「私」が満たされることはない

まことに残念なことではあるのですが、個人としてのこの「私」が本当に満たされるということは不可能なことです。

傾向としては、「私」に構わなくなればなるほど、不満は減少するはずですが、「私」が抱えている不満をなんとかしようとすればするほど、不満は募ることになります。

何とも皮肉なことですね。この逆説的な事実とは、個人としての「私」に根本的に内在する自己矛盾と言ってもいいのです。

別の言い方をすれば、「私」に対する執着が強くなればなるほど、苦悩は大きくなってしまうということです。

個人としての「私」という概念ほど、真理から程遠いものはありません。真理とは全体性であるとも言えるからです。

それにもかかわらず、私たちがこの世界を知覚するとき、それを個々のものの寄せ集めからできているというように見てしまうのです。

その寄せ集められた卑小なものの一つとして、「私」が存在すると信じているのですから、それが満たされるはずはありません。

それなのに、私たちの努力のほとんどは、個としての「私」を少しでも満たそうとすることに費やされているのです。

その結果は惨憺たるものであって、だからこそそこに苦悩があるわけです。当然の帰結と言わざるを得ませんね。

そのことに気づいてはいるものの、どうにもやめられないのです。何かに夢中になっているまさにその瞬間、注意が自分から逸れているそのときには、清々しい開放感を味わえることを知っています。

けれども、それは短い時間だけ可能であって、いずれはまたこの「私」をどうにかしようとする想いに、乗っ取られてしまうのです。

人生はその繰り返しなのかもしれません。しかし、いつかは誰もがこの「私」という個人は思考の中での作りモノだと真に気づくことになるはずです。

すべての人が作りモノの自分から、本質の自己に目覚めることになったら、この世界の役目は終わりを迎えるのでしょうね。