惨めさと共にいる

以前から一貫してお伝えしてきたことですが、癒しというのは自分の奥に隠し持っている「惨めさ」に気づき、それを逃げずに見ることで進むのです。

日常生活の中で、自分はどんな状況になると惨めだと思い込むのか、そこをしっかり理解することができれば、惨めを隠さずに済むようになるのです。

自我というのは、必ずやあらゆる期待値を持っていて、それに対して現実に起きることとの落差があるときに、惨めだと思うのです。

つまりは起きたことがそのまま惨めさに直結するわけではないということ。常に期待値との比較によってのみ惨めさが作られるわけです。

勝手に惨めさを作っておいて、それがあまりにも悲しく受け入れがたいので、それを何とかして抑圧しようとするのです。

そのときに自動発生するのが怒りという感情です。もしもあなたが怒りを感じたとしたら、そのときには間違いなく惨めさを隠しているのです。

そのことにリアルタイムで気づけるようにすることで、怒りはあっという間に小さくなってしまうはずです。

惨めさは事実ではなく、期待値と現実とを比較することで起きる単なる思考に過ぎないことを理解すれば、恐るに値しないことに気がつくのです。

惨めな自分を抱きしめることで、そこから逃げずに悲しみと共にいるなら、自然と人生が変化して行くでしょうね。

自我→防衛→自己犠牲

セラピストになって人々の生き様を見て、人生とは防衛の連続で成り立っているようなものだと思うようになったのです。

だから私のセッション中には、何度も繰り返し「自己防衛」という言葉が出てきます。しつこいくらいにその説明がなされます。

自我というのは防衛を必要とするもの。自我=防衛と表現しても間違ってはいないと思います。

そのくらい、私たちの日常は防衛に満ちているのです。そして悪いことに、防衛は必ず自己犠牲を発生させてしまうのです。

防衛に良い悪いはなく、自己犠牲こそが人生を悪化させる本当の原因となるのです。つまりは、「自我→防衛→自己犠牲」となり、例外はありません。

じゃあ防衛がなくなる瞬間、つまり無防備になっている時は自我はどうなっているのかというと、不活性状態になって成りを潜めているのです。

自我が消滅するのではなく、一時的に活動を停止していると思えばいいのです。だから無防備であったとしても、すぐに自我が活動を再開して防衛へと戻るのです。

毎日の生活のいたるところに防衛が起きるのです。きっと多くの人にとっては、自分が防衛しているとは思いもよらないはずです。

自分自身の防衛でも、他人の防衛でもリアルタイムにそれと気づくようになったら、私たちのマインドのカラクリがよく理解できるようになるでしょうね。

そのときには、少しずつ防衛から離れていくこともできるのです。その結果、生きづらい自我の人生からも解放されていくことになるのです。

意識は今この瞬間を見る

なぜ人間は、過去に囚われて過去のことばかりを考えるのでしょうか?もうどこにも過去は実在しないのに。

またこれから起きるであろう未来のことを考えて、心配してみたり不安に思ってみたりするのです。

過去はもう過ぎ去り、未来はまだ来ていないのにです。どちらも実在しないのに、それを相手にして生きている。

その理由を知りたいと思いませんか?その答えは意外と簡単なのです。それは、思考というのは今この瞬間を相手にすることができないからです。

思考というのは実在しない架空のものだけを相手に活動するものなのです。思考が時間を考案し、そこに過去と未来を置くのです。

今この瞬間にあなたがいるなら、思考は自動的に停止してしまいます。思考の動く時間というスペースがないからです。

あなたが生きているこの社会というのは自我(思考)が作ったものなので、過去のことも未来のことも大切だと教えるのです。

けれどもあなたが清々しい生を送ろうと思うなら、出来る限り過去と未来から距離を置くことです。

今この瞬間が全てであることを理解し、思考によってあっちにふらふらこっちにふらふらする毎日から脱出して、なるべく意識的であり続けること。

意識は今この瞬間だけを見ているのですから。

真の成熟とは?

生きていれば自然と年齢を重ねていくわけですが、それを避けることは当然不可能なことですね。

もちろん人によっては年齢よりも若い気持ちや肉体を保持していることもあるのですが、それでもいずれは朽ち果てていくのです。

そのことは誰にとっても全く平等にやってくるのですが、個々人の違いとして重要なのは経験の数だったり気づきの量や深さとなって現れてきます。

ただ沢山の経験をしたところで、そこから大切な気づきを得ることがなければその経験は無駄になってしまいます。

つまるところ、人が成熟していくということは年齢を重ねることでも経験値を増やすことでもなく、気づいていくことなのです。

気づきを得るためには、より注意深く毎日を過ごすことが絶対的に必要です。それが意識的であるということ。

もしもあなたが、今年一年間できるだけ意識的であり続けようとするなら、ただ漫然と日々を暮らした一年後の自分と比べて、比較にならないくらいに多くの気づきを手に入れることができるはずです。

街を歩いている時に、あなたが意識的であろうとするなら、目に映る沢山の人々がまるで夢遊病者のように見えてくるかもしれません。

そのくらい、私たちの日常は無意識状態なのです。それに気づくだけでも面白い経験ができるはずです。是非実践してみてください。

もう怒りは用無し?

幼い子供って本当に天使のように可愛いですね。親としては都合の悪いことをされても怒りが出てくるようなことはあまりないかもしれません。

けれども、ここはしっかり躾をしておかねばと思って、少しだけ怒っている風情を作り込んで叱ることもあるでしょう。

そんなとき、子供の態度があまりにも可愛らしくて、笑ってしまいそうになるのを堪えて、パパ(ママ)は真剣に言ってるんだぞ!というところを見せねばなりません。

それと似たようなことが最近起きるようになりました。相手は子供ではなく、れっきとした大人たちなのですが、怒ってるフリをしている自分に気づくのです。

今日もそんなことがあったのですが、近くのスーパーの駐車場には充電設備が一台分あって、買い物のついでに充電しようと思って行ったのです。

運悪く先客がいたのですが、15分程度待てば終わることが分かっていたので、買い物をしたり車の中でおやつを食べたりしながら待っていたのです。

ところが、充電が終了しているにも関わらず、そのクルマの持ち主が現れず、マナー最悪だなと思いながらも仕方ないので、戻ってくるのを待っていたのです。

やっと戻ってきたと思ったら、すぐにまたクルマから離れていくので、びっくりして「コラコラ!」って声をかけたら、謝るでもなく旦那のクルマなので私は何もできないと言って、またお店の方に行ってしまったのです。

これは持ち主が戻ってきたら、コンコンを説教してやろうと待ち構えているところに、先ほどの家族が3人ほどで戻ってきました。

私の存在を確認しても、お待たせして申し訳ありませんでもなく、ゆっくりのっそりクルマを移動させるだけ。

こんなことは二度として欲しくなかったので、やや怒っている風情を装って、それなりの口調で文句を言ってやりました。

そこでようやくの簡単な謝罪の言葉。正直、怒りよりも残念な気持ちと悲しい気持ちが混じっていて、子供を叱るときのアレを思い出したのです。

なんだかもう本気では怒れなくなっているのが寂しのですが、怒りがやってくるたびにその下に隠されている惨めさや悲しみを見るクセができてしまったおかげで、怒りそのものが用をなさなくなってきたのかなと。

自分の惨めさを見守ることができるようになると、それを隠すためにやってくる怒りは用無しになってしまうようですね。

マインドを理解すると…

クライアントさんとのセッションにおいて、私が繰り返し口を酸っぱくしてお伝えしていることは、マインドというのは単なるメカニズムだということ。

何か実体のようなものがあるわけではなくて、これまた実体のない社会が作り上げた社会の会員になるためのメカニズム、仕組みなのです。

だからこれまで1万回程度のセッションをやってきて、様々なクライアントさんとお話しをしてきた結果、見当もつかないマインドに出会ったことがないのは当然なのです。

もしも見たことも聞いたこともないようなマインドを持った宇宙人がいたら、きっと1秒と言えどもセッションなんてできないでしょうね。

逆を言えば、どんなマインドを持ったクライアントさんがいらしたとしても、基本的にはセッションができるのは、どのマインドも同じ仕組みだからです。

この仕組みを出来る限り深く理解してしまえば、自分のことも他人のことも容易に理解することができるので、人生がとてもシンプルに思えるはずです。

マインドの成り立ち、そしてマインドが維持されるために必要とするもの、そういったものに気付くようになれば、なぜ自分の人生がそうなったのかも分かるのです。

なぜ不安や孤独感が決してなくならないのか、どこまでいっても満たされない本当の理由などもハッキリしてくるのです。

その結果、あるがままでいられるようになっていくのですね。

期待しない心地よさ

もしもあなたが完璧主義の傾向を強く持っているなら、間違いなく不自由で困難な人生を迎えることになるでしょうね。

そもそも完璧というのは思考が作った概念に過ぎず、そんなものは実在しないのですから、不可能を目指しているのです。

そうなったら毎日が困難の連続になるのが当たり前。自分や他人への期待値も高く設定することになるわけです。

それに対して、やってくる現実はと言えば、期待値からの隔たりが大きくなって、それが理不尽さや惨めさを生み出すのです。

そのどちらも様々なネガティブな感情を起こすのです。惨めな自分を憂うなら悲しみがやってくるし、惨めさを隠そうとすれば怒りが出てくるのです。

場合によっては無力で情けない自分に強い自己嫌悪を感じてしまうかもしれません。理想を高く持てと教育されたことを思い出す人もいるかもしれません。

社会ではそれが良いことだとされているからです。けれども、理想が高ければそれだけ現実との落差がやっぱり大きくなって、結果として生きづらい人生がやってきます。

人生を清々しく生き抜く極意とは、理想を作らないこと。完璧など求めずに、できるだけ期待をしないことなのです。

解っちゃいるけどやめられない。これが本音ですが、それでも少しずつ教育という洗脳が溶けるに従って、期待しないことの心地よさが分かってくるはずです。

皮肉の法則

この生には不思議なことに、「皮肉」なことが沢山あるのです。そして、そのことを深く理解することができれば、生きることはたやすいこととなるのです。

たとえば、心理的自己防衛をすればするほど却って人生は破壊され、不安や孤独の中で苦しむことになるということ。

その反対に無防備に生きることができれば、あなたは愛に溢れた内面を持つことになり、生があなたに微笑みかけてくるのです。

生と戦っている人は絶対に負けることになり、逆に生に自分を明け渡し降参した人は、必ず勝つということ。

覚醒しようと頑張れば頑張るほど、自我がその力を増すことになり、もう万策尽き果てたと心底諦めたときにこそ、覚醒がやってくるのです。

早く寝なければと焦れば焦るほど目が冴えてきて寝れなくなり、いつ寝てもいいと思っている時には、すぐにでも寝付けるのです。

こうした皮肉の法則を見出して、そこには例外がないという事実を認めることです。この法則に翻弄されるのが自我なのですね。

とにかく見ること

もしもセラピストが、「自己防衛をやめれば人生は全く違った清々しいものへと変わるので、自己防衛をやめることです」と言ったなら、次のように考えて欲しいのです。

それは自己防衛をやめようとする代わりに、自己防衛をしようとする自分、自己防衛をしている自分をただ見てあげること。

他人と自分を比べるのをやめようと思うなら、他人と自分を比べようとする自分をただ見てあげること。

自己否定をやめた方がいいと言われて、それをやめようと思うなら、自己否定をしてしまう自分をただ見てあげること。

過食がやめられずに何とかしたい、無駄使いをやめたい、遅刻癖を治したい、このように自分を改善したいと願うなら、願ったところで意志の力でどうなるわけでもないのです。

それはきっと誰もが薄々気づいていることです。あなたがやって唯一効果があるのは、そうしたやめたいのにやめられないでいる自分を見てあげることなのです。

人は見ることを通してのみ、本当に変化していくものなのです。つまり意志(自我)の力を使うのではなく、見ること(意識)によって気づいていること。

思考を使わずにただ見ることによって、自我そのもののエネルギーが削がれていくのです。それを体感するには、ただ実践あるのみです。

自我が望まない世界

ずっと長い間、地球のどこかで戦争が起き続けているこの自我全盛の時代は、いつかは衰退していくのだろうと思っています。

ポツポツと地球のあちこちで誰かが覚醒していって、それが少しずつ世界中に広がって行き、ある時点で指数関数的に自我が消えていくのです。

そうなったらもうその勢いを止めることはできなくなって、あっという間に人類から自我が絶滅してしまうはずです。

その後はとてもシンプルな社会が生まれて、平和が続くことになるのでしょうね。もうどこにも「私」がいなくなるわけです。

「私」がいなければ、何にも始まらないと信じている人がいるかもしれませんが、「私」がいなくても人類は存続するのです。

そればかりか争い事のないクリーンな世界が待っているはずです。「私」がいなくてもすべては起き続けるのです。

「私」がいない方が地球にとっては優しいのです。ただし、今のような人類の隆盛は影を潜めていくことになるでしょうね。

「私」という自我が決して望まない世界、それこそが本当のユートピアなのだと思います。