無心であることの静寂さを堪能する

男女の差のことでよく言われることですが、女性は何気ない目的などない会話をすることが好きな傾向があるし、逆に男性は目的がはっきりしている議論を好むとのことです。

私は男性なので、ふわっとしたオチのない話しをされると対応に困ってしまう感じを確かに持っています。…で? と突っ込みたくなってしまうのです。

したがって当然のごとく、自分が話しをする場合には、何かを相手に伝えるという目的があるので、議論することは嫌いではありません。

頭のいい人の話しを聞いていると、とても筋が通っていて気持ちがいいのです。反対意見を小気味よく論破してくれると、本当に嬉しくなってしまいます。

だから、テレビなどで狙ったような大激論などが起きると、身を乗り出して観入ってしまうようなこともよくあります。

けれども、その一方では、どんなに優れた議論や論理であろうと、無心の状態にはまったくかなわないということも分かっています。

この感覚は、子供のころからはっきりと持っていましたし、それが「無」ということなのだろうなと、勝手に考えたりしていました。

どんな激しい感情であろうとも、それさえも無心には到底かなわないのです。かなわないというのは、比べるべくもなく無心がすべてを超越しているということです。

それは結局、論理は思考であり、感情もそのほとんどは思考から作り出されるということだからであり、どんな思考も感情も無の状態には到達できないのです。

だからこそ、深くて静かな平安というものが実在するのですね。そしてそれは、だれの心にもあるものですし、それだけがホンモノなのです。

今日も静寂に耳を澄まして、無の世界を堪能することにします。