が与えられているうちは、自我はエネルギッシュに生きるのです。

戦いや防衛といった自我の真骨頂である活躍の場が用意されている間は、自我は安泰なのです。

一方で自我にはその能力のない分野が日常に取り入れられると、自我は活躍の場を失い、次第に衰退していくことになるのです。

たとえば瞑想や座禅によって、思考から離れていくこと。あるいは、受容性をどこまでも広げていくこと。

受容性を極限まで追求して、完全なる明け渡しの領域まで進んでしまうと、もう自我は働く場が無くなって息絶えてしまうのです。

もちろん自我は、そんなことになる前にあらゆる手を打って自我の存続を果たそうと猛烈な抵抗をしてきますので、自我が消えていくことはまずないでしょう。

私の好みのやり方は、自我をずっと見続けるという方法です。黙ってただ見守ることで、自我にエネルギーが行かなくなっていく感じがします。

それとこの方法は、何か修行っぽくなくて、いつでもどこでも実践できるお手軽感がいいなと思っています。

思考に巻き込まれないために

私たちはいつも思考にまみれてしまっています。それは意識的であることが苦手だからです。

もしも充分に意識的であるなら、その時には思考はそれほど入り込む余地はないはずなのです。

自我そのものが思考からできているので、思考が入ってこないことにはどうしようもないのです。

そのために、思考が得意な分野を起こさせて、それで思考が目一杯活躍できるようにと仕向けるのです。

その一つが自己防衛ですね。防衛しようとすれば、必ず思考がグルグル回ってああでもないこうでもないが始まるのです。

こう書くとあくまで思考そのものが悪者みたいに思えてきますが、実は思考それ自体はいいも悪いもありません。

問題は思考に巻き込まれてしまうことにあるのです。だから思考がやってきたら、それを見守る練習をすることです。

意識的であるなら思考がやってきたことに気づくことができるので、その思考を観ることもできるのです。

思考はあなたを土俵に巻き込むことができなければ、いずれは静かになっていってしまいます。

思考に対しては、無意識になって巻き込まれるか、意識的になって見守るかのどちらかだと理解することですね。

混乱を受け入れる

私たちは自分が正気だと思いたいのです。狂ったりしてはいないし、物事を確かさを持って把握できているというところにいたいのです。

それは安心をもたらすからですね。この確かさというのは、これまでその人が培ってきたワールドの中に居続ける限り、保たれるものです。

けれども、癒しというのはこれまで培ってきたものを一旦全て脇へ置いてみるということでもあるのです。

そうしなければ、新しい風がマインドの中に入ってくることができないからです。ところがこれはとても不安だし怖いものです。

新しい風が入ってくると、確かさが消えて反対に混乱が起きてくるからです。自分の理性では太刀打ちできない危なさを感じるわけです。

本当に人を好きになった時のマインドの反応に似ているかもしれません。これまでの自分の正しさ、考え方、生き方が根こそぎにされるのです。

だからクライアントさんから、「癒しを始めてからなんだか混乱していて、軽いパニックにもなっています。」と言われると、陰でガッツポーズを決めてしまいます。

新しい生き方とこれまでの生き方が戦ってグラグラ揺れているのです。これはセラピスト冥利に尽きますね。

混乱はいつまでも続くものではないので、それも受け入れてあげてくださいね。

マインドが二元性を作っている

私たちはそれとは知らずに二元性の世界に生きているのです。裏のない表だけのコインは絶対にないし、明るいところがあれば必ず暗いところがあると言う具合に。

愛があれば憎しみがあるように、どんな事象であれ必ずや愛憎、昼夜、善悪、正不正、長短のように二元性としての特徴があるのです。

ところがこうしたこの宇宙の二元性というのは、実は私たちのマインドによってそのように見えるだけなのです。

つまりは、この世界は二元性で出来ているのではなく、私たちのマインド自体が全てを二元性として捉えていると言うことです。

それはマインドは思考の塊であるため、非二元を想像することができないのですね。だから自分自身も二元性の様相を呈しています。

それこそ天使のように美しいマインドの部分もあれば、その反対に悪魔のような部分もあります。

どちらか片方だけしかないマインドは存在しません。その理由は簡単で、両方があることでマインドとしての仕組みが成立するからです。

逆に言ってしまえば、片方しかない状態ではマインド自体が消えてしまうのです。このことを本当に深く理解することです。

これは世界中の全ての人のマインドに共通する事実です。あなたのマインドも例外ではなく、聖人のような部分もあれば罪人のような部分もあるのです。

このことをしっかり認めることができたら、もう自分を責める必要がなくなってしまうことに気づくはずですね。

誰のマインドもピンからキリまでの品揃えを誇っているのです。どうですか?笑えてくるでしょう。じゃあもう気楽に生きていくことにしませんか?

お金は中立

幼い頃にお金がないことで家族が辛い思いをさせられていると感じると、お金のことを嫌いになってしまうことがあるのです。

お金が足りないばっかりに、お母さんが大変な思いをしている、お父さんが毎日苦労して機嫌も悪い等々。

本来こうしたことはお金が原因のように見えて、実は一人ひとりのマインドの病みが原因なのです。

そんなことには家族の誰も気づくはずもなく、そこで生まれ育ってしまえば、その子はお金を嫌いになったり、敵対視したりするようになるのです。

大人になって、自覚の上ではお金が好きだし、お金をもっと欲しいと願っているのですが、マインドの奥にお金嫌い、お金が憎いがあればそれが悪さするのです。

お金が嫌いであれば、お金は自分のところには集まってこなくて当然なのです。お金を憎んでいれば、お金への復讐とばかりにひどい浪費家になるかもしれません。

場合によっては借金を負わされることにもなりかねないのです。なんとなく自覚があるようでしたら、お金に関連した昔のエピソードを思い出してみることです。

そして、お金にはどんな罪もないと言うことをまずは大人の自分が理解することです。お金を攻撃する代わりに、自分の怒りを病んでいた大人のマインドに向け直してあげることです。

そしてお金は中立だと言うことを再度明確にすることですね。

宗派に興味がない

仏教の経典が7000もあると聞いて、本当なの?と思わず疑ってしまったのですが、それこそが沢山の宗派を生み出した原因らしいですね。

つまり沢山あるお経の中で、どれが一番大切なことを言っているのかということで意見が分かれてしまい、そこから宗派が生まれたのだとか。

私などは家の宗派が何だったのか、父親が死んだ時に初めて知ったくらいなので、全く偉そうなことを言える立場ではないのですが。

それでも少し口を挟みたくなるのは、元々お経の内容がどれほど有難いことが書かれていようと、それは真理そのものではないのです。

真理は思考(言葉)で表現することなど不可能だからです。それが分かっていたなら、少しぐらい好みが違ったからと言って宗派を作るのは解せないのです。

私だったら、あの高僧のところで修行がしたいとか、あのお寺では沢山の弟子が覚醒しているなどでお寺を選ぶのであれば、充分にありだなとは思うのです。

お経をどれほど繰り返し唱えたところで、覚醒に導かれるとは思えないのです。メジャーなほとんどの宗教はそれぞれの教典を持っています。

それがどうも私には合わない感じがしますが、皆さんはどうですか?

繊細さは問題ではなく、防衛が問題

敏感で繊細な人にもいろいろなタイプがあるのでしょうけれど、概して言えることは感じやすさを持っているということですね。

その感じ易さというのは、トレーニングすることで鍛えることもできるものもあるのです。

たとえば、ワインのソムリエさんなどは厳しいトレーニングの末に、微妙なワインの風味などを嗅ぎ分けることができるようになったのですね。

実は HSP と呼ばれる超敏感タイプの人であっても、生育環境によってその感度が高められた可能性も高いのです。

元々が鋭敏体質で生まれた子供が、家族の中でゆったりと安心することができない過酷な環境で育ってしまうと、どうなるか?

それはもちろんその敏感な感受性と防衛力が合体することで、その敏感さが異常に発達してしまうのです。それは生き残る自我の作戦だったわけです。

ここで間違ってはいけないのは、何事に対しても敏感に感じることが問題なのではなく、それに対して過剰反応してしまうことが問題なのです。

その過剰反応とは、幼い頃の過剰防衛から来ることは明らかです。その反応さえ小さくしていくことができれば、ずっと生きやすくなるはずです。

繊細であることを後悔するのではなく、防衛をどうやったら小さくしていけるかと向き合っていくべきなのですね。

覚醒したらどうなるの?

セッション中に時として、人は覚醒してしまったらどうなるのですか?という質問をいただくことがあります。

この疑問はきっと多くの人の中にもぼんやりとあるのだろうと思います。人生というのは、意識せずとも自分ありきでやってきたからです。

覚醒して自分という個人がいなくなった状態など、とてもじゃないけれど想像することも難しいわけです。

私自身のマインドの中にもしっかりとした自我が健在なので、覚醒したらこうなりますということをスラスラお話しすることはできません。

ただ勝手に類推することは可能です。たとえば心理的な自己防衛は消えてしまうでしょうね。なぜなら防衛する必要のある自分がいないからです。

じゃあ毎日の生活はどうなるのでしょうか?全く変化しないかもしれないし、変わってしまうこともあるかもしれません。

死を恐れることもなくなります。死を恐れていた自分が消えてしまうからです。このように考えていけば、なんとなく理解できそうです。

マインドは必要最低レベルの機能を残して、小さくなってしまうだろうことも想像できます。

罪悪感、嫉妬心、競争心、向上心、絶望感、焦燥感、こう言ったあらゆる自我が持っていた感覚も自我と一緒に消えていくはずです。

自我とともに生きていた頃の記憶は残っていますので、かつて自分と呼んでいた奴がいたことを忘れることはないはずです。

覚醒は自我の死を意味することなので、それを望む自我はいないはずですが、不思議なことにそれでも覚醒を強く望むこともあるのですね。

えんとつ町のプペル

このブログをずっと読んで下さっている方は薄々ご存知かもしれませんが、私の中に osho に対して並々ならぬ気持ちがずっとあるのです。

彼はもうすでにこの世の人ではありませんが、もしも生きていたなら絶対に彼の弟子になりたいと思ったはずです。

弟子と言っても、いわゆる何かを教えてもらうための子弟関係ではなく、彼には命も含めて全てを捧げられるという関係性においてのマスターとしてです。

一ミリも疑うことのない深い信頼を感じることの悦びが、何事にも代えがたいことを知っているからです。

それもあってか、彼以外の人にはとりあえずあまり興味を示さない私がいるのですが、それとはまた別に自分と対極の生き方をされてる人にも関心を持つこともあります。

それがシンプルに憧れなのか、それとも羨望なのかは分かりませんが、ここ数年ずっとウォッチしている人物がいるのですが、それは意外かもしれませんがキングコング西野さんです。

私の中で彼はもうすでに英雄でしかなく、きっと地球人の中に紛れ込んだ宇宙人なのだろうと考えているくらい。

私利私欲がほとんどなく、異常なほどのショートスリーパーだし、私が1000年かかっても届かないレベルの努力家なんですね。

そんな彼が長年準備してきた映画「えんとつ町のプペル」が12月25日にいよいよ公開となるらしいです。 #えんとつ町のプペル

その封切りを前に昨日、MV もYouTube 上に公開されました。何だかすごいクォリティで見応えがあります。 https://youtu.be/StVsfO0lVok

彼にもマインドはあるのでしょうけれど、極端に防衛の要素が少なくて、目一杯生きている人ですね。きっと死ぬことにこれっぽっちの恐怖も持っていないでしょうね。