対立の消滅

以前コラムで対立について書いたことがありました。一個人の人間として生きているからには、どうしても周囲の人たちと対立せざるを得ないのです。

この対立は赤ちゃんのころにはありませんでした。母親との一体感の中にいるのですから、これは当然のことですね。

それがいつの頃からか、自分も周りにいる人たちと同じようなモノに違いないという洗脳を受けることによって、自分というものを意識するようになります。

これが対立の起源ですね。なぜ対立が起きるかというと、独立している互いの心は別のものであるわけですから、決して分かち合うことができないと知るからです。

これは、大変なショックと恐怖に打ちのめされることになります。それが、せいぜい2~3歳くらいのあいだにやってくるのですから、たまったものではありません。

でも私たち人間はその苦難を何とかかいくぐり大人になっていくというわけです。もちろんそれを乗り越えたわけではないので、人生は苦しいものになるのです。

数年前に瞑想中に大量の感情を開放したあとで、自分の中にあった対立が幾分緩和されたのをはっきり自覚できたことがありました。

それはとてもすがすがしい、オープンな気持ちになれるものでしたが、それもいつの日か当たり前のことになってしまって、もっと対立を減らしたいと思うようになりました。

最近、この苦悩の元である対立を根本から手放す方法があるということを知りました。それは、あまりにも普通のこと過ぎて今まで気づかなかっただけのようです。

今後、これを実践していって成果が自分なりに出たと思えた段階でみなさんとそれを分かち合えたらいいなと思っています。

感覚の喪失

以前にもこのブログかホームページのコラムだったかに書いたことがあったと思うのですが、自分は気がついたら外の世界とのダイレクト感を喪失していたのです。

それがいつの頃からなのかはかなり曖昧なのですが、小学生くらいだったように記憶しています。ただし、それも一瞬にしてそうなったのではないと思うのです。

少しずつ、日々生きていく間に病気が進行していくかのように、それが強くなって行き、自覚としてはあるときとうとうなんだかモヤがかかっているような感覚にまでなったということだと思っています。

それはまるで、透明の着ぐるみか鎧でも着せられてしまったかのようなモワッとした感じとでも言うのか、とにかく気持ち悪いには違いないのです。

しかし、そのいやな感覚、自分の皮膚に直接外の世界が触れていないかのような感じになぜなってしまったのかは長い間分かりませんでした。

ところが今何となくその理由が分かったような気がしています。それは、「見る自分」から「見られる自分」に変身してしまったからだと思うのです。

生まれたばかりの赤ちゃんは、ただ興味深げに外の世界を見ているだけです。ということは、そこに見ている自分というものを意識していないのです。

だからただ無邪気に周りを見ているだけなのです。ところが、1年2年経っていくうちに外を見ている自分というものを意識しだすのです。

それこそが「見られる自分」の出現なのです。この「見られる自分」というのは作り物であり、生まれた時のままの「見る自分」というのが本当の自分なのです。

そこから対立というものが発生してくることになり、それは地獄のようにつらい状態なので何とか防衛しようとして、透明の鎧を着ることになったのだと思います。

それこそがダイレクト感の喪失なのではないかと思うのです。この感覚の喪失は、はっきり分かっているだけでも視覚、聴覚、触覚のそれぞれに及びます。

この感覚を元に戻すことができたら、どんなにすがすがしい気持ちになるのだろうかと思わずにいられません。

でもそのためには、「見られる自分」というものが捏造された自分像だということにはっきりと気づく必要があるのです。

もしも、同じような感覚を持っているという自覚のある方がいらっしゃいましたら、希望を捨てないことです。きっとやり方があるはずです。

そして、その感覚を取り戻すための練習が実は本当の自分を思い出すことに繋がるはずだとの確信を持っています。これを人生の目標にしてもいいと思っています。

不平不満

何に対してもまったく不平不満を持っていないという人はいないかもしれません。どんなに心穏やかでいい人であったとしても、不平不満がまったくないという人はいないはずですね。

気に食わない人に対してだけではなくて、どんなに愛しいと思えるような人に対してであっても、必ずなんらかの不満な気持ちを持っているものです。

でも不平不満を感じているときに幸せだとは思えないということも誰でもわかっています。それなら、なぜ人は幸せになりたいと願っているのに不平不満から逃れることができないのでしょうか。

それは私たちは生まれたときから、何かが足りないという根源的な思いの中に生きているからなのです。それを欠乏感といってもいいかもしれません。

欠乏しているという思いは、自分は満たされてはいないということを意味します。したがって、願いが叶おうが叶うまいが、とにかく不満なのだというところに行き着くということです。

仮に何かとても大きな願い事が叶って、嬉しくて仕方ないという状態になれたとしても、根源的な欠乏感がなくなるわけではないので、しばらくするとまた周囲の何かに対して不平不満を感じ出すことになるのです。

不平不満はありとあらゆることを対象として、生きている限り続くことになります。会社が悪い、国が悪い、パートナーが悪い、自分が悪い、といくらでも不平を言えるものは出てきます。

不平不満は、自分の中にある大切な愛の心に暗くて重い覆いをかぶせて、それをなきものにしてしまうのです。だから、愚痴をやめられない人は愛から遠ざかります。

自分が幸せでない理由を何かのせいにしようとする人は、もっとも不平不満の多い人になってしまうはずです。いわゆる被害者の意識ですね。

もしもこうした傾向が自分には強いなと思い当たる場合には、自分は何から何まで与えられているんだということに気づいていないだけだと理解することです。

このことに気がつくことができると、本当に不平不満がなくなってしまいます。そして当然の結果として、満たされているという思いを抱けるようになるのです。

それは本当に幸せなことです。不平不満を主張し続けたいのか、幸せになりたいのか、二つに一つだということを再認識してみることですね。

おでこの上

ずっと以前にとても面白いテレビCMがありました。それを知っているのは私と同世代の人たちだけだと思いますが。

それはごく平凡な壮年ご夫婦の他愛無い会話なのですが、ご主人が新聞を読もうとして老眼鏡を捜して見つからずに、奥さんに問いかけます。「かあさん、メガネはどこにやった?」

奥さんはあきれるでもなく淡々と、「おでこの上」というのです。確かにご主人はメガネをおでこの上にずりあげていながら、メガネを探していたんですね。

これが何のCMだったのかはまったく覚えていないのですが、その夫婦のなにげないやりとりが何とも微笑ましくて、その時代かなり一世を風靡したコマーシャルだったと思います。

最近気がついたことを思っていたら、突然このCMのことを思い出したのです。それは、今自分が探しているもの、一番欲しているものは自分のすぐそばにあるということ。

そのことに気づいていないということですね。 気づくというのは、すべてにこうしたことが言えるのではないかと思うのです。

日々精進して、努力しても気づけない時は気づけないのですが、ふとしたときに急に気づくことができたりするのですから、気まぐれなものですね。

だからといって日々意欲を持って何かに向き合うことが気づきを得るためには無駄なことだということではないと思います。

ただ、気づきがやってくる時というのは本当に唖然とするくらい突然やってくるということです。毎日見ている風景や会っている人たちなのに、そこにある種の気づきが訪れると、とたんに新鮮な感覚で見聞きすることができるのです。

それはまるで、隠し絵の中に隠れている動物や人物が急に見えてきたときのような、あの感動を覚えるのと似ているかもしれません。

だとすると、これから先についても同じことが起こる可能性が多分にあるということですね。それは常に自分のすぐそばにあるのです。気づかずにこの世を去りたくはないと強く思います。

自分の残された人生の目的とは、それに気づくことだと思っています。そして、それは必ず誰の近くにもあるものに違いないと思います。

なぜなら、それとは本当の自分の姿のことだからです。真の自己とはなんなのか、是非とも知りたいと思いませんか。唯一意味のある質問とは、自分とは誰かということに尽きると思うからです。

すべてが与えられているもの

久しぶりに本を読みました。その本を読んでいて、とても気づいたことがあります。それは、今自分が見たり聞いたりしているものは、一つ残らず全部自分に与えられているということ。

それはすぐに感謝の気持ちと一体になりました。部屋にいて、本を読んでいるときにはそれほどの実感はなかったものの、夜クルマに乗っているときにそれはやってきました。

今自分が見ているさまざまな人や道路や街並みやその他あらゆるものが、自分に提供されているという思いです。

与えてくれているのも実は深いところの自分なのだとわかったのですが、そんなことよりも与えてもらっていることがただ嬉しくてありがたくて感動しました。

だからといって、いつものごく普通の自分がいなくなってしまったわけではなく、ひょっこり飛び出してきそうな若者がいれば、腹も立つのです。

狭い道路の路肩に駐停車しているクルマがあれば、もちろん迷惑だなとも感じるのは普段の自分の感覚と何も違いはないのです。

でも、自分がいい気持ちであろうが、いやな気持ちであろうが、そのことと与えてもらえてることの感謝とは別のことだというのが分かったのです。

どっちの自分に意識を合わせるかで、いつもの自分が優勢になったり、大きな感謝に圧倒されたり、選択することもできるのです。

もちろん、こんな嬉しい体験は記憶の限り初めてなので、感謝の方をずっと選んでいたのは言うまでもありませんが。

数年前に瞑想中に感謝の嵐の中に放り込まれたようになったことはあったのですが、今日体験したことはごく普通の精神状態のままでしたので、それがとても自分としては驚きなのです。

そして感謝のほうに意識を向けていると、いつも見ている夜の景色がより一層キラキラとした輝きをもって新鮮に目に映ったのです。

この驚きを是非みなさんにも体験してもらいたいと思います。何の努力もがんばりもいりません。すでに体験している人がいらしたら、是非それを分かち合いたいと思います。

たぶんごく簡単なきっかけさえあれば、きっとそれはやってきます。心の癒しというのは、そういうものなんだと初めて気づいたかもしれません。

自己像

人は生まれてから少しずつ成長するにつれて、自分とはこういう人物なんだということを自分に教え込んでいきます。その内容のほとんどは、人が自分をどう見ているかというところに由来しています。

特に幼いうちは、大抵が親などの身近な大人たちによって、お前はこういう奴だということを刷り込まれていくことになります。

子供は自分自身では自分をどう見るかということがうまくできないために、親の言うことを丸ごと信じてしまう可能性が高いのです。

そうやって、自己像というものの基礎が作り上げられていくのです。この自己像というものがなかなかクセモノであって、それに翻弄されてしまうことも多々あるのです。

それというのも、場合によっては本当の自分の好みとは違うものを好む自己像が出来上がってしまっている場合すらあるからです。

本人の生まれ持った個性や特性とは違ったものを持つ自己像が作られてしまうと、幼いうちは自覚できないでいるとしても、いずれはさまざまな心の障害が露呈してきます。

それは、いつも心のどこかに得体の知れない不安感や満たされないような強い思いというものがくすぶって、その理由すらわからずに悶々とすることになります。

そしていつか、それは火山の噴火のように爆発することになってしまいます。そのときに初めて、本当の本人の姿というものが表面に出てくることになります。

それは長い間、無意識的に心の奥底に抑え込まれて隠されていた素の自分の姿であり、その存在と対面することは本人の人生にとって奇跡的な衝撃があるかもしれません。

一度は自分の自己像を疑ってみても悪いことではないと思います。そして、その中心にいる自分のイメージが本当の自分の姿をちゃんと表しているかどうか、チェックしてみることです。

自分はこんな仕事が適している、こういうことをやっていきたいと願っている、でもそれは自己像がそう訴えているだけで、本当の自分は違うかもしれないというようなことですね。

本来の自分が自分らしく生きることができなければ、何をしたとしても決して満足することはできないはずです。作られた自分では幸せになれないということですね。

何にもとらわれないまっさらな気持ちで、自己像を再度見つめてみることは自分の人生をよりよくする大きなチャンスにもなると思います。
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エゴの許し

エゴの矛盾は笑ってしまうしかないほどです。人類の歴史は罪の償いの歴史といっても言いすぎではないと思いますが、この罪の償いということほど矛盾していることはありません。

なぜなら、罪というのは決して償うことができない間違いのことを言うのですから。そう決めておいて、罪を償いなさいと言うとは何たる矛盾でしょうか。丸い三角と言っているのと同じです。

絶対に不可能なことをやりなさいというのがエゴの根本原理としてあると思います。それは、時間が続く限りそれをやり続けることができるからですね。

それでエゴは安泰。コースでいう真の救いとは贖罪、それは罪はないとして許すということです。ですから、この現実が本当であれば私たちは許すことなど絶対にできないということです。

それを勘違いして許さねば許さねばと頑張ったところで、それこそエゴの矛盾に丸ごとはまり込んでいくことになりますね。

だから、惨めな思いをさせられたことが本当に起きたことだとしておいて、加害者を許すことなどできないとまず明確に分かることです。そうしないと、コースの教えはエゴの手先と化します。

しかし、この間違ったエゴの許しを実践しようと頑張ることにもメリットがないわけではありません。それは、自分が相手を許してはいないということが分かるし、許したくもないという思いを持っていたことすら気付くからです。

あがいてもがいて許そうとする一見無駄な努力でも、何もしないでいるよりも、多くの気づきをもたらしてくれると思うのです。

そのもがき苦しむ自分のことがふと可笑しく思えたときに、きっと力が抜けて自分の無能さに気付くのかもしれません。

ああ、自分には許すことなんて到底無理なんだと。徹底的にうちのめされたら、本当に聖霊に委ねる気持ちにもなるというものですね。

その時、もしかしたらこの世は自分を映し出す幻想に過ぎないということも聖霊を通して心に入ってくることになるかもしれないと思います。

新しい自分

紆余曲折いろいろなことはあったけど、最後に笑うことができれば途中の否定的なことはすべて消えてしまい、結果として全部OKになってしまうというのが、「終わりよければすべてよし」ということの意味ですね。

私は、自分の人生でこのことを体験したことがあります。会社員の生活を20年以上続けていたときには、いやなことや辛いことなどもそれなりにあったのですが、10年前に今の仕事に変わったときに、この言葉を思い出しました。

後悔したり、反省したりすることは沢山あるものですが、今自分が満足できているのなら、過去のそうした失敗や間違いなどのことは、どうでもよくなるんですね。

いつまでも過去のことを思い悩むということは、今満足できていないということの証拠なのです。「終わりよければすべてよし」は、「今がよければすべてよし」と表現することもできます。

私は殊更終わりということを意識する必要はないと思っています。いつも新しい今が始まり、それは今終わるのですから。

始まっては終わるということが毎秒毎瞬ずっと続いていると思えばいいのです。だから今この瞬間本当に満たされていたら、心の中からネガティブな過去は消滅してしまいます。

そして、今この瞬間始まったことは同じこの瞬間に終わるとも言えるので、未来を不安な心で見つめることもなくなるということですね。

この感覚をずっと忘れないように持ち続けていることができたら、一切の不安や恐れが消えてしまうはずです。勿論、自分を責めたり周りの人を責めることもなくなります。

なぜなら、罪悪感は常に過去にその根拠があるからです。今生まれた自分は今のまま継続するのではなくて、次の瞬間にまた新たに生まれるのです。

だからいつも今が勝負なのですね。過去の中にあっても消えずに残ることが出来るのは、愛だけだと思って間違いありません。それ以外の過去は今とは無縁です。

いつも新しい自分でこのときを生きれたら本当に素敵ですね。