興味の対象は何か?

自分以外の誰かのために生きて、不幸になった人を見たことがないのと同様に、自分のためだけに生きて幸福な人も見たことがありません。

そう考えると、私たちは随分と微妙な立場に立たされているんだなと思うのです。自分を幸せにしてあげようと頑張ると、その結果は幸福にはなれなくて、自分に無頓着であると不幸にはならないというのですから。

もっとも、この世的な幸福というのは、人によって違いがあるのでしょうから、画一的には言えないのかもしれませんが…。

表現を変えて言えば、自分のためだけに生きている人は、心が満たされるということがなく、誰か(何か)のために生きている人は、きっと満たされるということです。

前者の人生をひたすら生きてきた私自身を例にとっても、そのことは明らかなように思います。とにもかくにも、自分以外の人やものに殊更の興味が涌かないのです。

だからこそ、何をやっても満たされるという経験をしたことがありません。自分をできるだけ幸せにしようと、思えば思うほど、どうやっても満たされないのです。

つまり、自分の幸不幸を考えている限りは、望みはないということです。この逆説的な事実をそろそろ受け入れなければならないのでしょうね。

しかしながら、私だって自分以外の何かに強く興味を抱くことができたなら、違った人生を生きることができたのかもしれないと思うのです。

それならば、なぜ興味を持つことができないでいるのかについて、見つめる必要がありそうです。それで、今何とも簡単に分かってしまったことがあります。

それは、私の心の根っこの部分に、何がどうなろうとも、それはただそういうことだ、というのがあるようです。それは言い換えれば、ただ真実を知りたいということです。

それ以外のことには、あまり興味を持つことができないということなのかもしれません。こんな人生ですが、残された少ない時間の中でどうなっていくのか、それはちょっと楽しみかもしれません。

「なんちゃって瞑想」による実験

私は人知れず、変てこな実験をするのが好きです。実験といっても、何か努力が必要なことだったり、人に自慢できるようなものではありません。

というより、わざわざ他人に伝えるようなものではありませんし、きっとあまりその意図を理解してはもらえそうにないというのが本当のところです。

さきほど、やっていた実験はそんな中でも、まだまともな方だと思えるので、少しだけお話ししてみようと思います。

いつものように、お手軽で気ままな「なんちゃって瞑想」をやっていたときのことです。この「なんちゃって瞑想」というのは、どんな状況でもできて、時間もかかりません。

したがって、瞑想とは名ばかりですが、それでもちょっとした実験をやるには、利用価値があると自分では思っています。

それをやると、自分は意識だという感覚が強くなり、その意識である自己が突然広がったような感覚になるのです。

その感覚に注意を向けていると、そこには恐怖というものが入り込む余地がないということが分かります。恐怖とは縁がないのです。

先ほど、夜遅く一人で真っ暗な部屋でそんなことをやっていると、ちょっとした変な物音が聞こえてきたのですが、その瞬間に何とも言えない恐怖がやってきました。

それまで、意識には恐怖はないなあなどと思っていたはずなのに、その意識の広がりを見ていながらも、恐怖を感じたのです。

そのことに興味を覚えたので、今度はその恐怖に注意を向けてみたのですが、そうするとその感覚はどうも背中の辺りの感覚とリンクしているようだと分かったのです。

つまり、背中という最も無防備な身体の部分に意識が向いた状態になったということなんでしょうね。恐怖は、身体と一緒にしか湧き上がってくることができないということです。

それを確認してから、もう一度自分の意識に注意を向けていると、やはり恐怖は少しずつ消えていってくれました。世にも恐ろしい怪談話やホラー映画を観たあとでも、この実験が有効かどうかは定かではありませんが…。

いつか、機会があったら試してみようと思っています。

興味を持つだけでは真理の探究は続かない

一般論かも知れませんが、生き生きと生きている人というのは、何かにつけて興味を持って毎日を暮らしているんだろうなと思うのです。

だから、「興味津々」という言葉には、とても魅力的な響きを感じてしまいます。興味を持つということは、その対象となることに並々ならぬ関心を抱くということです。

好きな人ができると、人生が輝きだすのもそういうことなのでしょうね。子犬や子猫のエネルギーが生き生きしているように感じるのも、見るものすべてが新鮮だからなのでしょう。

けれども、単に何かに興味を持つだけであれば、ごく当たり前のことです。それだけではなくて、その興味がどれほど長く続くかということが鍵であり、それは人によって大きく違いが出てくるものです。

例えば、何かの楽器に興味を持って練習し出すことがあっても、いずれは必ず壁のようなものにぶち当たることになります。

初めのうちは練習すればするほど、上達していくことに気をよくして、益々興味が涌いてきたりするのですが、ある程度まで上達すると、それ以上上手にならなくなってしまうといったことが起こってきます。

必ずやってくるそうした壁を、ものともせずに突き進んでいく気概というのか、そういうエネルギーというのはやはり興味の深さによるところが大きいのではないかと思うのです。

「真理の探究」というジャンルがあるのであれば、そうしたことへの興味を継続させるためには、単なる興味を越えた自由への渇望とも言うべきものが、是非とも必要なんだろうと感じます。

なぜなら、普通は興味を失わずに突き進み、あらゆる壁を乗り越えた先には、越えることができた人だけが宝物を手に入れることができると分かっています。それは、言わば一芸に秀でた人になれるわけです。

けれども、真理の探究だけは話しが違うのです。なぜなら、真理の探求が行き着くところ、そこには真理を手に入れられる誰もいないというオチが待っているからです。

興味を持って続けた先には、何の報酬も待っていてはくれないわけです。それが本当に分かったときに、真理への渇望が続くのかは疑問です。

だからこそ、真理を探究している自分がいなくなるという、その恐怖を徹底的に見つめ続けることが必要になるのでしょうね。それはもう、神の恩寵に頼るしかありません。

相手によって態度を変えない

学校を卒業して社会人になったとき、私は自宅から徒歩で通える距離のところにある、某企業に勤めていました。

就職活動をしているときに、自分が希望する業界などはまったくなくて、何をしたいのかも分からないまま曖昧な気持ちで会社選びをしていたのです。

何と驚くことなかれ、就職先の企業の条件として重要だったのは、通いやすいこと。結局、その目論見がうまくいって、そこそこの上場企業でしかも徒歩通勤できるところに入社したのでした。

電車にも乗らずに、しかも設計の仕事だったので、ほとんど社内にいるため、背広を着ることも滅多になくて、会社の作業着を着て、毎日サンダルで家と会社の往復でした。

一般的な若い人たちからしたら、退屈で刺激の少ない毎日というように見えてしまうでしょうね。けれども、自分にとっては、こんな便利な環境はそうそうないだろうと思っていました。

ところが、一つだけちょっと困ったこともあったのです。それが、今日の本題に繋がることなのですが、自宅から会社までは歩いて15分くらいで着いてしまうのです。

その歩いている間に、デレっとした家の顔から、真面目な会社員の顔へと変身しなければならないことに気づいたのです。

何か考え事をしていて、気づいたときにはもう会社に着いていたということがあったのですが、そのときは少し焦りました。気持ちがシャキっとなっていなくて、このままでは仕事ができないと感じたからです。

つまり、自宅にいるときの自由気ままな自分と、職場で挨拶したり、仕事をするときのキリっとした自分とを明確に使い分けていたのです。

そうしないと仕事の効率が悪いということもあるかもしれませんが、本当の理由は人との関わりに支障をきたさないための配慮だったのです。

特に社会人になりたての頃などは、自分が一番年齢が下ですから、すべての職場の人に対して敬語で接しなければならなかったのです。

これに気づいたときには、一度電車などに乗って、自然と気分を変えられるほうがいいということもあるんだなと思ったのです。

いずれにしても、自分は相手によって、意識的に自分の態度を変えていたということですね。そのとき、何だかすごくつまらない人生のように感じたのを覚えています。

最低限度のルールやマナーを守るのは、いたって当然のことと思うのですが、本質的には誰が相手であろうと自分のままで向き合うことができたら、気持ちいいはずです。

年齢を重ねてくると、確かに少しずつそのようになってくるものです。それでも、相手によって自分の態度を必要以上に変化させていると気づいたときには、なるべくこのままの普段の自分に戻るように心がけています。

いつも、誰が相手であっても自然体で、自分らしく接することができるといいのでしょうね。

対象と一つになれば、それは消滅する

私たちが認識できるものとは、何らかの対象物なのです。つまり、認識する主体としての自分があり、その向こうに認識されるべき対象があるということです。

認識するとは、対象物そのものを真に知る代わりに、その対象物に関する属性や何らかの情報を手に入れるということです。

その対象物は、自分の外側にある物理的な何かであるかもしれませんし、内面にある思考や感情である場合もあるかもしれません。

いずれにしても、知覚したり味わったりする対象であれば、それらに関して認識することが可能となるのです。

それでは、主体である自分と対象物の距離が近づいて、とうとう一つになってしまったとしたら、一体どういうことになるでしょうか?

それは明らかに、主体である自分にとっての対象物は消滅してしまうことを意味します。あるいは、消滅しないまでも、その存在を認識することはできなくなるということです。

なぜなら、それはもう対象ではなくなってしまうからですね。ただ、自分の外側にある対象物と一つになることは原理的に不可能ですね。

けれども、内面にあるものとは究極的には一つになってしまうことが可能なのです。そのいい例として、感情を見てみることにします。

たとえば、心の中に怒りという感情があるとして、それを一つの感情という対象として認識するのが普通です。

しかし、その怒りの元となる物語(ストーリー)を脇に置いて、ただただその怒りと共に在るようにすることで、その怒りの中に入っていくことが可能です。

そうすると、もうその怒りを一つの対象として認識することができなくなり、その怒りは消滅してしまうのです。これこそが、本当の意味での感情の開放なのです。

向き合いたくないと思っているどんな感情であろうとも、それと一つになるまでただ見るということを実践すれば、その感情は必ず消滅します。

悲しみと一つになったとたんに、悲しくなくなってしまうのです。だから、もう涙が出てこなくなってしまうということです。

いやなものを拒絶すればするほど、その対象は自分にとって大きなものとなるのと正反対に、その対象と一つになることができれば、それはもう恐いものではくなくなり、消滅してしまうか、特になんでもないものとなってしまうのです。

是非、試してみることをお勧めします。

私には決して真理は分からない

私は子供のころ、内心で大人たちを馬鹿にしているような、クソ生意気なところのある、そういう意味ではあまり可愛げのない男の子でした。

それでも今思えば、やはり考えていることは単純で幼かったのです。自分があまりにも何も知らないので、何でも知らないことのない自分になれたらいいのにと思ったものでした。

勿論、そんなことは無理に決まっているので、その次に考えたのは何でも知っている存在がどこかに一人でもいてくれたなら、それだけでもいいのにと考えたのです。

それがみんなが神と呼んでいるものなのかもしれないと思っていました。大人になって、少しばかりそうした思いが洗練されていったと思います。

それは、究極の真理を知りたいという欲求に変化したのです。この世の中のどんなことでも知りたいというよりは、真理を知りたいというように変わったのですね。

勿論、実際問題そんな絶対的な真理というものがそもそも実在するのかどうかも分かりません。そのことを含めて知りたいという強い思いが出てきました。

そうこうしているうちに、その真理を知りたがっている「この自分」というのは何なのか、ということについての真理も同様にして知りたいのだと気づきました。

そして、とうとうこの自分とは思考(想念)に違いないということ、そしてそのことすら思考での把握に過ぎないということにも気づきました。

結局、自分が理解できることというのは、どこまでいったところで単に思考のレベルでしかないということだと分かったのです。

これが、思考のできる最大限の理解のレベルなのですね。これは甚だ残念なことですが、それを潔く認めるしかありません。

つまり、この自分は決して究極の真実を知ることはできないということだけが、完全に明確になったということです。長年の夢はついえてしまったということです。

逆に言えば、この自分が消えたあとにこそ、すべてが真理に満たされることになるのだろうということです。それまでの間は、せいぜいこの世界での暮らしを楽しめばいいのでしょうね。

いつもと違う脳で書いています

昨日は珍しく、図書館に行って数冊の本を借りてきました。それを先ほどまでずっと読んでいたせいなのか、今何を書こうかと考えてもいつものように浮かんできません。

やはり普段読まないような本を読むと、脳の中がそれに引きずられてしまうのかもしれませんね。いつもと違う脳ミソの部分を使ったということなのでしょうか。

とても面白い本で、一言で表現すると痛快無比とでも言えばいいのか、小さいことで気分を害している自分を笑い飛ばせてしまえる感じになりました。

けれども、そうした本を読んでいても以前と違うのは、常に自分の思考を見ている別の思考の部分があるのを感じるのです。

その本の内容は、著者の実体験についていろいろと書いてあるのですが、それを読んでいても必ずどこかでそうしたことがただ起きただけなのだということを忘れずにいます。

著者はノーベル物理学賞を受賞した天才なのですが、これほどまでに魅力的な彼という人物がいたのだなと感嘆します。

しかし、その一方でそれこそが思考の産物であって、本当はそうした人物がいたわけではなくて、ただそうしたことが起きていたということだと。

この感覚は間違いなく、ここ数年強くなってきたものです。それが少しずつ定着してきているのだと分かります。

これは本当に気楽になれるのです。この現象界においては、確かに責任というものが発生するのですが、その根っこでは責任感こそ思考だと分かります。

それはとてもとても深い安堵を感じることができます。何も間違ったことはなく、何一ついいも悪いもなく、探求して出会えたものこそが本質の自己だったなんて、これ以上のハッピーエンドはないですね。

「私」が満たされることはない

まことに残念なことではあるのですが、個人としてのこの「私」が本当に満たされるということは不可能なことです。

傾向としては、「私」に構わなくなればなるほど、不満は減少するはずですが、「私」が抱えている不満をなんとかしようとすればするほど、不満は募ることになります。

何とも皮肉なことですね。この逆説的な事実とは、個人としての「私」に根本的に内在する自己矛盾と言ってもいいのです。

別の言い方をすれば、「私」に対する執着が強くなればなるほど、苦悩は大きくなってしまうということです。

個人としての「私」という概念ほど、真理から程遠いものはありません。真理とは全体性であるとも言えるからです。

それにもかかわらず、私たちがこの世界を知覚するとき、それを個々のものの寄せ集めからできているというように見てしまうのです。

その寄せ集められた卑小なものの一つとして、「私」が存在すると信じているのですから、それが満たされるはずはありません。

それなのに、私たちの努力のほとんどは、個としての「私」を少しでも満たそうとすることに費やされているのです。

その結果は惨憺たるものであって、だからこそそこに苦悩があるわけです。当然の帰結と言わざるを得ませんね。

そのことに気づいてはいるものの、どうにもやめられないのです。何かに夢中になっているまさにその瞬間、注意が自分から逸れているそのときには、清々しい開放感を味わえることを知っています。

けれども、それは短い時間だけ可能であって、いずれはまたこの「私」をどうにかしようとする想いに、乗っ取られてしまうのです。

人生はその繰り返しなのかもしれません。しかし、いつかは誰もがこの「私」という個人は思考の中での作りモノだと真に気づくことになるはずです。

すべての人が作りモノの自分から、本質の自己に目覚めることになったら、この世界の役目は終わりを迎えるのでしょうね。

思考は単に思考でしかない

自分は身体だということと同じくらい、自分は意識だということを理解している人はとても多いだろうと思います。

なぜなら、自分のことを自分だと自覚しているのは、目に見えるような肉体ではなくて、逆に物質ではない心だと分かっているからです。

けれども、自分を意識だと思っている場合であっても、本当にはそれは単に思考だということに気づいている人は、もしかしたら少ないのかもしれません。

「ここに私が居る」という自覚そのものは、意識というよりも思考の産物です。したがって、「自分は身体だ」という想いも、もちろん思考であるわけです。

その思考が基となって、その上にあらゆる思考が作られて、今の自分、一人の人物としての自分というものを形作っているとも言えます。

自分は意識だというのは間違ってはいませんが、それは思考が停止したり、消えてしまっても意識自体としての自己は残るということを示している場合だけです。

意識の上で、思考が踊り続けていて、その基盤になるものが「私が居る」、「私は身体だ」というものだということです。

「私は今カーテンを見ている」というのは、事実ではなくてただの思考です。カーテンを見ている私は確かに居る、その想いは100%思考であり、真実ではありません。

だとしたら、カーテンを見ているのは誰なのか?それは、カーテンを見ている何者もいないということです。

思考はただの思考に過ぎません。「私は今バッハを聞いている」というのも、思考です。そこには、バッハを聞く誰もいないのです。

でも思考の中に作り上げられた自分像を自分だと固く信じてしまったがために、それが単なる思考に過ぎないとは思えないということになってしまったのです。

誰もカーテンを見ていないし、誰もバッハを聞いてもいない。見るという行為、聞くという行為がこの身体を通して起きているという表現が一番適切かもしれません。

思考の外に出たとき、そこにはいつもの私はいないということです。つまり、思考の外に出ていく誰も元々いないのです。

純粋な意識が、思考を見る代わりに、意識そのものに注意を向けるときに初めて、そこには今までの私はいないということに気づくのでしょう。

だから覚醒してこの自分が消滅しても大丈夫。そこには本質の自己が、目覚めたままの自己が在るだけです。肉体の消滅を伴う死の場合にも、同じことが言えるはずです。

そう理解できれば、死を殊更恐れるということは馬鹿げたことだと言えるし、この生をできるだけ満喫しようという気持ちにもなりますね。

言葉で表現するって虚しい

意識が全体性に向いているとき、この空間というものがいつもとは違った感覚で感じられるのです。それは、何もないというよりも、何かで満ちているという感じ。

子供の頃から、何もない空間とは一体なんなのだろうという疑問があったのですが、それに対する思考レベルの答えが見つかったような気がします。

思考レベルなので勿論真実ではないのですが、それは言ってみればこの宇宙の本質は空(くう)であり、またそれは空ではないということ。

空は一体何で満たされているのかというと、存在そのものによって満たされているということができます。

あるいは、存在だけが存在することができる唯一であるため、空間も含めてあらゆる一切合財が存在そのものだということになります。

そしてその存在こそが、私たちの本質であるわけで、それは空であり、空であるということは全体であるということです。

空という、何も無いものをイメージすることはできないのですが、それでもそれこそが私たちの本質であり、それ自身だということはどこかで分かります。

初めのうちは、その空虚さを感じて恐ろしく思えるわけです。真っ暗で何の対象物もないのですから、それはとても恐怖を感じてしまいます。知覚の消滅を意味します。

けれども、空という対象物ではなくて、それ自体が自分の本質であると分かるようになると、もうそこには恐怖は存在することができなくなります。

恐怖や悲しみもなければ、喜びもない。位置や大きさもなければ時間もない。ただ存在が在るだけ。それは何とも深い静寂であり、底なしの落ち着きでもあるのです。

言葉をどれほど駆使しても、決して表現できない「それ」について、今日は敢えて書いてみたくなりました。書きながら、あ~あって思っているって、ワイルドだろ!