古傷を癒す

私たちは、人生の中で様々な苦難に遭遇してしまうものです。それを避ける方法はないのかもしれませんね。

例えば大好きな恋人に裏切られて、失意のどん底に突き落とされてしまうかもしれません。そんな時どうすればいいのか?

手っ取り早く立ち直るには、忙しく過ごすようにするというのがあります。仕事を多忙にするとか、趣味に没頭するとか、あるいは次の恋人を探しまくる等々。

ただし、このようなやり方では負ってしまった心の傷は癒えないままに放置されている状態なのです。

気づかないようにしていただけで、自動的に傷が癒えるということはありません。そうなると、いずれはその古傷が何らかの形で表面化してくるのです。

同じような体験を繰り返してしまうとか、あるいは理不尽な目に遭ってしまうとか、傷はあなたに気づいて欲しいのです。介抱して欲しがっているのです。

だからこそ似たような体験をあなたにさせて、思い出してもらおうと画策するわけです。逃げおおせないのです。

そういった傷をたくさん持ったまま死んでいくという方法もあるかもしれませんが、それは次の人生に持ち越されるだけ。

外側にばかり気を取られている人生から、内側に意識を向けるように変えていくことです。そしてその傷の痛みを十分に味わってあげるのです。

そうすることによって、いずれは古傷が癒されていくことになるのですから。

疑うことの大切さ

おすすめにあがってきた動画の中に、チャネリング関連のものがあったのでたまたま観てみたのですが、結構面白い。

その中で、チャネラーの方がいうには、私たちの奥深くにある信念が「これは現実、これは現実」と強く唱えているために、この世界があたかも現実であるかのように思えるのだと。

ほう、なるほどですね。だとしたら、「これは幻想、これは幻想」と繰り返し唱えるようにしてみたら、もしかしたらこの世界の見え方が変わってくるかもしれませんね。

いずれにしても、この世界をどのように見ているかというのは、確かに信念というフィルターを通して見ているに違いないのです。

マインドの奥には、さまざまな信念が埋め込まれていて、その頑固さは尋常ではないのです。自分は身体の中にいるとか、自分は個人だ、自分は◯◯だ等々。

もしもどんな信念も通さずにあらゆるものをあるがままに見て、感じることができたなら、どれほど違ったものを見ることになるのか。

どうしたら信念という色眼鏡をかけずに見ることができるのか?それには日頃から見たり感じたりしていることを、とにかく疑ってかかるということなのかなと。

例えば、自分というのは一つのまとまった存在だという信念がありますが、それに関してはある程度は、はずれてきている気もします。

あるいは時空に関してですが、宇宙は途方もなく広大だという信念がありますが、それについてもかなり強く疑っている自分ができてきた感じです。

疑うということは、どうも否定的なニュアンスを持っているように感じてしまいますが、実はとても大切な態度なのではないかと思っています。

あなたの存在とは無関係にこの宇宙は存在する…。これなどは、大いに疑ってかかる価値があると思いますね。

「無」は最強

昨日のブログの内容への補足ですが、あの中1の時の担任の先生が書いた「無」の文字ですが、書道のできる友人にこんな感じの書体なんだけど?と聞いてみたのです。

すると、それは隷書じゃない?と教えてもらったので、ネットで検索してみたらありました。隷書体というのがあるのですね。

そっくりではないかもしれませんが、こんな感じだったような。もう少し崩してあったかもしれません。

あの担任、取っ付きづらい神経質な表情をした技術科の先生だったのですが、今思えばなかなかオツな計らいをしてくれていたかもしれないなと。

イメージの中で、中1の自分がホームルームか何かの時に、先生に向かって「あの無という漢字にはどんな意味が込められてるんですか?」と聞いてみたのです。

すると先生はしばらく考えた後、「どんな意味が込められているかなどを考えないでいることだね。」と言うのです。

なるほど、無とは?とやった瞬間に無から離れてしまうわけです。ジーっと無の文字を見つめて、ゲシュタルト崩壊がやってきてもそのままにしておく。

その時、無という漢字すら消えていき、どんな疑問も無によって消滅していってしまうということですね。やはり、無は最強です。

無から来て無へと戻る

中学生になってすぐの時に、担任による家庭訪問というのがありました。先生が生徒の家を順番に訪問するというアレです。

当日先生が来るのを待っていると、やってきたかと思ったら家に上がるでもなく、ただやってきたという足跡を残しただけで風のように去っていきました。

それと連動しているのかどうかは定かではないのですが、記憶では一週間もしないうちにその先生は学校から消えていきました。

そして突然違う先生が担任としてやってきたのです。どんな説明もなかったのではないかと思うのですが、とにかく今度の先生はちょっと陰気な雰囲気の男性の先生。

教室の黒板の上のあたりに、「無」という感じ一文字の額縁に入った仰々しい「書」が飾られていて、確かその新しい担任が書いたものだったようで。

授業中だけだったと思うのですが、その「無」の文字が気になって、何度となくチラチラ見ていたのを覚えています。

当時から、「無」は最強だと感じていました。自分の感覚では、無というのは無言というのと直結していて、言葉を紡げば紡ぐほど真理から遠ざかるのを知っていたのかなと。

あの時の感覚と全く変わることなく、無→無言→無思考であり、「無」が全ての大元であることを今も感じつつ生きています。

無から全てが始まって、あらゆる事象が起きて、また無へと戻っていく。これがこの宇宙の全てなんですね。

自我から離れると問題は消える

小学一年の頃、雨が降ると校庭で遊べないからなのか、授業開始前に上級生たちが教室にやってきて確か紙芝居などをやってくれてたのです。

子供心に、さすが上級生のお兄さんお姉さん達はすごいなあと感じていました。ところが、自分が上級生になった時には、全然大人になったとは思えませんでした。

中学生の頃は成人式を迎えたら、あるいは社会人になったら、すごく立派な大人になっているに違いないと思っていたのです。

けれども、やはり実際にその年齢になってみると、別にどうという変化もなく、以前と変わらないわけですね。

高齢者になったら、それこそ煩悩が小さくなったりしてきっと生きやすくなるに違いないと予想していたのですが、いざなってみると若い頃と遜色なし。

結局のところ、人間というのは自我として生きている限りは、年齢をいくら重ねたところで変わりようがないのだなと思うのです。

ところが年齢によって大した変化をしないのは自我として生きている部分だけであり、自我から離れた部分では、全く様相が異なるのです。

自我をみる側である純粋な意識としての自己の発見は、生きている感覚を次元の違うところへと持っていってくれたのです。

私の中でそれが明確になってきたのは、2011年当たりからだったと記憶しています。それが少しずつほんの少しずつ明確さを増してきていて、そこに戻ることができれば全ての問題は問題ではなくなるのです。

自我と真の自己の間を自由に行き来することができれば良いのですが、そういうわけにはいかないのです。きっとこのことが解決する前に死がやってくるのだろうなと。

主従関係の逆転

子供の頃に欲しくて仕方なかった自転車をようやく買ってもらって、しばらくはお決まりの練習があって、あっちにフラフラこっちにフラフラ。

そのうちに何とか乗れるようになって、嬉しくて意気揚々とペダルを漕いでいる時に、自転車に乗せられているみたいと言われたことがあるのです。

要するに、側から見てまだまだ乗りこなすまでは行ってなかったのでしょうね。自転車の方が主人で、自分が自転車に従ってしまっている感じだったのでしょう。

このような人間と道具の主従関係が反対になってしまっている場面というのは、ままあるものですね。

クルマを高速道路で走らせている時、一体どこまでスピードが出るものか知りたくて、周囲に誰もいないときを見計らって、アクセルをベタ踏みするのです。

すると、ある速度域を超えたあたりから自分とクルマの主従関係が明らかに逆転するのを感じるのです。もう自分の思い通りには操れなくなったなと分かるのです。

こうした主従関係の逆転が起きると、非常に危険だったり場合によっては苦痛がやってきたりすることもあります。

それが私たちが日々感じている本当の自分と自我の関係です。もう少し分かりやすく表現すると、マインド(思考)というのは、本来便利なツールでしかないはずなのです。

ところが、日々の生活の中でどれだけマインド(思考)によって、自分自身が乗っ取られてしまっていることか。

考えないようにしようとしても、思考を止めることがとても難しいのです。これは明らかに思考というツールの暴走でしかありません。

今一度、マインド=思考は単なるツールであり、それを操る主人としての自分を忘れないでいることですね。

「◯◯孝行」の意味

親孝行という言葉がありますが、そこからつくった子ども孝行という言葉があってもいいと思います。意味は分かりますよね?

どちらの「孝行」も、子供は親のために、親は子供のためにと思ってする言動のことですから、難しいことではありません。

ところが、この◯◯孝行を間違えて勝手に思い込んでいる場合があるのです。親孝行と聞くと、親を旅行に連れて行ってあげるなどのイメージが浮かぶかもしれません。

もちろんそれも親孝行の一つにはなり得るのですが、本当は子供自身ができる限り満たされて生きている姿を見せてあげることなのです。

これを否定する人はいないはずです。同様にして、子ども孝行も同じこと。親自身が自らの人生を大いに楽しんでいる姿を見せてあげること。

子供はそれを見て、非常に大きな安心を得ることができるのです。それなら自分も親のように楽しむ人生を生きて良いんだなと理解するのですから。

逆に、子供のためにということばかりを願って生きるような親の姿を見せつけられたら、子供は萎縮してしまうのです。

親の幸せそうな姿を見て、嫉妬してしまうような子供がいるとしたら、その子供が病んでいるだけなので、それはただ癒せばいいのです。

私たちは、病んだ人を相手に生きるのではなく、健康なマインドを持った人を照準として生きるべきなのです。それを忘れないことですね。

余裕がないと視野が狭まる

クルマの免許を取得したばかりの初心者と、ベテランドライバーの違いは何かというと、運転そのものの上手下手もさることながら、視野の広さに違いがあると思うのです。

私自身にもそうした経験があります。何かの理由で半年くらい運転から遠ざかっていたことがあって、そこから久しぶりに運転した時に何となく怖い感じがあったのです。

自分なりに分析したところ、どうやら周囲を見る時に余裕がなく、視野がだいぶ狭くなっているということに気づきました。

何処をどういうタイミングで見れば良いのかの加減が分からなくなっていて、全部見ようとするのでさらに余裕がなくなるのですね。

クルマはスピードが上がるほど、ただでさえ視野が狭くなっていくという原理があるので、見えてない部分が多くなって危険を感じるということです。

こうしたことは、クルマの運転に限ったことではなく、心の余裕と視野の広さというのは強く関連しているのだと思います。

お腹が痛くて冷や汗をかきながらトイレを探している時など、周囲にどんな美人さんが歩いていようと全く目に入らなくなるほど、視野が狭くなるのを知っています。

逆に心にゆとりを感じている時などは、すごく視野が広がっていて周囲の状況に対して自然に気配りすることができる感じがします。

ここ何年も感じていることですが、街で見かける人々の視野が狭くなっているのかもと思うことに遭遇することが多くて、日本の未来は大丈夫なんだろうかと少し心配になりますね。

子育てをしているお父さんお母さんの心に余裕がないと、家庭の中といえども視野が狭くなってしまい、子供の気持ちを受け止めることができなくなってしまうのです。

これが一番困ったことです。余裕のない親に育てられたかもしれないと思うなら、是非とも自分で過去の自分を受け止める練習をすることですね。

突然頭の中が真っ白に…

急に頭の中が真っ白になってしまって…、というのはよく聞く話しですね。緊張してそうなることもあるだろうし、言うべきことを言おうとした途端にそうなってしまうこともあるかもしれません。

とにかく、本人としては突然頭の中から次に言う言葉が消えてしまうわけですから、それはもう軽いパニックになったようなものです。

私にも経験があります。社会人になって初めての海外出張の時に、ニューヨークの空港で当時大人気の女優さんを見かけて、すごくファンだったので握手してもらおうと手を差し出したのです。

ところが、身体は動いたのですが言葉が出てきません。その女優さんの立場になったら、手だけを差し出して無言で立ち尽くしている若い男がいたら、困ってしまうはず。

彼女は「あらっ!」というちょっとした驚きの表情をして笑顔で握手してくれました。それがものすごく恥ずかしいやら何やらで、自分としてはあまり良い思い出にはなっていません。

強い緊張というのは、ある意味恐怖を感じているのに近いのでしょうね。だから冷静ではいられない状態になるので、防衛が働いて無言にさせるのです。

無言にすることで、とんでもないことを口走ってしまうというリスクを避けるわけです。ただ冷静になって考えれば分かることですが、無言でいることの方がどれほどリスクが高くなるのか。

ということは、この防衛は幼い子がやっていることだと分かりますね。親に日頃言いたいことが言えずに我慢している子が、ある瞬間怒りと共に自己表現しようとして、言葉が出なくなるということがあります。

これも同じことですね。本音を言ってしまったら、その結果どんな危険が待っているかを想像することで、頭の中の言葉を奪う誰かが活躍するのです。

もしも今後、あなたが頭が真っ白になる経験をしたなら、それはあなたの中にいる幼い誰かが自分を守ろうとしてやっていることだと理解した上で、その子を優しく抱きしめて安心させてあげることですね。

他人を救う唯一の方法

この世界は不公平ですね。生まれながらに恵まれた環境でなに不自由なく生きてこられた人もいれば、家族ごと奴隷として生活している場合だってあるのです。

金持ちの国に生まれて、国民みんなが大金持ちの場合もあるし、戦争や災難で国を追われて世界中を転々とする場合だってあるのです。

幸せな人は放っておいても良いですが、苦難に苛まれている人々を助ける方法はないのでしょうか?

そんな都合のいい方法があるわけはないと思うかもしれませんが、実はたった一つ方法があるのです。

それはあなたがマインドから解放されて、あなたの本質に戻ればいいだけなのです。この世界は不公平で理不尽極まりないと思うのは、あなたのマインドのせいなのです。

マインドは常に、比較や判断によって物事の優劣、善悪、正不正、幸不幸などを作り出すからです。それは実在ではないということ。

あなたが見ているこの世界はあなたのマインドの生み出した世界だからです。本当は、ただ単に起きることが起きているだけ。

あなたのマインドがなければ、他人も同じようにいなくなるのです。他人がいるように振る舞うことはできますが。

これが本当の救いですね。つまり、救われるようなものは元々何もないという救いです。なので、明日の心配をするよりも今を楽しむことですね。