一瞬一瞬を注意深く

昨日のブログで、私たちの本質は思考などではないということをお伝えしました。なぜそんなことを言わなければならないかというと、大勢の人が思考(自我)が自分だと信じているからです。

自我というのは思考であり、無数に集まってマインドという機能として働いているのです。それは決してあなたではありません。

ではなぜ私たちはこれほどまでに思考に浸食されてしまっているのか?それは、私たちの本質である意識が眠ってしまっているからです。

宿の主人が寝込んでいる間に、その宿を占拠した図々しい奴らがいるのですが、それこそが思考(マインド)なのです。

別の表現をすれば、寝込んでいる間に思考によって占拠されて、それこそが自分なのだという夢を見ているようなものです。

だから意識が目覚めることになったら、一瞬にして眠っていた意識こそが自分の本質だったと気づくのです。

夢の中で思考に乗っ取られていた、あるいは乗っ取られている夢を見ていただけだったと気づくことになるのです。

その一番の近道は、日々できるだけ意識的であるように心がけることです。一瞬一瞬を注意深くいられるようにすることですね。

思考から離れること

東京エリアでは、この週末外出の自粛要請がされたようですが、ちょうどタイミングよく雪が降ってくれたおかげで、それほど苦もなく家のなかにいられた人も多かったのではないかと思っています。

そんなときには、静かに意識を内側に向けてみることです。ゆっくりと寛いだ状態になれば、普段どれだけ外側に意識が向いていたか分かるというものです。

思考が自分の本質ではないということをどれだけの人が理解しているでしょうか?言われてみれば分かるのですが、日頃はそんなことは忘れているのです。

しっかりと思い出す絶好のチャンスです。思考が無数に寄り集まってマインドという機能を果たしているのです。

そのマインドの仕組みを深く理解すれば、そんなものが自分自身であるなどとは決して思わなくなるはずです。

ところが自分は個人であるということが、単なる思考によるものだというところまで追い込める人は少ないかもしれません。

思考から離れられたとき、自分には何が残るかをじっくり観察してみるのです。するとそこには、観察するモノ(意識)だけしかないと気づきます。

つまり私たちの本質とは意識だということです。だから大きさも形も位置もそれ以外のどんな属性もないのです。

だから生まれることも死ぬこともできません。ただ永続して在るだけです。思考から離れられたときには、誰でもこのことを知ることができますね。

恐怖は愛の不在

自我が活動していないとき、そのときには恐怖は消えてしまいます。もちろん動物として必須である防衛本能が起こす恐怖は残ります。

ところが心理的に作られる恐怖というのは、自我が活動していない限り、存在しないということです。

つまりは、心理的に感じる恐怖感は自我(マインド)が生み出しているものなのですね。自我が非活性のとき、私たちはその本質としての愛の状態に戻ります。

なるべくリアルに想像してみて下さい。100メートルの高さのバンジージャンプを飛ぶとしたら、その恐怖はかなりのものでしょうね。

けれども、あなたがそのバンジージャンプを飛ぶことで、大切な誰かの命が救われるとなったら、突然恐怖は消えてしまうはずです。

なぜならその瞬間、あなたの愛が発動することで自動的に自我が非活性状態になるからです。恐怖はどこかへ消えていってしまうのです。

愛の状態では、自分の命を差し出すことすらできるのは驚くことではないということです。

それは自我には決して味わうことのできない、満ち足りた至福の状態になるのでしょうね。

正しさは防衛に使われる

マインドというのは、自分が考えることが正しいと思い込むものなのです。なぜなら正しさは自己防衛として役立つからです。

正しさを心の鎧として活用してしまうと、その人の周りには正しくない人たちがたくさんやってくるようになるのです。

これは偶然ではありません。なぜなら、正しさというのは正しくないことと比較しなければ機能しないからです。

正しさが単独で正しいと判断されることはないのです。だから正しさを身に纏っている人は、絶えず正しくない人を周囲に必要とするわけです。

本人が正しくない人を呼ぶのですから、周囲には呼ばれて寄ってくる人たちで溢れかえることになるのです。

もう一つ正しさに依存している人の特徴を挙げると、大抵の場合すぐに謝罪しないことが多いですね。

世の中には決して謝ろうとしない人がいるものです。あなたの周りにもそうした人がいると思うのですがいかがですか?

その人が謝らない理由はたった一つ、誤ってしまったら自分は正しくないということを認めてしまうことになるからです。

だから正しさで防衛している人は、なかなか謝ろうとしないわけです。正しさは防衛に過ぎないということを見抜くことができれば、より自然に生きることができるはずですね。

内的世界で生きる

活動自粛というのは、普段から活動的な生活をしている人にとってはなかなか辛いものがあるでしょうね。

自我というのは、何もすることがないと危険を感じるようにできているからです。退屈とか手持ち無沙汰というのは、その現れなのです。

私のような非活動的な人間であっても、一日中何もするなと言われれば、それはきっとシンドイことになるだろうと想像できます。

高校生の頃の友人が、一日に一回は外出しないと気分が悪くなると言っていたのを今思いだしました。

私にとっては当時まったく意味不明でした。というのも、私は小学生の頃に一度だけ、夏休みの間ほとんど外に出ずに過ごした経験があるからです。

子供としてはちょっと病んでるのかもと思われてもしかたがないのですが、本人としてはいたって平気だったのです。

外側で何が起きているかということへの興味と同じくらいに、自分の内的世界にも興味を持っていたのかもしれません。

だから意識が内側に向いていても退屈をせずに済んだのだと思います。今ピンチをチャンスに変える絶好のときです。

もしもこの週末、あなたの住んでいるエリアで外出の自粛要請が出たなら、じっくりと内側に意識を向ける練習をしてみて下さい。

コロナウイルスが鎮静化したころには、きっと何かが変わっているはずですよ。

思考もウイルスも静まる

ウイルスという見えない敵に翻弄されて、メディアが一斉に人々の不安を煽るようなことばかり報道しています。

毎年猛威を振るうインフルエンザと比べたら、大したことがないはずなのに、私たちは未知であるということだけで、必要以上に怯えてしまうのです。

しっかりケアするべきはして、それ以外は平静な心持ちでいることがとても大切だと思いますね。

こんな時こそ、心静かにゆったりと座って穏やかな時間を持ってみることです。不安があればそれだけ思考も働きがちですが、それを眺めるのです。

思考は見つめられるとあっという間に静かになっていきます。思考と思考の切れ間に深遠な無が存在することに気づくはず。

起きていることをただ眺めている、そうなったらもうそこには不安も孤独も何もかも消えてしまうでしょう。

ひとりでも多くの人が、1日に1回でもこうした時間を作れるなら、買い占めなどもなくなり、気がついたときには思考と同じようにウイルスも静かになっているはずです。

何とかしようとしない

私たちのマインドには様々な思いや気分、そして気持ちや感情などが取っ替え引っ替えやってきます。

その中には都合のいいものもあるし、かなり都合の悪いものもあるでしょうね。それがマインドというものです。

自分のマインドとの付き合い方の中で一番下手なのは、都合の悪いものがやってきたときに、それを何とかしようとしてしまうことなのです。

「醜い嫉妬心」がやってきたら、それと戦わないこと、それを抑圧しないこと。それを何とかしようとすればするほど、それは強くなるからです。

「猜疑心」がやってきたら、それと戦わないこと、それを抑圧しないこと。それを何とかしようとすればするほど、それは強くなるからです。

「自責の念」がやってきても、「罪悪感」がやってきても、「劣等感」がやってきても、「惨めさ」がやってきても、「怒り」がやってきても全く同じこと。

それらと戦ったり、それらを抑圧しようとしたり、それらを何とかしようとすればするほど、それらは強くなってあなたを襲ってくるでしょう。

もう分かりましたよね?どんなマインドであれそれを何とかしようとせずに、ただ傍観すればいいのです。

言い方を変えると、それに対してただ無関心でいればいいのです。見守るでも同じことです。

それができれば、それらはいずれひとりでに小さくなっていくことになるからです。信じるのではなく、ただ実践してみて下さいね。

瞑想によって垣間見る

この生の中で唯一不自然なことと言えば、自分は個人としてそれ以外の全てから分離しているということ。

それはどんな妄想よりも酷い間違いなのです。このとんでもない妄想は、周囲から作り出されたものですが、誰もがその妄想に取り憑かれてしまったので、それが真実だと感じるのです。

けれどもどれほど真実のように見えたとしても、所詮は妄想なのでそれを維持するためには相当なやりくりが必要なのです。

その方法は、思考を継続的に働かすことで騙し続けることなのです。もちろんかなりのエネルギーを消費しますが、私たちはそれが生きることだと錯覚しているので平気なのです。

その思考は欲望によって維持されるのです。欲望がなくならない限り、過去や未来を用いて個人は生き延びることができるのです。

もしも欲望が途絶えてしまったなら、個人を下支えしてきたマインドのエネルギーが一緒に消えてしまうはずです。

そうなったら最後、もう個人でいるなどということは脆くも崩れ去り、ただ在る自己に戻ることになるのです。

分離という夢が消えてゆき、残るのはあるがままの生だけになるのです。瞑想によってそれを垣間見ることはできるはずですね。

恐ろしいのは人間の不安感

新型コロナウィルスのおかげで、毎日通っていたスポーツクラブは今月の初めから休館になってしまい、若干身体を持て余し気味のこの頃です。

マスクが足りないのは知っていますが、トイレットペーパーや消毒用のアルコール、さらには謎のお米不足なんかも発生しているようですね。

ウィルスと何の関係があるのかと思ったら、どうやら外出しなくてもいいように買い溜めをしている人が多いのだとか。

気持ちは分からなくもないですが、自分や自分の家族さえ良ければいいというのが不安感からやってくる防衛ですね。

私もたくさんの防衛をしてきていますが、ただ買い溜めは苦手なグループに入るようで、いつもできれば手ぶらでいたいのです。

家の中のどこかにガッチリ買い溜めしたものが置いてあったりすると、そこから腐ってくるような気がしてダメなのです。

ウィルスよりも断然恐ろしいのは実は人間の不安感なんですね。このまま経済が停滞してしまえば、倒産する会社も多数出てくるでしょう。

病気だけでなく、経済的な不安というものが人類全体で一気に膨れ上がってしまうと、全く予想できないくらいのダメージがやってくるかもしれません。

私たちの不安が株を暴落させてしまうことは誰もが知っていることですね。本当に恐いのは、私たちが作り出す内面のイメージなのです。

だから出来る限り、気楽にゆったりと日々を過ごすことを心がけることが大切だと思います。

分離不安が起こす悲劇

誰にでも誕生日がありますね。それはあなたがお母さんの身体から外の世界に飛び出してきた日です。

それまではずっとお母さんのお腹の中にいて、羊水の中でぷかぷか浮かんでいたのですから、この世界を知らずにいたのですね。

ところでお誕生日には、自我として成り立っているあなたはまだ不在でした。ただ肉体だけが母体から分離しただけなのです。

そこから2〜3年の年月を経て、今度は自我が産声をあげて、母親のマインドからゆっくりと離れていくことになるのです。

この時に赤ちゃんの安心が足りないでいると、分離不安が後々残ってしまうことになるのです。

場合によっては、赤ちゃんが自分から自然に分離していくことを許さない母親もいるのです。

そのような場合は自我ができた後も赤ちゃんは母親の思考エネルギーの中に閉じ込められてしまうのです。

独立した個人としての自我があるのにお母さんの中にいるのですから、言ってみれば、お母さんの奴隷状態のようなものです。

お母さんのマインドに幼い頃の分離不安が強く残存していると、赤ちゃんが自分から分離していくことを不安に感じるため、それをさせないようにするのですね。

こうしたことは家庭内で密かに進行していくので、外側からは気づけないのです。そうして育てられた子供は、成長しても精神的な自立が難しくなります。

他人との間に対等な人間関係が築けなかったり、依存心が非常に強かったりといった生きづらさが残るかもしれません。

もしもあなたがそうした生きづらさを抱えているなら、こうしたことを疑って見る必要もあるかもしれません。