解釈しない

ある人と電話でお話しをしている時に、「神は光であり、自分はその光の中で見る。」という言葉(想念)を心の中で繰り返していたら、何かすごく変な感じになりました。

相手の言葉を聞いていながら、こんな発音を互いにすることでコミュニケーションをとっているつもりになっているだけだという感覚になったんです。

他の動物も同じように鳴き声などによってある種のコミュニケーションをとっていますが、それがやや緻密になったものが人の言葉だということですね。

でも残念ながらそうした言葉を使って相手と意思の疎通ができると思っているのはただの思い込みに過ぎないのです。

本当に分かるというのは分かち合うことが必要であり、それは一つになること以外にはあり得ないわけですから、互いに別々の個体だということを信じている限りは真のコミュニケーションはできないのです。

話しを元に戻して、電話の向こうで何かを一生懸命発音している人がいるという、一見とても冷ややかに聞こえてしまうかもしれませんが、そんな感じになったんですね。

意味をつかもうとすればそれもできるのですが、ただの音の集まりだと思えばそのようにも感じることができました。意味の分からない外国語を聞いているのと同じですね。

何か聞きたくない言葉、自分にとって都合の悪いような言葉を理解できないようにするのは、いわゆる防衛機制の一つとして心のメカニズムの中に明確にあるのですが、それとも違っていました。

相手の言葉から自分を守ろうとすることもなく、ただ淡々と聞いているうちに言葉がただの発音として受け取ることができた感覚です。

それは言葉の意味だけではなくて、相手の気持ちや感情なども一緒になって単なるエネルギーとして分かるだけになったのです。解釈しないというのはこうしたことなのかもしれませんね。

解釈しないでいられると、自分の心が波打つことがなくなります。なぜなら、解釈しないでいると何事にも反応する必要がなくなってしまうからです。これはある意味とても気持ちのいい体験でした。そこに幸せへのヒントがあると思います。