興味の対象は何か?

自分以外の誰かのために生きて、不幸になった人を見たことがないのと同様に、自分のためだけに生きて幸福な人も見たことがありません。

そう考えると、私たちは随分と微妙な立場に立たされているんだなと思うのです。自分を幸せにしてあげようと頑張ると、その結果は幸福にはなれなくて、自分に無頓着であると不幸にはならないというのですから。

もっとも、この世的な幸福というのは、人によって違いがあるのでしょうから、画一的には言えないのかもしれませんが…。

表現を変えて言えば、自分のためだけに生きている人は、心が満たされるということがなく、誰か(何か)のために生きている人は、きっと満たされるということです。

前者の人生をひたすら生きてきた私自身を例にとっても、そのことは明らかなように思います。とにもかくにも、自分以外の人やものに殊更の興味が涌かないのです。

だからこそ、何をやっても満たされるという経験をしたことがありません。自分をできるだけ幸せにしようと、思えば思うほど、どうやっても満たされないのです。

つまり、自分の幸不幸を考えている限りは、望みはないということです。この逆説的な事実をそろそろ受け入れなければならないのでしょうね。

しかしながら、私だって自分以外の何かに強く興味を抱くことができたなら、違った人生を生きることができたのかもしれないと思うのです。

それならば、なぜ興味を持つことができないでいるのかについて、見つめる必要がありそうです。それで、今何とも簡単に分かってしまったことがあります。

それは、私の心の根っこの部分に、何がどうなろうとも、それはただそういうことだ、というのがあるようです。それは言い換えれば、ただ真実を知りたいということです。

それ以外のことには、あまり興味を持つことができないということなのかもしれません。こんな人生ですが、残された少ない時間の中でどうなっていくのか、それはちょっと楽しみかもしれません。