言葉の有用性と限界

本当は黙して語らずという状態が、最もウソ偽りが少ないわけで、たとえ一言でも口から出してしまえば、それだけ真実から遠ざかってしまうのです。

自己探求に関する本を何冊か読んでみて、そのことがイヤと言うほど分かった気がしています。まったく、伝えるということは常に新たな不満を生み出すことになりますね。

なぜなら、伝えている正にその瞬間瞬間ごとに、ああ真実とは違うことを一生懸命表現しているよ、と感じてしまうからです。

個人セッションのときに、お伝えしているそばから、ずっとノートにその言葉を書き留めてしまう方がごくたまにいらっしゃいました。

過去形で言ったのは、今現在はそんなに極端な方はいらしていないからです。そういった、何から何まで言葉を丸ごと書き留めることをやめられない人というのは、残念ながら一生懸命な分だけ、意味を心に浸透させることができないのです。

それは当然のことで、ある種速記のようなことをやっているわけですから、そのことに意識が集中してしまっているために、内容は少しも理解できなくなってしまうのです。

「この表現は面白いので、忘れないようにメモっておこう」というのならいいのですが、書き留め魔さんの目的は違うところにあるのです。

それは実は、心に浸透させないようにするための作戦であるのです。本人としては、懸命に聞き漏らさないようにと、ノートを取るのですが、深い部分では聞かないようにする戦略なのです。

極端な例をあげましたが、ごく普通にノートをとる場合でも、聞いた言葉をそのまま受け入れようとすると、伝わることはかなり歪められてしまう可能性が高くなります。

たとえば、「物事には善いも悪いもない」ということをお伝えしたとして、その言葉そのものを自分のものにして、その教えに沿った生き方を実践しようとしても、いずれは無理が来ます。

なぜなら、善いも悪いもない、という言葉そのものを理解し、それを受け取るのは思考なのです。けれども、善いも悪いもないということの本質とは、思考が停止したらということが言外に込められているのです。

従って、善いも悪いもない、という意味を思考で理解し、正しいことを教わったと思考してしまうと、もうそこには矛盾が生じてしまうのです。

言葉を発する側も、その言葉を聞く側も、言葉の有用性と共にある言葉の限界をいつも意識しておく必要があるということですね。