幸せの形?

幸せというものには定義はないと言うのが定説になっていると思います。つまり、幸福感というのは人それぞれに違いがあるから、幸せとはこうだと客観的に定義できないと言っているのです。

ある人は大好きな人と結婚できたので自分は幸せ者だと思っているでしょうし、念願の仕事を手に入れることができたので幸せだと言うかもしれません。

友達が沢山いて毎日が充実しているので幸せだと言う場合もあるでしょうし、子供がすくすく成長している姿を見れるだけで親としては最高の幸せを味わっていると言うかもしれませんね。

どれもこれもみんな素敵なことです。それを否定する必要もありません。もっとすばらしい幸福があるよなんて言わなくてもいいとも思います。

ですがここで立ち止まって一つ考えてみて欲しいことがあります。それは、そうした幸せがいつ何時奪われてしまうかもしれないという不安があるはずだということです。

いつまで今の幸せが続くんだろうか、もしかしたらそれがある時消えてしまうかもしれない。その可能性が完全になくならない限りにおいては、心の中の不安がなくなることはないということです。

その不安を内在したままでの幸せについて語っていたということです。人間である限り未来を知ることはできないし、そんなことを言っていたら幸せなんてどこにもなくなってしまうと思えます。

こういった幸せというものが、不安と隣り合わせになっている理由は、それが何かを手に入れたことによる幸せだからです。

上の例で言えば、理想の結婚相手であり、念願の仕事であり、気の合う友達であり、愛しい子供の姿なわけです。願っていたものが手に入ったということは、それを失う怖れがいつも付きまとっているということにもなるのです。

こうしたことを考えていくと、未来永劫不安な思いから完全に開放されることが本当の幸せなのだろうと言うことが分かります。

それは何か足りないものを手に入れることでもなければ、それをずっと保持しようと頑張ることでもありません。ずっと不安のない心、いつも平安な心とは、結局のところ外側のことに翻弄されない心を持つことでしか実現しません。

なにはなくとも、今この瞬間に心が満ち足りているという思いこそが、ずっと変わらずに平安な気持ちでいられることを保証するものです。

それは外側ではなく、内なる自分と繋がるという抽象的な言葉で表現することになってしまいますが、何も求める必要がなくなったときに感じる深遠な心の状態なのかもしれないですね。

そして必ず誰もがその状態になることができるはずです。なぜなら内なる自分は誰の心の奥にもあるものだからです。まずは目の前にあると感じる不満を手放すことからやっていきましょう。

その奥にある満ち足りた本当の自分への気づきを邪魔しているのは、もっとこうしたい、もっとこうなりたいという尽きない願望だからです。願望は必ず不満を生み出すのです。

心をできるだけ静かにして、ゆったりとした気持ちを作り出して、その奥に感じる何かどっしりとした自己を探してみることにしましょう。

その自己は何も足りないものなどないときっと教えてくれるはずです。何一つ、怖れるものなどないということを分からせてくれると思います。