悔い改めること

私たちは幼い頃からずっと、いけないことをしてしまったら反省して、自分の言動を悔い改める必要があるという教育を受けてきました。

例えば嘘をついてはいけないとか、人の道に反したことをしてしまったら、悔い改めて二度とそのようなことをしないように心を入れ変えるべきと教わるのです。

この悔い改めるとは、自分は悪いことをしたとして後悔するということが大前提としてありますね。その上で自分の言動を改めるということ。

ということは、罪悪感を感じる必要があるということになります。悪いことをしたのだから、罪悪感を感じて当たり前だろうと一般には考えられていると思います。

まともな人、心が成熟している人、そうした人であれば必ず、自分がしてしまったことを後悔するものだとの考えがあるのです。

しかし、本当に大切なことは後悔することではなくて、ただ単に改めることだけなはずです。「悔い改める」の「悔い」の部分は不要なのです。

ですが、私たちは常識的な感覚として、悪いことをした人に対して悔いることを要求したいという思いを持っています。つまり罪悪感を感じることは場合によって必要だと思っているのです。

しかし、長い間人の心というものを見てきて思うのは、罪悪感ほど人の幸せの邪魔をするものはないということです。

このことは誰が何と言おうと動かしがたい事実です。罪悪感を持ちつつ幸せであるということは決してあり得ません。

私たちは誰もが幸せになりたいと望んでいる反面、こうして罪悪感の必要性を信じることで、ある意味幸せよりも大切なことがあると思っているのです。

それこそが「正しさ」なのです。だからこそ、誰かから被害を被ったら、その相手が罪悪感を感じて当然だとの思いがあるのです。平たく言えば謝って欲しいという気持ちですね。

本当は誰もが幸せになる権利を持っています。それは正しさよりも何よりも大切なことですね。ですので、少なくとも、誰かが自分のために罪悪感を感じることをよしとしないように振舞えるといいですね。

食べ物への感謝

改めて考えてみるまでもなく、人間というのは命のあるものばかりを食して生き延びているんですね。それは本当にびっくりするくらいです。

土を食べる人とか、そのほかにも例外は少数といえどもいるのですが、でもほとんどは動物であれ植物であれ、生命のあるものを食べるのです。

逆に命のないものとは、鉱物のようなものや、無機質のものになってしまうので、到底食事のテーブルには上がらないわけです。

どうしてそうなのかは、本当のところ分からないのですが、なんとなくですが命あるものが持っている生命エネルギーのようなものを人が必要としているのではないかと感じます。

そう思うと、食事するときにそんなことを思い出すだけで、本当にありがたいという気持ちが沸き起こってきます。

お米にしても、魚にしても、野菜にしても、肉にしても、とにかくその生き物は自己を生かすために必死に生命活動を続けてきたわけですね。

そのすべての結晶を私たちはもらって毎日暮らしているということに気づいていることは大切なことかもしれません。

なぜなら、一口食べることは、その裏には壮大な自然の生命の営みがあるからです。それはもう大変なエネルギーが費やされているわけです。

それを考えると、感謝せずにはいられなくなります。感謝の感情が起こると、脳内にとてもいい物質が分泌されるらしく、健康になるらしいです。

それだけでも幸せになることができるのです。少し前までは、自分はこんなことを考えるような人間ではありませんでした。

何かが少しずつ変わってきたのかもしれません。感謝は強制されてするものではありませんので、自然な心の在りように任せるしかないのですが、こうした食物についての思いも役に立つかもしれないですね。

今の自分を受け入れる

私たちはいつも、もっともっと自分を改善できるし、もっと能力を伸ばしていくことができるし、今のままではいられないと先を見つめているものです。

つまり、未来に期待をすることで、今現在の不満や足りないところを何とか心のやりくりをして処理しているのが実情だと思います。

今この瞬間の自分に大満足で、もう何も必要とするものはないと本当に思っている人は稀ではないでしょうか?

特に若いときには自分の可能性は無限大に広がっていくとも思っているので、そのときの自分に満足できていないとしても、希望を持って未来に向かって進んでいくことができるのです。

しかし、次第に年齢を重ねていくに従って、可能性は徐々に狭まっていくし、自分の能力についても大体の目安はできてしまうために、自分の人生はこんなものかもしれないと思うようになりがちです。

ところが、年齢を重ねても生き生きとして毎日を暮らしている人もいるし、若くてもすでに自分の人生に失望してしまっているような人もいるのです。

その違いは一体どこからやってくるのでしょうか?生まれながらの個体差や生育環境などの違いによって、そうした差異が生じると考えるのが普通かもしれません。

確かにそうしたことも要因としてあるのでしょうね。ですが、一番大きく影響してしまうのは、やはり今この瞬間の自分を受け入れているかどうかということだと思います。

このままではいられないとか、こんなはずではないとか、現在の自分を否定的な目で見ることが多ければ、それだけ満たされない日々を送ることになります。

確かに現状に満足してしまうようだと、それ以上人間は成長しないという考え方もありますが、それは本質的な人の幸せについては触れていないことに気づく必要があります。

真の幸福とは今この瞬間の自分を全面的に受け入れることです。それ以外に幸せになる方法は決してないということを肝に銘じておくことです。

これは簡単なようでいて、なかなか腹の底から分かるのは難しいようですね。最も邪魔をするのが罪悪感ですし、それは周囲への不平不満を必ず伴っています。

こうしたものが心の中に燻っていると、決して自分を認めることができなくなってしまいます。どんな自分でも、今日一日の終わりに自分を許してから眠りにつく練習をするといいかもしれません。

一番身近なもの

毎日せっせと生きていると、嬉しいこと、嬉しくないこと、楽しいこと、楽しくないこと、興味のあること、興味のないこと、それこそ盛り沢山の中にいるのに気づきます。

でもそうしたすべての体験は、身体である自分が受け持ってくれています。その一方で、身体とは違う本当の自分はそうした体験の是非を区別せずに受け止めているようにも感じます。

そうした自分の領域を持つことは、心の安定には欠くことのできないものだと思います。その本当の自分とは、何も特別なものではなくて誰もが一番身近に感じられるものです。

なぜならそれが本当の自分だからですね。それ以上自分に近いものはありません。作り上げた肉体の自分もいますが、それはやや自分の中心から離れています。

誰かのモノマネをみんなでしているときに、モノマネされている本人が一番似てるなどとはいいませんよね。それと同じことで、本当の自分が一番自分だなどとは言わないのです。

それと同時に、何の努力も能力も使わずに、本人は誰のモノマネよりも本人(らしく?)話すことができるのは当然のことです。

私たちは、誰でも本当の自分のことに気づいています。気づかないというのは、不可能なことだからです。気づいていないと思い込むことは確かにできますが…。

いろいろな人がいていいと思っています。荒波の中で激動の人生を生きたいという人もいるでしょうし、凪いで鏡のように静かな海面の上で穏やかに過ごしたいという人もいるのです。

前者の人たちは、淡々として平凡な人生は退屈だと思うのかもしれませんし、後者の人たちは心の平和を愛するのかもしれません。

どちらも大切な一つの人生ですね。そして、どんな人にでも、どんな人生であっても、共通して言える最も大切なことは、本当の自分に気づくことです。

どの時代の賢者もそのことを言っています。それは確かに心の深いところで満たされることになるからなのでしょうね。

距離の制限

あなたの目の前にとても愛しい人がいるとします。その人の何を愛しいと感じるのか、自覚することはできるでしょうか?

その人の笑顔でしょうか、それとも声でしょうか、やさしい手ですか、あるいは暖かな思いやりの心でしょうか?いろいろあるでしょうね。ではそのことをイメージするときに、相手と自分の距離はどのくらいだと思いますか?

今この瞬間の実際の二人の距離ではなくて、愛しいと感じているときの二人の距離のことをイメージしてみてください。

1メートルでしょうか、30センチメートルでしょうか、あるいは5メートルでしょうか?大抵はお互いの顔を見ることができるくらいの数10センチメートルの距離から数メートルまでの範囲だろうと予測できます。

その範囲を超えて近づきすぎてしまうと、相手の皮膚の表面をただ見ることになって、相手であることが分からなくなるし、数メートルを超えて遠くなると愛しさをあまり感じることができないはずです。

仮に100メートル離れたとしたら、顔がようやく見える程度になってしまいます。その距離のままでは、声も届かないし愛しい相手を感じることはもうできなくなってしまいます。

私たちは、そんなようにある一定の距離の範囲内における相手の像をいつも意識して、それに対して愛しさを感じているということです。

そんなことはない、地球の裏側に行っている恋人でもやはり愛しい存在だと言うかもしれませんが、それも愛しさの分かる範囲にいるときのイメージを使って愛しさを感じているに過ぎません。

何が言いたいのかというと、私たちが愛だと感じているものは実は距離と関係があるということです。それは私たちが互いに肉体であるという認識をしている限り、当然のことです。

私たちが「愛」だと思っているものとは、物理的な距離の制約の中だけに存在するものなのです。これが真の愛の姿なのだろうかとふと疑問を感じてしまうのは私だけでしょうか。

どういうわけか、そんなはずはないとの確信が自分のうちにあります。それはきっとみなさんも同じなのではないかと思います。

ここにはとても大切なヒントがあるように感じます。純粋な愛について見つめていくと、結局自分とは何だろうという質問にぶつかることになります。

肉体だとしたら、本当の愛は見出せないということになりそうですね。そこを何も否定せずに、誰から教わった情報だろうとすべて脇において、そこを検証して見ることは無駄ではないはずです。

美しい人生

自分が今、夕焼けがきれいな海辺に立って、周りの景色を眺めているとイメージしてみてください。足元には、寄せては返すことを繰り返すだけの波も見えています。

もしもそこに初めて海を見た幼い子がいたとしたら、その小さな波の一つひとつを怖がって、景色を眺める余裕などないかもしれません。

恐れは、次にどんな恐ろしい波がやってきて自分が襲われるんだろうという思いを駆り立てて、自分の視線が波に集中してしまいます。

でも大人になった私たちは、夕焼け空と大海原の視界の下のほうにかすかに、その小さな波を見ているに過ぎません。

どんな波も所詮はやってきては、また戻っていくものと知っているからです。この波、あの波というように見つめたりはしません。

ただ悠然と全体の景観を眺めていい気持ちになっているだけですね。人生もこれとまったく同じことなのだと分かればいいのです。

苦しみや痛み、いやな出来事などは所詮、打ち寄せてはそのうち去っていくさざ波のようなものです。ときには大きな波が襲ってくることもありますが、いずれは去っていくのです。

その波に視点を合わせる必要はありません。それよりも雄大な海の方を眺めていればいいのです。多少足元が濡れてしまっても、気にしないこと。

それもいつかは乾いていくからです。それよりも、この大自然の美しさに目を奪われているほうがどれだけ幸せでしょうか。

私はいつも些細なことが気になるとても神経質なタイプです。それでも視点を切り替えることでそうしたことはどうでもいいことだと分かるようにもなれます。

今自分が抱えている大きな問題というのは、大波にやられて全身ずぶ濡れになってしまっただけです。目に海水のしぶきが入ってダメージは大きいように感じますが、いずれはまたやさしい気持ちで景色を見ている自分に戻ります。

そして波の一つひとつも優しい気持ちで見ればかわいらしいものだと気づくはずです。周りのすべてはあなたのために自然が手配してくれた驚きで満ちているのですから。

人生とはそんなものだと思います。何があったとしても、いずれはそれも消えていくのですから。辛いのはその渦中にあるときだけです。だから気にしないで、美しい景色を眺めていればいいのです。

ユニークな自己

昨日のブログの続きと思っていただいてもいいのですが、今日はこの世界には同じものが二つとないということについて見ていきます。

自分に似ている人が世の中には三人いるなどという言い伝えがありますが、それが本当だとしても所詮似ているに過ぎません。

一卵性双生児の人たちは確かに同じ遺伝子を受け継いでいるわけですが、生まれる順番が違うことから始まって、人生で経験することが違うために徐々に見分けがついてきます。

日本中のパチンコの玉を全部集めてそれぞれを比較しても、同じ玉というのはありません。どんなに製造技術が発達しても、まったく同じものを作ることはできないのです。

これがこの世界の特徴なのです。一つとして同じものは存在しないということです。これが、自分は他と比較して同じではない特別な存在なのだということを主張している世界なのです。

そもそも物質というものは、そういう性質を持っているということです。仮にまったく同じAとBがあったと仮定したところで、その二つがまったく同じ位置にあることはありえません。

つまり、物質というのは自分以外のものを排除するという特性を持っているということに気づけます。だから、この世界には愛がないと言えるのです。

なぜなら、愛はすべては一つであるという想念だからです。違うもの同士というのは、必ずそこに比較する要素があるわけですから、対立が発生してしまいます。

それが争いに発展し、そこにサバイバルがやってきます。従って、この世界が目に見える物質で成り立っていると感じる限りは、争いがなくなることはありません。

自分の心の奥を少し感じて見ると分かるのですが、そこには自分と周りを区別する境界がありません。境目がないということは物質世界ではありえないことです。

ここにこそ、幸せになる鍵があると思います。愛に気づくには、最も身近な自分の心をゆっくりと感じて見ることです。きっとそこには何の区別もない、すべてと繋がっているユニークな自己を発見できると思います。

不変なるもの

私たちの身の周りにあるもの、起きること、どれをとっても永久に存在し続けるものは一つもありません。必ずいつかは朽ち果てるものばかりに囲まれています。

大きなところでは、この地球や太陽、そして恒星の集まりである巨大な銀河にしても、いつかは消えてなくなってしまうことは科学によって明らかになっています。

自分が生きている間のことを考えるだけでも、来ては去っていくものばかりです。それはもちろん自分自身についても言えることです。

何かの感情が襲ってきたとしても、それはいつかは潮のように引いていってくれます。すべては一過性のものばかりですね。

どうして不変であるものが一つとして見当たらないのでしょうか?この世界とはそういう儚いもので出来上がっているのだと言ってしまえばそれまでですが…。

感情に限らず、人の心というものも移ろいやすいものですね。好きになったり嫌いになったり、無視したり注目してみたりと忙しい限りです。

どれ一つとして確実なものがないということです。これが、私たちが暮らしていると思っているこの世界の特徴なんですね。

つまり、時間に支配されているということです。なぜなら、時間というのは変化するものがなければ意味をなすことができないからです。

こうした絶えず変化するものばかりの中で暮らしているということは、決して本当の幸せを手に入れることはできないということを意味するのです。

なぜなら、真の幸福とは、その状態が永遠に続くということに気づいている心の状態であるからです。私たちの心の奥にある本当の自己は、実は時間の束縛を受けずにいます。

つまり、永遠に変化することのない気づきであるということ。だからこそ、本当の自己に気づくことさえできたら、永続的な心の平安を手に入れることができるのです。

それには、何の努力も頑張りも必要ありません。なにせ、それが自分の本質であるからです。誰でも気づくことが確実にできると信じています。

共感能力

常々感じていることなのですが、男性に比べて女性は桁違いに共感能力が高いようですね。これはもちろん一般論としてということですが。

そういった能力というのは、最終的には個人の資質によるところが大きいのでしょうけれど、でも私の経験では女性はより共感的に接してくれるという体感を持っています。

ただし、共感能力が高いからといって深く共感してくれるという保証があるわけではありません。なぜなら、実際に共感するかどうかはその時そのときの本人の気持ちに左右されるからです。

つまり、共感できるということと、共感するということとはまったく違うことなのです。私自身でもそれは具体的に思い当たることがあります。

内面的には共感できることであったとしても、共感したくないという場面があるからです。それは、相手にもよるでしょうし、その場の状況にも左右されるはずです。

そういうことをすべて含めたとしても、やっぱり男性より女性の方が圧倒的に共感的な人が多いのは事実のようです。でもそれはなぜなのでしょうか?

かつて、男性は狩猟によって食料を確保するのが主な仕事であったのに対して、女性は子育てが主要な仕事だったからかもしれません。

幼い子供は育てられる過程において、気持ちを受け止めてもらうことがそれだけ大切だということを示しているとも言えますね。

したがって、現代においても子供は父親よりも母親から共感してもらうことのほうが多いということになるのでしょうか。その逆のケースだってないわけではないですが…。

その母親に共感された体験があまりにも少なすぎると、子供は成長して大人になったときに心の中にある種の不具合が見つかるのです。

それは大抵、自分を肯定的に捕らえることができなくなっているような状態を引き起こすのです。自己価値が低いという表現で言われることもあります。

そうした状態から脱出するためには、自ら率先して周りの人に共感することです。そうすると、必ずそれは自分のもとへ帰ってきます。つまり、共感してもらえる経験をするようになります。

そうやって、共感の欠乏感を癒していくことができるのです。問題は、共感体験が少ないと、共感しようという意欲も少なくなってしまうことです。そこがクリアできると、問題は自然と改善していくように思います。

幸せへのパスポート

人は誰でも自由を求めているはずですが、いざ具体的に自分は自由だろうかと考えてみると、そうでもないかもしれないという思いがやってきます。

なぜなら気がついているものもそうでないものも含めて、それこそ沢山の思い込みがあって、それらに縛られているからです。

思い込みというと何だか言葉が悪いですが、信じてしまっているということですね。この宇宙に地球があって、それは丸い巨大な天体で、そこに自分は暮らしていると。

地球の大気を数秒ごとに吸って生命を保っているのが自分なので、息を止めてみるとすぐに苦しくなってこのままだと死んでしまうという実感も持っています。

でもそれは信じているからこそ、そうなるのだということには気づいていないのかもしれません。この信じることを強力にバックアップしているのが知覚です。

私たちが頼り切っているこの知覚というものは、実は自分が見たいように見ることができるし、聞きたいように聞くことができるように仕組まれています。

それは例えば、裁判においてみんなで口裏を合わせて虚偽の証言をすることで、それが真実であるかのような印象を与えることができるようなものです。

うまくやれば、裁判官も騙されてしまうかもしれません。それと同じようにして、私たちは自分の知覚に騙され続けています。

それは言って見れば、真実ではないものを信じ込まされてしまっているということです。その中でも最たるものが、自分とは何者かということ。

この肉体をまとった物質的な生き物こそが、自分であるという信じ込みをほとんどの人たちがしています。たとえそうだとしても、それが何か問題があるのかという質問が聞こえてきそうです。

実は問題は大有りなんです。それは、私たちのありとあらゆる苦悩の原因はそこからくると言えるからです。肉体としての自分とは、決して他の肉体とは分かち合うことができない運命を背負ってしまっているからです。

それが孤独の原因です。肉体同士をいくらくっつけても、決して一つになることはできません。そればかりか、肉体同士は必ず対立を作り上げます。そこからサバイバルが始まります。

それが冒頭の不自由さを作り出すことになるのです。生きていて、何らかの不自由さを感じてない人などいないはずです。それは、自分を肉体だと信じているからに違いありません。

昨日のブログで気づけた人もいると思いますが、本当の自分は決して肉体ではないということに気づくことこそが、本当の幸せへのパスポートなのです。