信頼を与える

昨日の土曜日は、3ヶ月に一度のヒーリングセミナーの日でした。今回は、定員15名のところ、18名もの多くの方々が集まって下さったおかげで、とても充実した時間を過ごすことができました。

毎回、自動的にその日のテーマのようなものが最初のフォーカスパースンの時に決まるような感じなのですが、昨日は次のようなものでした。覚えている限りですが…

-信用する: 防衛(恐れ)→期待あり、 対象は相手の言動

-信頼する: 無防備(愛)→期待なし、 対象は相手の存在

以前にも、このブログで信用することと信頼することの違いについて書いたことがあったと思うのですが、セミナーではそれについて深く学んでいくことができたと思います。

つまり、信用するというレベルにおいては、対象となる人のそれまでの言動から判断が下されるので、場合によってはその信用が失墜させられることも多いにあるということ。

信用することは、相手への期待が込められており、それは自分を守ろうとする意識、自己防衛がベースにあるということです。

だから、信用できる人というのは、悪いようにはしない人であり、味方になってくれると思えるような人が対象となるのです。

一方で、信頼とは相手の存在に対して発生するものであるので、期待というものがありません。それは無防備であるため、愛と密接な関係を持っています。

私たちの心には、信用しようとする心があり、それが裏切られたことに対する、怒りや落胆、そして悲しみや絶望などの様々な感情を蓄積しているのです。

それをしっかり受け止めて味わってあげることによって、信頼する心に気づくことができるようになります。信頼は本来誰の心にも備わっている当たり前の愛の一つの形に過ぎません。

それを見出すことで、その信頼を相手に与えることができるようになり、それを繰り返していくことで必ずその信頼は相手から与え返されることになるのです。

最終的に手に入ることは、自分こそ信頼に足る存在なのだという明確な気づきです。昨日のセミナーでは、みなさんが心の中に隠し持っていた信頼を与えるワークをすることができ、すばらしい体験となったと思います。

幼いころの決意

私たちは、気づいていようが気づいていまいが、沢山の決め事を心に持って生きています。大人になってから決めたこともあるし、子供の頃にこうしようと思ったこともあるはずです。

実は、幼い頃に決心したことは、大人になってから決心することに比べて何倍も強く心に刻み込まれていて、後々それを解除しようとしても簡単にはできないのです。

それはなぜかというと、幼い頃の決心というものは、その多くが恐怖などのネガティブな感情と深く関連付けられているからです。

大人になってからの決心は、基本的には理性によってこうすべきであると決めるのですが、幼い頃の決心は極端に言えば命がかかっているともいえるのです。

だからこそ、その真剣さは尋常ではありません。命がけで決めたことだからこそ、そう簡単には解除することができないのも当然です。

さらに、そうした決心をした幼い心というものは、インナーチャイルドとして大人になった当人の心に今現在も生き続けているのです。

したがって、大人の自分が不自由さを感じてそれを解除しようと努力しても、インナーチャイルドの命がけの決心は今も強烈に作用するので、太刀打ちできないのです。

例えば、幼いときに叱られて泣くと、親から「泣くな!」と怒鳴られた経験が繰り返されたとすると、泣けば余計に叱られるわけですから、「泣かない」という必死の決意をしてもおかしくありません。

そんな場合には、大人になって感情を開放しようとしても、泣くことはおろか、どんな感情も出なくなってしまったということはよくあることです。

子供の時の決意を解除するためには、当時自分はそれを命がけで決意したのだということをまず思い出すことが必要です。

その上で、その決意をすることになったいきさつやその必死な思いなどをよく思い出してあげて、その時の感情を味わうようにすることです。

そうしたことを繰り返すことで、次第に固く閉ざしていたインナーチャイルドの心が緩んできます。そうすれば、過去の決意を手放していくことも可能になり、不自由さを克服していくことができるのです。

過去への執着

「過去のことは何一つここまで届かない」 これは奇跡のコースの中に出てくる言葉です。これは、私たちがいかに過去に翻弄されているかということを教えてくれているのです。

私たちが何かを判断したり、誰かを裁いたりすることのすべての基準となるものは、過去において経験したことがその基であるのは間違いないことです。

過去のいやなことを忘れて、あるいはすっかり水に流して、明るい未来に向かって生きていけばいいというのは、如何にもすばらしい考えのように聞こえます。

上記のコースの言葉にも、同じようなニュアンスの意味合いを感じますが、残念なことに誰もが過去は過去と割り切って生きることはできないでいるのです。

誰も現在が過去から切り離されていると思っているわけではないということです。過去からの時間の流れの中に自分はいて、過去からの結果として現在があると信じています。

だからこそ、セッションにおいても、あるいはセミナーなどにおいても、現在だけではなくて過去に焦点を当てて癒しを進めていくことになるのです。

過去が大切だからではなくて、私たちが過去にいつまでも執着しているからこそ、過去を見つめる必要があるのです。

私たちの心の大部分は、過去に生きているといっても間違いではありません。自分を日頃コントロールする強い情動のすべては実は過去に作ってしまったものなのです。

ところで、その過去を握り締めて震えている惨めな自分の思いを、どれだけ見つめて、受け止めてあげれば済むのでしょうか。

これには、きりがないということも知っておく必要があります。大切なことは、冒頭のコースの言葉に戻って、それを受け入れることができるようになることです。

したがって、過去を見つめる作業は、現在が過去からの産物ではないということを信頼することができるようになれば、もう過去を見る必要もなくなるということです。

それまでの間、ご一緒に過去への執着を手放すワークを楽しんで実践していくことにしましょう。それと同時に、常に今この瞬間こそが真実であるということも気づいていくことが大切です。

リラックスの勧め

リラックスすることが心と身体に良いということは間違いないところですが、では一日のうちでどれだけリラックスしている時間を持つことができているかというと、急に怪しくなりませんか?

1時間程度でしょうか、それとも、30分くらい?勿論それは人によって様々ですね。そして、時間だけではなくて、リラックスの度合いというのもとても大切です。

実際、心身の不調の元となる一つの原因は、十分なリラックスを得られていないということとも関係しています。深いリラクゼーションができないと、交感神経がいつまでも活性化していることになるからです。

私たちにとって、緊張するのは比較的たやすいことですが、逆に深いリラクゼーションの状態になることは、結構難しいということを知っています。

全身の力を十分に抜くということだけでも、なかなかうまくできないのです。それはなぜかというと、力を入れる方は自分の意志との連携がうまくとれるのですが、力を抜くのは意志の力だけでは無理だからです。

つまり、頑張る努力をすることはできても、リラックスする努力というものは元々矛盾していることだからです。

頑張らないように頑張るとか、手放すことに執着するなど、これほど滑稽なことはないのですが、実は知らぬまにこうしたことを多々しているのです。

瞑想するときなどに、何も考えないようにと考えてしまったりすることと同じです。意志によって、意志を使わないようにすることが難しいということも同じですね。

話しを元に戻して、リラックスすることがどれほど大事だと分かっていても、リラックスさせようと意識してはリラックスすることができないのです。

その代わりに、深呼吸をしたり身体を横にしたりして、少しずつリラックスしていく練習をすることで、意志の力を使わずに副交感神経を活性化させることができるようになります。

慣れてくると、少しの時間のうちに深いリラクゼーションの状態に入っていくこともできるようになりますので、是非実践してみることをお勧めします。

怒鳴り合いも必要

夕べ久しぶりにはっきりと内容を覚えている夢を見ました。それは、どこか公共の施設へ何かの資料を提出しに行く夢なのですが。

そこで、とても理不尽きわまりない言いがかりをつけられて、その提出物を受理してはもらえないという事態になるという内容でした。

その係りの年配の男性の顔を今でも覚えていますが、その人に対して自分がものすごい勢いで不満をぶつけているのです。

しばらく自分とその男性との怒鳴り合いのようなやりとりがあって、最後には自分がある程度折れて相手のいいなりに書類を修正することで、ようやく受理されたのです。

一応それで安心した自分は、やっぱり怒りが収まらないようで、帰り際に来週もう一度来るからその時にこの件をもう一度はっきりさせようと言って帰るのでした。

この一連の流れを体験しつつ、自分の本心としては冷静でしかもそのやりとりを若干楽しんでいると感じている心の部分があったのです。

その冷静な意識は、怒って相手に大声で意見をしている自分が、まだまだ誰かに文句を言いたいということなんだなと分析しているのです。

目が覚めた後も、その気持ちは残っていたのですが、本当のところは怒っているというよりも、そうした言い合いを楽しんでいる自分を実感したのです。

誰かと何の遠慮もなしに、議論をしたい自分がいるということですね。そういえば、最近会社員の頃のように、異なる意見を持つ人と議論するということがなくなりました。

実はその夢の最後の場面では、帰り際に振り向いてその男性に「ありがとうございました!」と言っている自分がいました。

やっぱりその時間を楽しんだだけだったのかもしれないなと。人は自分と違う考え方や違う意見を持つ人ともしっかり話し合うということも必要なんですね。

親への怒り

確か「毒になる親」という本があって、この本を読んでセラピーに来る気になりましたと、何人ものクライアントさんからお聞きしたことがありました。

私自身はこの本を読んだことがないのですが、大体どんな内容の本なのかは察しがつきます。一般的に言って、100%親に依存して生きている子供にとって、親の言うことは間違いないと思いたいものです。

ところが実際には、その親が親自身を守ることを第一に生きていると、子供は知らず知らずのうちに心を傷つけられて成長してしまうのです。

そうしたことに気づかせてくれるのが、その本なのだろうと思います。だからこそ、子供にとっての毒になってしまう親がいるのだということです。

その昔、あるクライアントさんからどのように育てられたのかを伺っているときに、それは辛かったですねと共感したつもりが、それ以上母のことを悪く言ったら承知しないと怒鳴られたことがありました。

その時にはっきりと分かったことは、その激怒の理由は、本当は母親に対するひどい怒りを抱えているのですが、それに対する強大な罪悪感によってその怒りを隠しているということ。

隠しているからこそ、的を得たことを言われて、母親に対する怒りを私に向けることになったということです。こうしたことはよくあることです。

それだけ、子供というのは自分の親を悪く思いたくないという健気(けなげ)さを持っているのですが、上記の本は親がいかに子供の害になるかということを暴いている本であるために、今まで隠してきた本音が暴れだすのだと思います。

癒しを進めていくときに、必ず親との関係について見ていくことになりますが、親に対する怒りを抱えていない人はきっといないのですが、多くの人がそれを隠そうとするのです。

その怒りを全く正当なものだと認めることが先決です。その上で、その怒りを受け止めて味わって開放することによって、多くの日常的な問題を解決の方向へと向かわせることができるのです。

健康法 その2

昨日の続きです。

その病院には様々な人が入院していたのですが、一人私と同じ高校一年の男性もいました。彼は病気というよりは、確か色弱というような視力の問題を治そうと入院してきたということでした。

今考えてもとても不思議な病院でした。院長先生はきっぱりとした態度で、淀みなく西洋医学の考え方に異論を唱えている人でした。

聞いたところによると、その先生は赤ちゃんが産まれると、30分ほどそのまま、つまり裸のまま放置するということを実践していたようです。

詳しい理由は忘れましたが、そうするだけで赤ちゃんの身体がとても強くなって、病気にかかりにくくなるということを説明されていたと思います。

その病院を退院した直後は、異常なほどの食欲が出てしまって、それまででは考えられないような食事の時間を楽しみにする自分が出現してびっくりしました。

そのおかげで、16歳の男子とは思えないくらいにお腹がぷっくりと膨らんでしまいました。勿論それは一時的なものだったのでよかったのですが。

健康になると、食べ物が本当においしいということを身をもって経験したわけですね。そのような独自の健康法というもののことを考えていると、バッチ博士のことを思い出します。

バッチ博士は世界で始めてフラワーレメディを作った人で、彼もれっきとした西洋医学者だったのですが、きっともっと違う方法があるとの信念によって、医者を辞めてイギリスの野山を数年間歩き回って、現在のあのバッチ・フラワーレメディを作ったのです。

それはもう、神の仕業としかいいようのないことだと思います。彼はそれを完成した直後に50歳の若さで亡くなってしまいました。

世の中には沢山の健康法がありますが、信頼する気持ちというものがなによりも大事なのかもしれませんね。

健康法

高校一年生の夏休みに3週間ほど、入院した経験があります。何か特定の病気ということではなかったのですが、どうも具合が悪いという状態が続いていたからです。

ちょうど今のような暑い夏だったと記憶していますが、親戚の人から紹介されて知ることになったその病院は、実はとても変わった病院だったのです。

というのも、院長さんはれっきとした西洋医学の医学博士であるにも拘わらず、独自の方法で患者の健康を回復させることをずっとやってきた人でした。

私も入院中、一度も薬を服用したこともありませんし、注射やその他とにかく西洋医学で行ういかなる治療も行われたことがありませんでした。

その代わりに、徹底的な毒出しをさせられるのです。毎日、水と柿茶を2リットルくらい飲むことから始まって、沢山の種類の野菜をペースト状にすり潰したものを、一回の食事でコップ一杯分も食べされるのです。

これがまずいことこの上ないし、数日に一回くらい大量の水酸化マグネシウムの浣腸をされるのです。最初はびっくりしましたが、慣れてくるとそれほど辛くもなくなりました。

それ以外にも、毎日2回ずつ、身体の関節を矯正するためにマシンにかかるのです。頚椎を引っ張る懸垂といわれるものや、身体を強制的に金魚運動させるものなど。

マシンも始めは辛いこともありましたが、慣れてくるにしたがって楽しみにさえもなりました。なぜなら、マシンにかかった後は身体全体がのんびりするような感じがあったからです。

そして、極めつけは入浴でした。真水と42℃のお湯と両方の湯船を一分ごとに行ったりきたりするのですが、水から入って水から出るのが規則でしたので、これも最初はきつく感じました。

この水風呂の習慣はその時からずっと続いていて、今でも最低でも風呂から上がるときには真水を身体にかけないと出られなくなってしまいました。

そのおかげで湯冷めするということが全くなくなり、その効果かどうかは分かりませんが最近では全く風邪を引くこともなくなりました。

つづく

自立の妨害

誰でもそうなのだろうと思うのですが、幼い頃は母親と一緒にお風呂に入って、髪を洗ってもらうときには赤ちゃん抱っこ状態になっていたはずです。

つまり仰向けになって、首の部分に腕をあてがってもらってとても楽な姿勢で顔に水が跳ねないように細心の注意をしながら丁寧に洗ってもらっていたのです。

ところが、ある日のこと、母親がそろそろ身体も大きくなってきて、狭い洗い場で赤ちゃん抱っこするのは窮屈だろうから、大人のように腰掛けて髪を洗おうかと言われたのです。

勿論即刻拒否しました。きっと、一度くらい試して見たときに鼻の中や目、耳にお湯が入って散々な思いをしたことがあったからでしょう。懲りていたんですね。

聞いた話しによると、その後も長い間ずっと赤ちゃん抱っこで髪を洗ってもらっていたようです。子供の立場からすれば、一番楽な洗い方を続けたいのは当然ですから。

気がついたときには、自然と独りでお風呂に入って自分で髪を洗うようにはなっていたのですが、相当大きくなるまで続いていたというのは恥ずかしい限りです。

母親などに強く躾けをされずにいて、そうしたことが外部の人に触れて、甘ったれだねなどといわれるまでは恥ずかしいとも感じないので、続いてしまうわけですね。

何かと世話をやきたい気持ちが満々の母親に育てられると、子供の大切な好奇心や自立心を知らずに削いでしまうことになるのです。

まだ小さいからとか、危ないからとか、失敗するに決まっているから等々、あらゆる理由を見つけてはついつ手を出してしまう親は沢山います。

そんな過干渉の母親を全く困ったものだと思っていたのですが、癒しを続けてきた今となっては、そこにも厳然と母の愛情があったのだと分かるようにもなりました。

世話焼きの過干渉は確かに自立を遅らせてしまう要因になるのですが、それでもいつかは自分の力で自立していくことができます。

それさえ分かれば、あとは感謝の気持ちだけが残るのです。

間違いを認める

このオフィスのある武蔵野市が発行している市報というものがあるのですが、その中の記事に学校などの校庭の放射線量の測定結果というものが出ていました。

その数字についてのコメントが出鱈目過ぎると思って、親切心満載で市役所に電話をしてみました。すると、その記事の担当者は決して間違いを認めようとしないのです。

その人の頭が悪いということではなく、とにかく間違った表現をしたことを認めないという態度に終始するのです。

かといって、私の言っていることを理解できないということではないのも勿論分かるのです。その中途半端な状態のまま、最後まで彼は自分の立場を守り抜きました。

彼にとって一番大切なことは保身なんだなということが分かりました。しかし、理性ある大人として、それは客観視したら逆に恥ずかしいことに感じるのではないだろうかと。

最終的には、彼はあなたがそう言うなら今後は今回のような表現を使わないようにする、そう言ったのです。それでは、何だか私が無理やりそう言わせたような、こちらが悪人のように感じさせられてしまいました。

こうした役所の人の態度というものは、本当に潔くないというのか、日頃政治家の同じような態度に辟易させられていたものの、実際に遭遇してしまうと何とも馬鹿馬鹿しい思いがしてしまいます。

ただ間違いを認めるということがそんなに怖いことなのでしょうか。世の中には、絶対に自分の非を認めようとしない人も沢山います。

あの人が謝ったところを一度も見たことがない、などというのは日常的に耳にすることができるくらいですから。それくらい、人は間違いを認めると自分が消えてしまうくらいに思い込んでいるのかもしれません。

だれにでも間違いはあるし、それはいいことでも悪いことでもなく、ただ間違ってしまったというだけのこと。問題はそのことを認めないというただその一点にあるというのに。

人の振り見て我が振り直すというように、間違いだと思ったらすぐにそれを認めてしまうことが結局自分の人生を悠々としたものにすることになるということを忘れないことですね。