理不尽さの先にあるもの その2

この世界には、科学ではとても説明できないような不思議なことが沢山あります。たとえば、四柱推命などに代表されるもの、詳しくないですが、風水、数秘術、あるいは方位学など数えあげたらきりがありません。

そういったものが、単なる迷信などのような類のものであったら、きっとすぐに廃れていたことと思うのです。

なぜそうならないで生きながらえているかといえば、それはかなりの精度で当たるという現実があるからでしょう。

実際に私も相当な確率でそうしたものは物事を言い当てられると信じています。けれども、それは決して100%ではないとも思っています。

だからこそ、個人的にはそれらに頼ろうとはしないという面もあります。でも、実はそうしたものへの愛を感じないからというのが本音なのです。

たとえば、Aという場所に引越ししたいと思っているのに、それは方位が悪いから、仕方なしにBという場所にいかねばならないとして、実際にそのように行動する人がいます。

そのことがいいとか悪いということではありません。その行動が、愛ではなくて自己防衛からきているということに問題があるのです。

自分を守るために、自分が信じている教えに従うということが、いかに自分を苦悩させることになるかに気づかねばなりません。

一方、深く帰依している師匠が右へ行け、といったら何であれ右へ行くというのは、そこに愛があるのです。決して自己防衛のためではありません。

表面的には、どちらも第三者的に見れば、とても理不尽な行動に見えるわけですが、突き動かしている原動力は、恐れと愛の違いがあるということです。

自分を守ることから開放された人だけが、本当の愛の清々しさを体感することができるのでしょう。たとえ、それが他人からどれだけ理不尽なことに見えたとしても。