楽を求めるなら満たされない

人間は、本質的には楽をしたい生き物のようですね。と、つい一般論的に言ってしまっていますが、本当は私自身が誰よりも該当者です。

常に、精神的にも肉体的にも楽をしたいと強く望んできた自覚がありますし、今もそしてこれから先もそうありたいと願っています。

そして実はそれでいいんだという思いもあったのです。あったと過去形で表現しているのは、そのことが少し変化してきた感じがあるからです。

楽をするということが、本当に幸せと連動しているのかどうか、そのことを詳細に見ようともしてこなかったということに気づいたのです。

ただ何となくというか、当然のごとく楽であることがイコール幸せである、あるいは幸せに近いのだと信じていたのでしょう。

それは、楽の反対である苦しい状態であれば、それは幸せとは遠いだろうということを感じていただけだったのですね。

本当は、楽というのはそれほどいいものでもないのです。楽をしたいというのは本音なのですが、それは結果として薄っぺらな人生を意味するのです。

楽とは、都合の悪いことから遠ざかろうとすることですので、自己防衛を手放すことはできませんし、自己防衛をあまりしなくてもいられるような状態そのものが、楽だということなのです。

楽であることとは、決して満たされることではありません。人生という物語を本当に深く楽しみたいのであれば、楽を願ってばかりはいられなくなります。

防衛せずにすむ環境を求めるのではなく、どんな状況においてもできるだけ無防備になることによってのみ、物語の深みに浸ることができるのです。

楽をしようとしている自分を監視して、たとえ楽ではないと感じることがあっても、少しずつでも防衛を緩める方向へと舵を取るように心がけることが大切なのだと思うのです。

「私」という思考は必ず自己防衛を生じさせる

思考そのものには、いいも悪いも何もありません。ただし、「私」という思考とリンクする思考なのかどうかによって、その思考はまったく異なるものとなるのです。

「私」という思考とはリンクしない思考であれば、それは動物であっても起きるものです。たとえば、犬が障害物を迂回していくとか、チンパンジーが棒切れを使って餌を取るなどの場合を見れば、明らかです。

動物だって、我々人間と同じように思考するのです。けれども、そこには「私」という思考が入り込む余地がないので、シンプルな思考であるのです。

その思考が自己防衛に使われる場合もあるでしょうが、それは本当に生物としての命を脅かされるような場合がほとんどだと言えると思います。

逆に、我々のような人間であっても、動物のように「私」とは関連しない思考を使う場合もあります。ほとんど自覚なしに運転しているときとか、自分以外の何かに夢中になっている場合などです。

しかし、人間の場合には、多くの思考が、「私」という思考とリンクしています。その場合の思考は、ほとんどが過剰な自己防衛のために使われるのです。

本当のところ、生命の危機的状態ではないにもかかわらず、必死になって思考を使って自己防衛をし続けているのです。

それがあまりにも激しく継続していると、常に頭がグルグルと目まぐるしく動いてしまっているという状態になって、それについては本人も自覚があるはずです。

そうした思考を止めようとしても、なかなか思い通りに止まってはくれないのです。こうなると、もう思考が自分を支配しているようなものです。

瞑想などによって、心を静かに落ち着けることが苦手な人は、こうした傾向が強いうことに気づくべきです。

そのような場合には、日ごろから自分の思考を監視する癖をつけるといいと思います。そうすれば、思考に巻き込まれてしまうことから開放されるようになるはずです。

それは同時に、自己防衛に使っていたエネルギーも落としていけることになるのですから、是非思い出したときには実践してみることをお勧めします。

ダライラマの普遍的立場

ダライラマ14世が今月始めに日本にいらしたようですね。日本各地で講演などを行ったようです。そしてさらに、何と初めて正式に日本の政治家などを訪問されたということです。

残念ながら、今までは外務省が中国に気を使って実現しなかったらしいのですが、ようやくそういう馬鹿馬鹿しい制約から解放されることになりそうです。

そして不思議なことに、ダライラマ法王来日ということがほとんどニュースに取り上げられないのですが、そうした日本のマスコミの怪しさも目立つようになってきましたね。

今回の来日中に、おなじみの櫻井よしこさんと対談している動画を発見しました。一体チベットを弾圧し続けている中国に対して、どんなことを話すのかと、興味を持って観てみました。

ところが、結局最後まで中国を糾弾するような言葉を一言も聴くことができませんでした。それは本当に驚くべきことです。

昨年に引き続き、つい最近もチベットでは中国からの非道とも言える弾圧に対して、焼身自殺をして世界に訴えるという事件が起こっています。

あまりにも理不尽なことが今日も明日も、チベットでは起こり続けているというのに、ダライラマは中国に対して助言するだけなのですね。

彼の普遍的立場は、以下のようなものらしいです。

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チベットへ真の自由をもたらすための運動をすすめてゆくにあたり、あくまで非暴力に徹するという強い信念を法王は堅持している。「中国側がチベット人に加えてきた様々な攻撃やおびただしい弾圧についてもそのような事実を明らかにすることはどうしても必要であるが、中国人そのものに対する憎悪の念を抱くことは決してない」というのが、法王の基本的な考え方である。
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私たちだって、本当の自分の本質に気づき、それへの信頼が深まっていくことで、同じような心持ちになっていくことができるのではないでしょうか。

以下がその動画です、ご参考までに。早めに見ないと消されるかもしれません…。

セラピーの二つの目的

私が考えているセラピーの目的は、大きく二つに分けられます。まず一つ目は、みなさんもよくご存知ですが、心理的な問題による不自由さなどの弊害を少しでも取り除いていくことです。

そして、もう一つは、本当の自分はこの現実という物語の中にいるのではないということに気づいて、それへの信頼を深めていくことです。

これら二つのことは、実はまったく異質なものなのですが、それでもどこかでリンクすることになると思っています。

前者の方は、エゴの癒しとも言うべきもので、人生という物語の中で癒しを進めていくということを意味しています。

確かに、長い間苦しんできたような様々な心や身体の問題が、徐々にではありますが緩和していったり、治ってしまったりすることさえあります。

それに気をよくして、次々と自分の心の奥深くを見つめて、自己改善の道を益々進めて行くことになるはずです。

その過程では、数多くの貴重な気づきを得るという経験をすることになるでしょう。それは本当にすばらしいことです。

けれども、この癒しの道をどこまで続けていったとしても、ゴールは決してやってこないということも確かなことなのです。

それは、長いことそうした癒しを続けてきた人だけが分かることかもしれません。実は、その地点に立った人は、本質的に自分が変わるということは不可能なことなのだと悟るのです。

そして、そのドン詰まり感を根底から救ってくれるのが、後者のセラピーの目的なのです。自分の本質に気づくという体験は、それ以外のどの気づきともまったく異質な体験であるし、それこそが本当の意味での救いなのです。

セラピーのどの段階で、後者の目的へと移行するのかは、クライアントさんご本人にやってくる神の恩寵に委ねられるものなのです。

セラピストができることと言えば、こうした情報をお伝えすることくらいかもしれませんが、個人的には一日も早く恩寵がやってくることを願うばかりです。

「見ること」、「奉仕」、「献身」、「芸術」

覚醒に至る道があるとするなら、それは次の四つの道だとハーディングさんは言っています。

それは、「見ること」、「奉仕」、「献身」、「芸術」、この四つに万進することこそが、覚醒へと誘(いざな)ってくれるということなのです。

これらのそれぞれに共通することは何かと言うと、それは私心を脱するということ、無心になるということです。

さらに付け加えるとすると、私を防衛しないということに尽きるのです。自己防衛というのは、エゴそのものであり、思考はまさにそのために利用されるのです。

「見ること」が、私にとってはもっとも容易なことです。この一年半の間、忘れない限りは、この透明な自己を見ることを続けてきています。

本当は片時も忘れずに、見ることに注意を向けることができれば一番いいのですが、どうしても忘れてしまうこともありますが、それでも淡々と続いています。

「奉仕」は、今のところ私にとっては一番難しいことのようです。これは、明示的に何かのために、誰かのために、自分の時間や労力を使うということです。

「献身」は、もっとも分かりやすい表現を使えば、帰依心のことだと思えばいいのです。全身全霊をその対象に捧げるということです。

最後の「芸術」は、その道を極めるということなのでしょうね。結局、この四つの道はいずれも人物としての自分の存在が希薄になるわけです。

そして、自己を防衛するというところから開放されて、「無」の境地に至ることになるということなのでしょう。

自己防衛の強力なツールである思考をできるだけ緩めること、防衛しないという選択肢に常に気づいて、可能な限りそれを選択するという日々を過ごすこと。

そして、最後にはそんなこともすべてひっくるめて、物語の中でのことなのだと気づいていること。そうして、その物語を思い切り楽しむことですね。

とにかく大丈夫なのです

昨日は、コースの勉強会が午後6時からあったのですが、ちょうどその開始直前くらいの時間に大きな地震がありました。

何か、今まで味わったことのない「ゴン!」というような強い揺れの印象があったのですが、後で調べたら震度3くらいだったようです。

その時、会議室に来ていたみなさんが、一様に冷静で誰も驚きの声一つあげずにいたのには、ちょっと意外な感じがしました。

不肖ながら、男性の私が一番驚いた感じでしたね。昨日は、日本列島全体でみても、かなりの数のそれなりの規模の地震が起きていたようですので、注意が必要ですね。

なんとなく、2012年の12月○○日という、いわゆるマヤ暦の終わりを迎える日が近づいているということと、関連があるとでもいうのでしょうか?

少なからず心配です。とはいうものの、それも結局は現実という名の物語に過ぎないということを思い出すことで、冷静になることができます。

それは、この現実は物語なので、どうなったところで所詮は大丈夫だということです。私たちは、現実という物語の中の登場人物として日々悪戦苦闘しているのです。

そのことにはっきりと気づけば気づくほど、真理への信頼が増えていくようで、だからこそ物語の中身がどうであれ、本質的には全く何の問題も無いという地点に立つことができます。

それは何よりの深いところからの救いです。本当の救いとは、このことに気づくこと以外にはありません。

地震は起きないで欲しいと心から願っていますが、この物語がこれからどのようになるのかは、神のみぞ知るということです。

それなら、心配しながらも思いっきり与えられた物語の中で、それを心行くまで楽しんだらいいのでしょうね。

薄皮饅頭は手ごわい

さまざまなクライアントさんと日々お会いする中で、セラピストとして密かに気にしていることがあります。直接それをクライアントさんに言うことはあまりないのですが…。

それは何かというと、クライアントさんのセラピーに対する本気度です。実は、真面目に向き合うとか、不真面目などということではないのです。

実際、どうでもいいや、という気持ちでいらっしゃるケースというのは、ほとんどないと言ってもいいと思います。

つまり、私が言いたいのは、クライアントさん自身の自覚があるかどうかとは、全く関係ないところでのことなのです。

そして、もっと正確に表現すれば、本気度が高いとか低いといった単純なことではなのです。本当は、どれだけの力でセラピーを拒絶しようとしている影のジャイアンがいるかということなのです。

なんらかの不自由さを抱えて、それを何とかしたいという思いでセッションにいらっしゃるはずなのに、いざ蓋を開けてみるとノラリクラリ。

なぜそうなるかというと、例えが悪いかもしれませんが、薄皮饅頭のようなものなのです。つまり、薄皮の部分が大人の意識であって、饅頭の大部分の体積を占めているアンコの部分は、インナーチャイルドの意識だからなのです。

セラピーを怖がって拒絶している子供のパワーが、自分を癒そうとする大人のパワーの何倍も強力であれば、外側からみれば本気度が低いように見えてしまうのです。

こうしたことは、残念ながらご本人はなかなか自覚することができないものです。いつ、気づいてもらえるのか気になるところですが、それは神のみぞ知るということですね。

無心であることの静寂さを堪能する

男女の差のことでよく言われることですが、女性は何気ない目的などない会話をすることが好きな傾向があるし、逆に男性は目的がはっきりしている議論を好むとのことです。

私は男性なので、ふわっとしたオチのない話しをされると対応に困ってしまう感じを確かに持っています。…で? と突っ込みたくなってしまうのです。

したがって当然のごとく、自分が話しをする場合には、何かを相手に伝えるという目的があるので、議論することは嫌いではありません。

頭のいい人の話しを聞いていると、とても筋が通っていて気持ちがいいのです。反対意見を小気味よく論破してくれると、本当に嬉しくなってしまいます。

だから、テレビなどで狙ったような大激論などが起きると、身を乗り出して観入ってしまうようなこともよくあります。

けれども、その一方では、どんなに優れた議論や論理であろうと、無心の状態にはまったくかなわないということも分かっています。

この感覚は、子供のころからはっきりと持っていましたし、それが「無」ということなのだろうなと、勝手に考えたりしていました。

どんな激しい感情であろうとも、それさえも無心には到底かなわないのです。かなわないというのは、比べるべくもなく無心がすべてを超越しているということです。

それは結局、論理は思考であり、感情もそのほとんどは思考から作り出されるということだからであり、どんな思考も感情も無の状態には到達できないのです。

だからこそ、深くて静かな平安というものが実在するのですね。そしてそれは、だれの心にもあるものですし、それだけがホンモノなのです。

今日も静寂に耳を澄まして、無の世界を堪能することにします。

セレンディピティを高める方法

若いうちから、自分は何をやっていきたいのかということが、かなり明確になっている人もいますが、でも一般的には10代、20代では何をしていきたいのかがあやふやな状態なのだろうと思うのです。

私などは、それがずっと続いているわけで、12年前に会社員を辞めたときも、そして今だに自分が本当にやりたいことなど、まったくわからないというのが本音です。

「これはっ」というものに出会ったとしても、しばらくすると何となく当初の興奮はどこかへ行ってしまい、その思いは自然と尻つぼみになって消えてしまうのです。

自分にはこれしかない、と断言できるような確固としたものを持っている人は幸運かもしれませんね。

私は、年齢を問わず、でも若いうちは特にですが、何でもやってみようとする冒険心がとても大切なのではないかと思っています。

というのも、一体自分は何をしたいんだろうかと考えて、行動する前に事前に情報をキャッチして調査してしまうと、リスクばかりが目立ってしまい、結局あきらめてしまうという結果になりがちなのです。

情報は確かに大事ではあるのですが、それが単なるリスク回避ではなくて、冒険に乗り出すことをあきらめさせるエゴの作戦に使われてしまう恐れがあるのです。

何かの目標に向かって進んでいくときにも、常にそれ以外のあらゆるものとの出会いに気づくアンテナを立てておくことがとても大切なのです。

いつもあらゆる可能性を残しておくということです。それが、セレンディピティを高めておくことに繋がるのですから。

先の予測ができない、危険を伴うからこその冒険であり、そうでなければワクワクすることもできないし、沢山の可能性を封印してしまう結果となってしまいます。

何かを始めるときには、確かに準備も大切なことですが、それよりも大胆に行動して、敏感なアンテナでキャッチし、受容するようにすることです。

あなたの内にある沢山の可能性を引き出すために、何はともあれ動き出すことです。きらめくダイアモンドは、きっとあなたの周囲360度に無数に点在しているはずですから。私自身への戒めも込めて…。

思考は麻薬のような危険性を持っている

夕べ、自分としてはとても珍しいことなのですが、思考が止まらずになかなか寝付けないまま、とうとう一睡もせずに朝を迎えるという経験をしました。

何か考え事をし出すと、寝つきが悪くなるということは、今までにも何度もあったのですが、まったく寝れなくなったというのは、記憶にありません。

心のなかで何が起きたのかというと、どうも思考を止められなくなったのではなくて、止めたくないという意識に覆われたように感じています。

つまり、寝付けなくて困ったなあと切実に感じることがなかったということです。寝れないなら寝れないままに、浮かんでくる思考に巻き込まれようという意志が働いたということです。

それは思考によって、未来をああでもないこうでもないとイメージすることを楽しんでいたのでしょう。確かに最近感じていた閉塞感のようなものを打破するような感覚がありました。

けれども、寝ずに思考し続けた中で得られた結果というものが、どれほど価値のあるものなのかと考えてみると、そこにはほとんどといっていいくらいに意味を見い出すことができないのです。

巷でよく、夜考え付いた名案は、あくる朝になってみると、大したものではなかったということが言われますが、まさにそれでしたね。

そして、それと同時に思考に巻き込まれることを自ら楽しむことを続けてしまうと、気づいたときには思考を止められなくなるということも確かのようです。

明け方5時ごろになったときには、さすがにもう寝ようと思ったのですが、そのときには思考は落ちつきつつあったのですが、それまで発動したアドレナリンの影響で心が沈静化しなくなってしまったのでした。

やはり、いたずらに未来のことについて思考で遊ぶのは、危険が伴うということなのですね。それは、麻薬のような類の性質を持っています。

自分としては、いつでも止められると思っていたものが、いざやめようとしてももう思い通りにはならなくなってしまうということです。

思考で楽しむのは、ほどほどにするほうがいいということですね。