筋トレ中の声を聴く

昨年から筋トレをするようになったのですが、なかなか自分が望んだようには筋肉肥大してくれないものですね。

それでもほんの少しずつ、まるで亀の歩みのようにゆっくりゆっくり、じわじわと筋肉が増えてきました。

ところが先日ある理由があって、一週間程度筋トレをお休みしていたのですが、そうしたら見る見るうちに筋肉が落ちてきてしまいました。

増やすのは亀の歩みのように遅いのに、落ちるのは本当にあっという間だったので、呆れるやらびっくりするやらで。

休む前の状態に戻すのに数週間はかかるのかなと思うと、何だか脱力してしまいます。

とはいうものの、筋トレをしているととても面白い現象に出会えるのです。それは自分のマインドの中で張り合う複数の声の存在。

もう一回できるぞと誰かが言うと、今日はもう無理という声が聞こえてきたり、あるいは誰かが見ているから張り切ろうと言うのもいたり。

本当にさまざまな声がやってきて、その瞬間一番声のデカイ奴が主導権を取るのですが、誰が勝つかは全く分からないのです。

彼ら複数の声の攻防を聞きながら、そのどれもを愛おしく感じながら明日もまた筋トレするのでしょうね、たぶん…。

マインドこそが苦しみを生む

正確にはマインドの中にある自我の仕組みこそが、この世界のあらゆる苦しみを生み出す張本人だということです。

これは何かの例え話しでもなければ、方便として言っているのでもありません。本当に自我がなければ苦悩はないのです。

自我の特徴は、とにかく自分自身を正直な目で見るのが苦手ということです。だからいつも外側に向けて気を張って生きているのです。

そのために、苦しみの原因は常に外側にあると信じているのです。外側の問題を解決すれば、苦しみはなくなると思い込んでいるのですね。

だからこれが苦しみの原因だと思うものがなくなった時、一過性ではあるけれど確かに苦しみは無くなるのですが、またいつの間にか苦しみはやってくるのです。

それこそが、苦しみの原因は外側にはなく、内側のマインド(自我)にあったという証拠です。

この「私」こそが、あらゆる苦しみの大元だったと気づくことです。「私」という自我がある限りは、外側がどうなろうとも苦しみはもれなく付いてくるのです。

さあじゃあどうすればいいのか?まずは、苦しみの原因が「私」にあると理解した上で、だからと言って「私」を敵対視する必要はないと知ることです。

なぜなら、自我の仕組みがそのように備わっているのは、「私」のせいではないからです。それは初めからそのようになっているのです。

あなたがするべきことは、ただあなたの中にいる「私」を見守る側になるように練習することです。

見守る=距離ができる、ということで、自我の煩悩愚息の凡夫さ加減が滑稽に思えてくるのです。

もしも幸運が巡ってきたら、見守る側のあなたは生まれることも死ぬこともない、真の自己だと気づくことになるでしょうね。

煩悩愚息の凡夫

私たち人間というのは、自分にとって都合の悪いことや見るのが怖いようなことからは、目を背けてしまう傾向がありますね。

自分という奴はあれがダメだし、これもダメ、といった否定的なものを見たくないし、何とかしてそれを誤魔化そうとしたり、改善しようと努めるのです。

けれども、昔から人間には百八つの煩悩があると言われるように、誰も彼も例外なく欲望にまみれているのです。

自分はそれほどではないはずと思っている人も多いかもしれませんが、みんなドングリの背比べなのです。

というよりも、備わっている煩悩に違いはないということ。どの煩悩(欲望)を強く出しているかという色合いが少しずつ違うだけです。

最近、「煩悩愚息(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」という言葉にハマっています。煩悩まみれのどうしようもない奴というくらいの意味だと思うのですが、何だか気持ちよくないですか?

自分は割といい人だと思うよりも、煩悩愚息の凡夫と認めてしまった方が清々しい感じがするのは私だけでしょうか?

それを受容するのです。自我というのは、苦しみがないと生きていけないということも受容するのです。

そこが出発点になるととても気が楽です。出発点であると同時に、終着点でもあり、所詮は自ら煩悩をなくすなどということは不可能だと割り切ることです。

しっかり諦めがついたら、あら不思議。気のせいかな?何だか欲望が小さくなってきた感じがします。なくなりはしませんけど…。

自我を見守る側で生きる

世の中には、「人とはどう生きるべきか」ということについての様々な教えが溢れているように思いますね。

歴史的に見れば、あらゆる宗教には教義があって、大抵はそうした教えがあります。戒律なんて言い方もあるくらいですから。

いわゆる守らねばならないルールのようなものですね。あるいは、そこまでシビアなものではないにしても、道徳や倫理といった概念も多数あるのです。

そうしたものを目にするたびに、正直なんでそんな当たり前のことをもっともらしく説教するのかなと感じてしまうのです。

また勝手にルールを決めて、それを守らなければ人間としてはダメなのだと断定されてしまったりもします。

そうした理想的な人間の振る舞いとは何か?を追求することで、人間が根本的に持っている苦しみから解放されるのならいいのです。

けれども、個人的には逆のような気がしています。自分への期待値を高めれば高めるほど自己嫌悪が強くなり、自己否定感に苛まれるのではないのかなと。

私のやり方は、もっといい自分になろうとする代わりに、できる限りそんな自分を見守り続けるというものです。

自我として生きている限り、苦しみはなくならないという深い理解があれば、それを見守る側に自然に向かうのではないかと感じています。

自分の内側は空っぽ

確か小学生の頃だったと思うのですが、夕食の時に正面に座っていた父親に対して、「僕は何かに生かされている気がする」と言ったことがありました。

父親は変なことを言う子だなといった感じで、そのことについてはそれ以上触れようとはしませんでした。

私は子供なのに、無邪気にそれを言った訳ではなくて、きっと父親にはこの意味が分からないだろうことを見越して、わざと言ってみたのです。

ホント、可愛くない子供ですよね。でも今になってみると、その頃からきっと何かを感じてはいたのだと思うのです。

何かが勝手に動かしている、自動で物事が起こりつつあるという感覚です。もちろんそのように言語化できていた訳ではありません。

大人になってこの世界には誰もいないということ知り、だからこそ私たちには自由意志というものはないということも知りました。

そういった情報をもとに、自分自身に対してそこを見つめてみたところ、どうも本当にそのような感覚があるのです。

私たちの中心には何もありません。空っぽなのです。何か大切なものを失ったりして心の中が空っぽだと感じることがあるかもしれません。

その感覚は本物なのです。普段はそう感じないようにさまざまな工夫をして、その空虚さを紛らして生きているだけなのです。

もしもあなたが自分の内側は空っぽだと感じているなら、それは何も悪いことではなく、それが真実なのです。

それが辛すぎるなら気晴らしでも何でもしてください。けれども、無理にそれを何とかしようとせずにいられるなら、そのままにしておくことです。

真実を見ているだけなのですから。誰かから見られる対象としての自分などいないし、防衛しなければいけない自分もいないのです。

そのことは物凄く気持ちを楽にさせてくれるはずですね。

誰もが自分本位に生きている

幼い頃からずっと、素直な自己表現や感情表現を抑えて、なるべく他人の意向に沿うように生きてきた人がたくさんいます。

「ノー」をいうことができず、歯を食いしばって耐えて我慢して、それでも笑顔を絶やさないようにして、頑張ってきた人です。

挙げ句の果てに、セッションでは私から「それって奴隷のような人生ですね」なんて酷いことを言われるのですから、たまったものじゃありません。

そういう人は、常に他人を優先して生きてきたと思い込んでいるのです。心当たりがあるなら、よく考えてみて欲しいのです。

実は、他人を優先しているように見えて自分を優先しているのです。他人の気持ちを優先しなければという自分の思いを優先しているということです。

もしも本当に、他人を優先して生きているのなら、自分を優先してくださいという私の言葉を優先できるはずです。

けれどもそう簡単にはいかないのです。それが自分を優先している明確な証拠だと分かればいいのです。

他人を優先しているのは、形だけ、表層に過ぎません。そのように見えるだけです。内実はずっと自分を優先してきたのです。

自分を優先する、自分本位の生き方に変えるというのは、名実ともにそうするということだけなのです。

真に他人優先で生きることは、十二分に自分本位に生きた人だけがそのようになる可能性があると理解することですね。

自己と自我の違いを見る

以前確かこのブログでも書いたことがあったと思うのですが、デカルトさんの有名な言葉に、「我思う、故に我あり」というのがありますね。

あれも疑ってこれも疑って、どれもこれも不確かなものばかりだけれど、最後にこれだけは残る。それが疑っている自分の存在だ、というわけです。

私からすると、この考察は正しいとも言えるのですが、正しくないとも言えてしまうのです。

それは、デカルトが言った「我」というのは自我のことだということです。彼は自我こそが私自身の存在そのものなんだと信じていたのでしょうね。

驚くべきことに、平凡な日本人の私がこのデカルトさんの言葉をだいぶ上から目線で見ているということ。

彼にとって、自分の本質というところへの着眼がなかったということです。「私」という自我は決して自分の本質ではない。

自分の本質のことを便宜上私は「自己」と呼ぶことにしています。ですから、自己と自我というのは、全く異なるものを指しているのです。

私が何も思わない状態であれ、ここには何かがあることだけは分かるのです。瞑想状態では、私という個人は消えてしまうけれど、何かが残るのです。

それが自己です。自我は思考からできているので、常に思考を寄せ集めてはその中でもみくしゃになって生きようとするのです。

だからその思考をかい潜って静かな眼で感じてあげなければ、自分の本質である自己を感じることはできません。

余裕のない人、テンパっている人、あれこれと戦っている人には、なかなか本質を感じることが難しいのは当然ですね。

マインドの誘惑に乗らない

私たち人間には、日々さまざまな誘惑の手がやってきます。たとえば、勉強しようとすると本棚にある漫画本を読みたいと言う誘惑に駆られるのです。

ダイエットに励んでいるのに、テレビで美味しそうなスイーツの番組を観たら、涎が垂れてきて我慢できなくなってくるのです。

禁煙をしているときに、友人とお酒の席で盛り上がっていると、お前も一本吸えばと誘われて、ついつい…。

誰もが日常的に経験していることですね。こういった外側からやってくる誘惑を完全になくしてしまうことはできません。

けれども、外側からやってくる誘惑というのは、実はあなたのマインドが内側から手招きして呼び込んだものだと理解することです。

あなたをあらゆる誘惑の中に入り込ませているのは、他でもないあなたのマインド自体だということです。

マインドはあなたが誘惑に乗ってくれたら、人生は思い通りにならない辛いものだと思ってくれることを知っているのです。

この思い通りにならないことこそが苦しみであり、あなたが苦しむとマインドはこれで存続できると安心するのです。

これがマインドの働きなのです。もしもあなたがマインドがしつらえた誘惑に気づいて、それを愚かなことだと知って放っておくことができたら、マインドは静かになってくれるのです。

何もなさに満ちている

子供の頃と大人になって歳を重ねて来た今との一番の違いは何かというと、色々な言葉を使えるようになったことかもしれません。

自分という存在は、昔も今も何も変わっていないと分かるのですが、それでも表現方法が豊富になったおかげで、それが自分へのヒントともなるのです。

たとえば、このブログでは「全体性」という表現を時々しますが、子供の頃にはそんな言葉を知りませんでした。

この言葉のおかげで、今ではその感覚は般若心経で言うところの「空」だったり、「無」と言うことと同じだと分かるのです。

そしてその感覚はきっと子供の頃からどこかしらにあったものだったはずですが、表現ができなかったばっかりに自分の中で注目されずにきたのでしょうね。

言葉にできると、それは決して真実ではないのですが、この言葉を介することでそれへの感覚が明確になるという利点があるのです。

子供の頃に「空」と言われても、それは単に空っぽなこと、空虚なものを連想するだけだったと思います。

けれども今ならそれは決して空っぽではなく、無で満ち満ちているという感覚があるのです。

無から全ての現象が起きてきて、またそこに戻るというとすぐには理解できない感じがしますが、無はとにかく満ちていると気づけば容易に納得できるのです。

この何もなさに満ちていると言うことが、いつも自分のバックグラウンドにあるなら、安心して全てを見ていられるように感じますね。

罪悪感をゴミ箱へ

私たちは、これはくだらないもの、これはバカバカしいものだと分かると、相手にしなくなるか、関心をなくしてしまうものです。

それに関わっていること自体が愚かしい気持ちになって、自分から退散してしまうはずなのです。

もしもあなたが怒りという感情に対して、愚かしいものだと理解するなら、それを一瞬だけ味わって後は放っておくはずです。

その反対に、怒ってはいけないとか、怒ることは悪いことだと思っているなら、大変なエネルギーを使って、わざわざそれを抑圧することになるでしょう。

つまり怒りに対してくだらないものだとは思っていないということを物語っているのです。

もしもあなたが罪悪感を感じるのがとても辛いので、それから逃げて自己表現を抑えてしまうなら、罪悪感はバカバカしいものだと思っていないということ。

罪悪感はいかなる場面においても、くだらないもの、どうでもいいものだと知っていたら、ただ黙ってゴミ箱に捨てるはずだからです。

それをしないということは、罪悪感に関心があるということです。関心がなければ、そんなものは放置しておくはずだからです。

この視点から自分の中にあるものを見つめ直してみてください。こんなものはバカバカしいものだと気付けば、いずれは小さくなっていくはずですね。