風邪をひかない方法

最近風邪をひかなくなりました。覚えている限りでは、もう3年以上は引いてないようです。どういうわけか、何だか風邪ひきそうな気配がすると思っても治ってしまうようになったのです。

それまでは、年に2回くらいは引くのが当たり前になっていて、一度ひくと治るのにすごく時間がかかっていました。ぐずぐずと熱が下がらない状態が続くのです。

子供の頃からすぐに扁桃腺が腫れる体質らしくて、ご飯を飲み込むのも辛くなってしまうこともよくありました。

このごろでも、寝る前に何だか喉が腫れている感じがするなと感じることはよくあるのですが、一晩寝て起きると、調子がよくなっていることが多いです。

実は今日も寒い中、ちょっとした用事で外出して戻ってみると、どうも額が熱っぽい感じがして、ああこれは以前だったら風邪を引く前兆だなと思ったのです。

ですが、何か他のことに意識を向けている間に、やっぱり治ってしまうのです。風邪をひくと身体が具合悪くて辛いのですが、ある種毒出しの効果もあるので風邪そのものは悪いとばかりは言えないんですね。

でも風邪をひかなくなってしまったことで、それまで出していた毒はどうやって出すようになったのかなとふと考えることがあります。

それで気づいたことがあります。人間生きている限りは、多かれ少なかれ身体には毒が溜まるものですね。私が知る限り、例外はないと思います。

人によってもっとも違いがあるのは、毒を出しやすい体質か、逆に溜めやすい体質なのかということが大きいのかなと。

私の場合、体質が変化したというよりも、生活全般の変化が緩やかに影響し出したのではないかと思っています。

会社員だった頃と比べたら、瞑想をするということに代表されるような、心を静かにする時間を持つことが多くなりました。

心が静まると、身体への負担が減る分だけ、毒出しが促進されるのではないかと感じています。かしこまった瞑想でなくても、ただ静かに心の中心と繋がるという感じで心の平安を作ってあげるだけで効果があると思います。

巷では、インフルエンザが猛威をふるっているようですから、みなさんも手洗い&うがいの基本はしっかり守った上で、心を平安に保つ工夫をしてみるといいと思います。

セミナーのこと

昨日は三ヶ月ぶりのヒーリングセミナーの開催がありました。前回同様沢山の方々に参加していただいて、とても満足のいくセミナーができたと思っています。

セミナーのメリットとは、何と言っても参加者全員でシェアができるということですね。お互いがお互いの内面的な部分を共有することで、知見が広がるのです。

そして、自分一人で密かに抱えていた問題などが目の前で明るみにされて、尚且つそれを誰も責めるでもなく、みんなに許されているのを見て自分を許すことができるのです。

こうしたことの効果は、なかなか個人セッションでは体験できないものです。必要なのは、少しの勇気と思い切りかもしれません。

私のセミナーに参加してくれるみなさんは、自分のことをとても素直に表現できる人が多いのが特徴で、そうした環境に初めての人でも馴染んでしまうのでしょうね。

誰もが自分を包み隠さず、みんなの前で正直に曝け出せることでとても大きな癒しを体験することができるのです。

これは誰がどうというレベルではなくて、全員のおかげだとしか言いようがありません。セミナーの間中、みなさんがご自分の感情と向き合っている姿を拝見するたびに、私自身も感じるものがあるのです。

本当に様々な人生を生きてらして、各々が精一杯毎日を暮らしている中で、こんなに全員の思いが一つにまとまることができるのが奇跡かもしれません。

みなさんが、確実に大きな一つのステージを上がって行かれるのを感慨深く見させていただきました。みなさんには本当に大きな感謝しかありません。

また三ヵ月後のセミナーでご一緒できることを、心から望んでいます!

自己犠牲 その2

昨日の続きです。

自己犠牲なんてもう真っ平御免だと思っても、そう簡単にはやめられない理由があります。自己犠牲を払ってでも手に入れたかった自分の存在価値については、もういいよと思ったとしてもそう簡単に方向転換できない理由があります。

それは自己犠牲を自分に強いている張本人は大人の自分ではないというのが一つの理由です。元々、自己犠牲を強いるようになってしまったのは、子供の頃の自分が自分を守るためだったのです。

したがって、自己犠牲の中心人物は子供のころの惨めな自分なのです。自分はこのままでは生きている意味がないかもしれない、見捨てられても当然かもしれないという思いが奥にあるのです。

それを何とか払拭したくて、頑張り続けるということです。そのやり方が自己犠牲に繋がるわけですね。やりたくもないことを頑張ってやって、親を安心させようとしたりするのはすべてこのためです。

子供の頃のそうした自分は、すれすれのところで何とか見捨てられないように、頑張って毎日過ごしてきたのです。それが自己犠牲と言われようが何と言われようが必要だったのです。

その子供の思いというものが時間を越えて大人になった今の自分を縛っているということです。だからこそ、簡単には大人の自分の思いだけでは変えることが難しいのです。

そして、自己犠牲の裏にはそうでもしなければ生きられないという切羽詰った思いがあり、それは実は周りの人に対する不信感でもあるのです。

だから、人を信頼することができないために、おいそれとは自己犠牲をやめようとはしないだけでなく、やめるなら今までの自分の苦しみをどうしてくれるんだという思いを持っています。

どんなに信頼できそうな人がいてくれても、信頼できるという事実を受け入れてしまったら、それまでの自分の苦悩が消えてしまうことになるということですね。

いつまでも人は信頼に足らないと思い続けたいということです。この状態を解きほぐしていくのにはそれなりの時間が必要なのは察してあげて欲しいと思います。

あとは、時間をかけてゆっくりと、幼い自分の思いを聞いてあげて、頑張ってやってきたことを心から認めてあげることです。そこから、少しずつ心は緩んでくるのではないでしょうか。

自己犠牲

誰に教わったわけでもないはずなのに、気がついたら自己犠牲を払う習慣がついてしまっていたという場合、人はそれを手放すのに苦労するかもしれません。

それと言うのも、苦しむことになるのに自己犠牲をするにはそれなりの理由があるからです。実は自己犠牲を強いてしまう裏には隠れたメリットがあるのです。

その隠れたメリットのことを正面から見つめて、もうそんなものはいらないときっぱりと分かるまでは、自己犠牲を続けてしまうのです。

自己犠牲そのものにメリットがあるわけでは勿論ないのですが、自分が我慢してまで周りのために尽力することにこそ、かきたてられるような魅力があるのです。

その魅力とは一体どんなものかというと、結論から言うとそれは自分の存在価値を高めようとすることなのです。

自分がどんなに我慢をしようと、成果として自分の存在価値が高くなれば、何とか生きていける、あるいは生きていていいんだということになるからです。

自己犠牲というものは、愛とは決して共存することができません。自分に限らず何かを犠牲にするという思いのもとは、恐怖だからです。

人類の生贄(いえにえ)の歴史を見れば明らかですね。罪深いと思っている者たちが神から天罰を下されることを怖れるあまりに、誰かの命を犠牲にして神に捧げることで自分たちは助けてもらえるとするのが生贄の本質ですね。

このように自分以外のものを犠牲にするのは目立ちますが、自己犠牲については本当のところ本人にしか分からない場合も多いのです。

心に愛を感じなければ人は幸せからは遠ざかっていきますので、自己犠牲を強いてるという自覚がある人は何としてでもそれをやめていくことです。

つづく

親子逆転

多くのクライアントさんの生い立ちなどを詳細にお聞きしていると、まるで親子が逆転しているかのようなケースが少なくありません。

何も分からぬ幼子を丸ごとしっかりと守って育てていくのが親の役目だと誰もが思っていますし、育てられる方の子供は親を信頼して甘えていく中で自分というものを育んでいくわけですね。

ところが、そうした大切な時期に子供の視点から親を見た場合に、その親が可愛そうに思えたり、怒りなどの感情の揺れが大きくて信頼できなかったりということがあると、子供は親に甘える代わりに親をかばおうとさえしてしまうのです。

特に敏感で感性が豊かな幼い子は、親の心の状態を肌で感じ取ってしまうために、親を心配の目で見るような癖がついてしまったりもします。

感情の揺れの激しい親は、気が立って突然怒りを無抵抗な子供にぶつけてしまったりすることがよくあり、それが子供からは恐怖に感じたり、親のことを子供っぽいとさえ感じたりしてしまうこともあるのです。

そうなると、子供は無邪気で自由な自己表現を抑えてしまうようになります。自己主張を抑える主な要素については、過去このブログでも何回となくお伝えしました。

一つは、相手を可愛そうと思うこと、そして相手を怖がること、そしてもう一つは、自分が悪いのだという自己嫌悪や罪悪感を感じること、この三つが主要な理由です。

そうした要素が重なってしまう場合も少なくありません。そうなると、子供は親に対する自己表現や感情表現などを無自覚のうちに抑えてしまいます。

このような育ち方をしてしまったことの「つけ」は、大抵大人になってからやってきます。子供のうちにしっかりやっておく必要のなることが、心の中に沈殿して思い残しとなって大人になってから出てきてしますのです。

そうなると、本人は大人のはずが、子供っぽい行動をしてみたり、感情に激しく翻弄させられたりといったことが起きてきます。

寂しさや欠乏感なども大きくて、何をやっても満たされた気がしないという状態になることもあるかもしれません。そのままでは不自由で生きるのが辛くなってしまうでしょうね。

どうしたらいいかというと、頑張って家族のために犠牲を強いてきてしまったインナーチャイルドを、子供らしい子供に育てなおしてあげる必要があるということです。

一人では難しいときには、セラピストの力を借りて癒していくことも考えることが必要かもしれません。そして子供の自分の無邪気さが戻ってきたら、その分だけ大人の自分が楽になっていくはずです。

理屈に合うか合わないか

自分は子供のころからかなり理屈っぽい少年だったと思います。理屈に合わないようなことを言ったりやったりする人を見ると、たとえ大人であったとしてもすごく抗議的になっていたと思います。

そうやって大人になった今でも理屈というものがとても大切なものとして、心の中心にあるという自覚があります。

この理屈というものは、最終的には正しいか正しくないかという結論を生むものですね。どちらでもないという結果を求めているわけではありません。

理屈に合うものが正しくて、理屈に合わないものは正しくないとするのです。それは意味を拡大していくと、正不正だけではなくて、真偽、善悪、そういったことまで含むようになります。

特に理屈に合わないものは、理不尽さという感覚に変わることもありますし、価値のないものという判断を下す材料にもなっていると思います。

しかし、理屈に合うか合わないかということに価値を置く生き方そのものに意味を見出していると決して幸せになれないということがはっきり分かってしまったのです。

それで今は物事を見るための新しい方法を作りつつあるところです。それは、理屈に合うか合わないかを見る代わりに、愛があるかないかを見ようとするようにしています。

理屈に合っていてもそこに愛が見えなければ自分にとっては意味がないし、逆に理屈に合わないことでもそこに愛が見えるならそれはとても価値のあることだとするのです。

そしてどうやら、理屈に合わないことの方が、そこに愛を見いだせることが多いということにも気づいてしまいました。

きっと愛は理屈に合わないことの中にこそ、その役割を見出せるということなのかもしれません。みなさんは理屈に合わないようなことにどう対処していますか?

そこに他の人や自分の愛を見ようとするのか、理屈に合わないことだとして却下してしまうのか、どちらを選択するかはあなた次第ですね。そして、それによってより幸せが近づいてくるかどうかもあなた次第だということです。

信じることと信頼すること

信じるという言葉と信頼するという言葉には確かな違いがあるように思います。信じるというのは、自分一人の思考でもできることですね。

例えば、どこかの企業の株の値が上がると信じるなら、その株を買おうと思うわけです。 このように、信じるということには、愛が必ずしも必要とは限りません。

自分の心には大きな罪悪感が潜んでいると信じることはできますが、そこには愛のかけらもないのですから、このことは明らかですね。

一方、信頼というのは常に愛と関連しているのです。自分の相手への愛、または相手の愛ゆえに信じることが出来るとき、それを信頼というのだと思います。

あの人は信用できる人だというときには、ただ困った事態にはさせないだろうという程度の感覚ですが、あの人は信頼できるという場合には味方になってくれるというような思いが込められているのです。

このように、単に信じるということは感情を抜きにしても可能なことのように思いますが、信頼はより深い愛の気持ちと繋がっていると思います。

ところで、信じるということは愛とは無関係にできるのであるとすると、そのメリットはどんなことが考えられるでしょうか。

自分はあの人のことを本当は愛してはいないのかもしれないけれど、真面目で実直でよく働く人なので、私を幸せにしてくれるかもしれない、などと思って結婚するのは、「信じる」の方ですね。

この場合のメリットは、一過性の安心感を得ることかもしれません。その安心を得られなければ、到底その人と結婚しようと決意することはできないわけですから。

しかし、やはりそこに愛がなければ、その安心は一過性のものに過ぎないため、結局は幸せになるどころか、未来に対する不安は尽きないものとなってしまいます。

一方で、相手に対する変わらぬ愛を感じるのでしたら、それは信頼することに繋がるわけですから、ただの安心というよりも継続的な心の平安を手に入れることになります。

結局、信じることと信頼することは若干似ているように思えても、その実はその思いに愛が含まれるかどうかというとても大きな違いがあったということですね。

みなさんは、周りにいる人達のことを信じていますか?それとも信頼していますか?その違いをよく見つめてみる必要がありますね。

そして信頼は自分の心の中にある愛を使うことになるのだということ。愛を感じることができるのなら、信頼をいつも持っていることができるということになります。

羨望と嫉妬

自分の場合、気づいていることがあるのですが、それは誰かのことをあまり好ましく思っていないという場合には、必ず自分を防衛しなければいけないと思っているということです。

相手がどんな人であろうと、そうしたことには無関係のようです。とにかく、自分の何かが脅かされる危険があると察知したときに、その人のことを好ましいとは感じなくなるのです。

こうしたことは冷静に考えてみると、相当に昔から変わらずにあったということが分かります。子供の頃からであることは確かですね。

この独りよがりはなかなかたちが悪いですね。なぜなら、客観的に見たら、ああこの人いいなあという場合であっても、このことが一度発動してしまうと好ましく感じなくなってしまうのですから。

羨望と嫉妬は紙一重なのかもしれませんね。それでも最近は、少しこのこと自体を客観視することができるようになってきたおかげで、大分緩和してきました。

すばらしいものはすばらしいと、自分と比べることなく思えるようになってきました。それは、その素晴らしさが実は自分の一部であるということに気づいたからです。

自分の周りにいる人達は、自分より進んでいるように見える人、自分よりもすごく能力の高いと思える人、自分より人格が数段上だと思える人などがウヨウヨいます。

そうした人達は、自分の知覚の中に存在しているわけですから、自分の内面を投影しているに過ぎないわけです。

ということは、自分の一部であることに違いないと思えるようになってきたことで、それまで感じていた嫉妬やそれに付随する自己嫌悪と防衛せねばという感覚が減ってきたということですね。

誰のことも好ましく感じることができたら、本当にこの世界は楽しいところだと感じることになるでしょう。今はそれを目指して毎日、コースのワークを続けています。

遊び心

クルマのハンドルには通常、「あそび」というものがあります。運転する人は知っていると思いますが、ある種の余裕のことですね。

ほんの少しだけハンドルを切っただけでクルマの向きが変わるようなシビアな状態では、怖くてとても運転などできるものではないです。

だから、鋭敏さを少し鈍らせて、その反応に余裕を持たせてあるわけです。直進状態で、ハンドルを少しくらい左右に動かしても、クルマはそれほど反応することなく真っ直ぐに進んでくれるのは、そうした「あそび」があるからです。

人の心にもこれと同じような、いわゆる「あそび」という余裕が必要ですね。セラピストになった頃からずっと言い続けていることに、子供にとって一番いい親というのは、心に余裕のある親だというのがあります。

親がどんな性格の持ち主かということはあまり大きな問題ではありません。どれだけゆとりを持って子育てをしていられるのかということが大切なのです。

子供は言葉ではなく、親のそうした心の状態を敏感に検知して、それと同じような精神状態になってしまうからです。

大人になってもなんとなく、いつも切迫したような感覚を持っているという場合には、この心のゆとりである「あそび」が足りない状態になっていると気づくことです。

そして、クルマのハンドルと同じように、心に「あそび」の部分を作ってあげること、これがとても大事なことです。

遊び心のある人は、感情に揺さぶられる度合いが少ないはずです。なぜなら、物事の善悪や正不正などを解釈するところに、「あそび」の要素が入り込んでくれるからです。

逆に、「あそび」が少ないと、何にでも生真面目に反応してしまうために、本人も周りもとても生きづらくなってしまうのです。

あなたの遊び心はどのくらいあるでしょうか?自分の生きやすさと「あそび」は比例するはずですので、折に触れてよく観察してみるといいと思います。

そして、みんなで遊び心満載な人生を楽しみたいものですね。

何もない日々

小学校低学年の頃に、夏休みになると宿題として毎日絵日記を書かねばならないということがありました。そういうことが大嫌いな自分は、いつも書くことがないと思っていました。

それでも自分なりに真面目に書いたものを母親に見せると、母親は面白すぎて笑いをこらえきれずにもっと書けないの?と言ったものでした。

それはきっと毎日、「朝起きて○○ちゃんと遊びました。」くらいしか書いてなかったからだと思います。そして絵はというと、その時に見たまぶしい太陽を描くだけだったと思います。

そういう日記が毎日続くのですから、親は苦笑いせずにはいられなかったのでしょうね。でも、本人としては本当に他に書くことがなかったし、書くことが大嫌いでした。

毎日何のイベントがあるわけでもないし、日々何事もない一日をずっと続けていたので本当に書くことなんてないよと思っていました。

それから、実に50年近くたった今でもその頃とあまり変わらない毎日を過ごすようになりました。今日はたまたまちょっと出かける用事があったけれど、普段はそれすらありません。

大したことは何も起きない平凡過ぎる毎日を送っています。でもあの小学生の頃と比べて一つだけ変化したことがあります。それは、毎日こうしてブログやミクシー日記を書いていることですね。

本当に自分でも不思議としか言いようがないのですが、書くことが苦痛ではなくなったのです。そればかりか、何のイベントもなくてもこうして書くことがあるのです。

それは自分の身の上に何事も起きてなくても、大切な自分の内側では毎日様々なことが起きていることに気づいたからかもしれません。

心は目には見えないですが、本当に沢山の経験を毎日しているし、だからそのことをずっと観察してさえいれば書くことがなくなるなんてことはないということです。

身の周りで起きていることよりも、何倍も多くのことを心は経験しています。それを楽しむことができたら、何はなくても楽しい日々を送ることができます。

これってお得だと思いますので、是非試してみて下さい。でもたまには、イベントごともあれば嬉しい日になりますので、それもまたありですね。