自分をしっかり持つ

子供の頃から、面倒なことは誰かにやってもらうことが大好きなくせに、これは自分でやらないといやだというものは自分なりに頑張ってやるようにしてきたと思います。

世間的にも、自分の意見を持ちなさいとか、自分というものをしっかりと持ちなさいという教育があるように感じています。

年頃になると、自分は結構自分というものが確立してきたなと思ったりもしたことがあるのですが、そんなことは妄想だということがすぐにばれることがありました。

テレビで討論会などを見ていると、この人の意見はもっともだと思っていると、それに反論する人がすぐに出てきて全く逆のことを言うのです。

そうすると、今度はこの人の言うことの方が正しいような気がする、という具合に人の言葉に右往左往している自分がいました。

自分が本質的に興味のない内容だったりすると、今でもこの傾向は強いという自覚がありますので基本的には変わってないのでしょうね。

政治家の話しなどを聞いていると、誰がなんと言おうが絶対に持論を曲げないというか、あれこそ自分をしっかり持っている人の象徴だなと思ってみることもあります。

しかし、よくよく考えてみると、自分をしっかり持つということが本当にそれほど大切なことなのでしょうか?自分の意見や気持ちに凝り固まることは時として苦悩を生み出します。

オフィスがあるマンションの部屋の上の階に引っ越してきたご家族がいらっしゃるのですが、布団やそのカバーなどの大きなものをよくベランダに干しているのです。

物が大きいので下の階の私の部屋から見えるくらいに垂れ下がって風に揺れてぶらぶらしているのに気付くと、目障りだなといやな気持ちになるのです。

たとえて言うと目の前に邪魔なものをぶら下げられて生活しているような感じです。先日の晴天の日の朝もそうでした。ところが、ちょっとした食事をしてコーヒーをすすっていた時です。

ふと外を見ると、何ともすばらしいお日様に向かって干してあるものが気持ちよさそうな感じが入ってきました。この寝具で寝たら気持ちいいだろうなと思ったのです。

そうしたら全くその干し物が気にならなくなったばかりか、朝から面倒がらずに寝具を干す奥さんはいいなと思ったりもしたのです。

自分を中心に考えると邪魔だと思えたものでも、全く違う観点から見ることで自分がいい気持ちになれるということですね。

子供の頃に確かに必要だと思えた教えも、大人になるとそうでもなくなるということの例かもしれません。依存から自立に向かって成長したあと、自立も幸せにはしてくれないということが分かったときに軌道修正が必要だということです。

人は自分の立場からものを見たり判断したりを手放すことで、何が起きてもすばらしい気持ちで生活していられる可能性を持っているということですね。

瞬く星々

夜空に沢山ある星々を見ていると、心が澄んでくるのが分かります。何かいつも気付かないときにも自分を見守ってくれているように感じるからかもしれません。

ところでみなさんは昼間の空にも星があるのは知っていますよね?星は夜空にしかないと思ってる人がいたらそれは間違いです。

昼間でも夜と同じように空には無数の星々があるのです。ただ、太陽の光によって目の瞳孔が閉じてしまうので、その淡い光が感じられなくなるだけなのです。

以前書いたことがありますが、実は昼間の間にも星を見ることができます。今はあまり見なくなってしまいましたが、お風呂屋さんの煙突に入って空を見たときに、ちょうど真上に星があればそれが見えるのです。

煙突の中は暗いので瞳孔が開き、星の光でも見ることができるようになるからです。見えないからといって、すぐにないはずと思うのは早とちりということです。

私たちが日頃から目にするものも実はそういうものなのかもしれません。真実は沢山自分の周りに存在するのですが、その中で肉眼で見えるものには限りがあるということです。

言い方を変えると、肉眼では何かが邪魔をしてしまって見えるべきものが見えなくなってしまっていると考えることもできます。

暗い煙突から青空を見上げるように、この世界そのものをそんなふうに真実の目を凝らして見ることができたら、きっといろいろな気付いていなかったものが見えてくるはずです。

そういう目には、きっと私たち一人ひとりはみんな同じだと映るはずです。そして私たちは肉体こそが自分たち自身だと思っていますが、その目では肉体は見えなくなるはずです。

だからこそすべてに違いがないというように映るのです。自分の目に煙突をくっつけて、真実だけを見つめるようにできるといいですね。

三人寄れば文殊の知恵

「三人寄れば文殊の知恵」という言葉があります。特別な人ではなくても、三人集まれば良い知恵が浮かぶものだということですね。

有能な一人よりも普通の三人の方がいいという意味もあるかもしれません。いずれにせよ、一人よりも三人、三人よりももっと大勢のほうがさまざまな角度からいろいろな知恵を出し合うことができるわけですから、それだけいい結果が出せそうです。

このように私たちは部分を集めて全体にすることができると思っているのです。一つひとつは不完全でもそれを全部集めると完全になるという発想です。

しかしそれは真理ではありません。地球上の人間60億以上を全部集めても、何でこの宇宙があるのか明確に答えることもできないからです。

これは数の論理ではありませんね。地球上の犬や猫を全部集めても人間と同じ頭脳を持たせることは不可能なのと同じです。

不完全なものをどれだけ寄せ集めたところで完全にすることはできないということです。どんなテストも100点を採った実績があったとしても、1万回目には99点を採るかもしれません。

完全さというのは、そうした形ではあり得ないのです。全体とは部分と部分の合計ではないということです。これは全体ということの本質が分からない我々には本当には理解できないことかもしれません。

未熟な幼子が成長して依存から自立へと向かうことに意義があるとするのは、不完全な自分を完全な自分にしたいという願望があるからです。

でも不完全さは永久に完全な状態へと変化することはないのです。だから、完全さを求めるあまりに自己犠牲を払うくらいなら、それを求めるのをやめることが懸命です。

人間はどんなに努力しても神にはならないのですから。一つ方法があるとすると、元々自分は神と同じ完全な存在だと気付くことかもしれません。

役割を手放す

私たちは自分の人生を意義あるものにしようとして、自分にも周りの人たちにも役割を与えて生活しているのです。

その役割を互いにまっとうすることで、目標を達成できると信じているのです。自分の役割を自分がきちんとこなしていくことができると、そこにはつかの間の喜びを感じるかもしれません。

逆にうまく役割をこなすことができなければ、自分を責める気持ちが出てくるはずです。うまく役割をこなせたとしても、そこに自己犠牲があれば人生は苦悩に満ちたものになってしまいます。

また、周りの人たちにも沢山の役割を与えていて、それを果たしてもらえないとなると、攻撃的になるのです。そして、その怒りは正当なものだということになります。

私たちの怒りとは、ほとんどがこうしたことから発生するといっても過言ではありません。自分が相手に役割などを与えなければ、裏切られることも見捨てられることもありえません。

自分の怒りを正当化してしまうほど、幸せから遠ざかる生き方はほかにありません。どんな怒りもそれが正しいということなどあるはずがありません。

正しいとしても、心の平安が得られなければ一体どんな意義がそこにあるというのでしょうか?何が起きてもいつも平安を保っていられるためには、今までに与えてしまった役割を手放すことです。

相手が自分の与えた役割を果たさなかったとしても、それを攻撃しないことです。そうすれば、怒りからも役割からも開放されていくことになります。

もしも私たちに役割があるとすれば、それはたった一つ、そしてそれはみんなに等しく与えられているものです。それは、「許す」という役割です。

誰もが罪はないとして許すことを実践すれば、自分も周りの人たちも、この世界全体が救われるのですから。

価値について その2

昨日のつづき

この世界には意味がないので価値を判断することもないというお話しをしました。人の存在価値についても同様なのです。

どうしても存在価値について云々したいのであれば、それは実在である真の自己にこそ存在価値があると思えばいいのです。

真の自己とは私たちの本当の姿であるすべては一つという想念、つまり愛そのものであると言えます。ただ、価値などという我々がでっちあげた言葉であらわすことなどできないくらいの実在だと思えばいいです。

それこそが本当の自分なのです。だから安心していいということですね。私たちは幼い頃にさまざまな理由によって、自分は駄目なやつだという思いを作り上げます。

それは罪悪感と呼んでもいいし、自己嫌悪、自己否定感と言ってもいいのですが、とにかく存在価値を感じられない状態にしてしまうことがあります。

そのことで何事にも自信を持つことができずに、人生を悩むことになってしまうのです。しかし、なぜ存在価値がないと思うことでそんなに悩むことになるのでしょうか?

それは自分に価値があると思いたいからですね。なぜ価値があると思いたいかと言うと、自分の存在に意味があると思いたいからです。

自分は特別な存在であり、他者と明らかな違いがあって、分離していることによって独自性を保っていると思いたいということです。

ここがすべての起点になっています。すべては一つという愛に戻ることができたら、この起点自体が意味のないことだということが分かります。

だからこそ、分離という基盤のうえに成り立っているこの世界もこの人生にも、価値も意味も何もないということです。

価値について

価値があるとはどういうことでしょうか?そして価値がないというのもどういうことかよく考えてみる必要があると思います。

価値とは意味づけするためのツールです。何かに意味があるとするために価値があるとかないとかという概念が作り出されたのです。

もしも物事に意味など最初からないとなれば、価値があるとかないとかという考え方もなくなってしまいますね。

自分には価値がないという思いを持って生活しているクライアントさんが沢山いらっしゃいます。ということは、自分には意味があると思っているということです。

存在に意味がなければ価値がないという発想は出てこないからです。これは、自分には価値があると思っている場合でも全く同じなのです。

私たちの人生には一体どんな意味があるというのでしょうか?生まれてきたということだけでも意味があるはず。→どうしてでしょうか?

生まれてきて人を愛し世界を愛することが出来るから。→それにどんな意味があるのでしょうか?

この人生で沢山の学びができるから。→学ぶことに何の意味があるのでしょうか?

長い間つらい人生を頑張って生き抜いてきた。仕事にも不平不満を言わずにただ忍耐で続けてきた。→それにどんな意味があるのでしょうか?

私たちは単に意味があると思いたいだけなのです。元々意味などありません。だからこそ、価値というものも本当はないのです。

100億円には価値があるか?1カラットのダイアモンドに価値があるか?人助けに価値があるか?価値があるように感じるとしたら、そこに何らかの意味づけをあらかじめしているからに違いありません。

この人生、この世界のすべてに意味などないと分かったら、自分には価値がないという思いも手放せるはずです。価値があろうとなかろうと、どちらでもないということですから。

どうせ意味のない人生だったら、思い切りみんなで愉しむことです。それだって意味も価値も何もありません。でもそうしたほうが、苦渋に満ちた人生よりもはるかに幸せです。

つづく

愉しむ心

この数日間猛暑が続いています。私は子供の頃から夏が大好きで、この暑さも心の奥ではとても喜んでいます。

しかし表面の意識では、日中ジリジリする太陽を感じながらの外出はやはりしんどいなと思ってしまうのは大抵の人と同じかもしれません。

先日ちょっとした買い物の用事を済ますために、このオフィスから吉祥寺駅の向こうにあるヨドバシカメラまで歩いて出かけてきました。

そのときも大変な暑さで、街を行き交うみなさんのどの顔からも笑顔が消えて、何か苦渋に満ちたような表情をしているのです。

こんな暑さの中を自分は何で出かけてきてしまったのだろうというような後悔のような表情とでも言えばいいのか、暑さに耐えながら誰もが歩いているのです。

そんな中で、むこうから若い男女のカップルが手を繋いで何やら楽しそうに歩いてきました。彼らはほとんどの人と違って暑さが気にならないように見えました。

繋いだ手のひらが汗でじとっとして気持ち悪いんじゃないのかなといった余計な心配をしてしまいましたが、そんなことはどうでもいいくらいに楽しそうでした。

彼らにとってはこの暑さもデートを祝福してくれるものに感じているのかもしれません。ヨドバシカメラの入り口手前の道路に三分間写真のボックスがあるのですが、その中に子供たちがいるのを見かけました。

小学生の男の子たち三人がその中で楽しそうにはしゃいでいるのです。きっとそのボックスの中は40℃を越えるくらいの温度になっているはずです。

それにもかかわらず、彼らはとても愉快そうに出たり入ったり、カーテンを閉めたりして多いに楽しんでそのボックスをまるでおもちゃのようにして遊んでいたのです。

彼らにとってもこの猛暑はまったくどうでもいいものなのでしょうね。さきほどのカップルやこの子供たちのように、人は何かに夢中になっていたり楽しんでいると、暑さも気にならないのです。

暑さを恨みがましく感じながら過ごすよりも楽しい時間を味わうことの方がいいに決まっていますね。それなら意識的にそのように自分に仕向ければいいわけです。

そうすれば暑さ寒さを超えて人生を楽しむことが誰にでもできるということですね。子供だからとか、若いカップルだからとかという理屈を考えることをやめて、なるべくそうした生き方を心がけたいものですね。

笑い飛ばす

赤ちゃんは生まれてからしばらくは、泣くことが仕事と言われるくらいに沢山泣きます。泣くことを我慢しようとも思ってないのですから泣きたいだけ赤ちゃんは泣くのです。

それが少し経つにつれて大抵泣くのを我慢することができるようになってきます。もちろん怒ることも我慢できるし、感情を抑えることが得意になってきます。

そして笑うことさえ我慢して止めてしまうこともあるかもしれません。しかし、笑いはさまざまな感情の中で我慢することが一番難しい感情ではないでしょうか?

あるいは一番我慢しなくてもいいという文化があるのかもしれませんね。小学生のときに、国語の授業中に友達の男子が笑いが止まらなくなってしまったことがありました。

文章のある部分(たしか、「…ふんばって…」)を読むと急に噴き出してしまって、そこを何度も読もうとするのですが、そのたびに笑ってしまって読めないという状態でした。

さすがに先生もしまいにはいい加減にしなさいと声を荒げたのですが、それでも友達は笑いがとまらなかったので、結局先生もあきれて笑い出してしまいました。

教室全体が笑いの中で一つになりました。きっと日ごろ、その先生のことを好きだったために怒られても笑っていられたのかもしれませんね。

笑いは我慢しないで欲しいと思います。笑うことでいろいろなことが解決してしまうからです。それは問題を問題視しないという態度とつながるからです。

あるクライアントさんを初めてヒーリングしたときに、その人が突然笑い出したことがありました。徐々に笑い声も大きくなって、明らかに今笑いのネタがあるのではないのに笑い続けました。

その人はきっと笑うことを我慢してきたのだろうと思います。笑いのエネルギーも溜めてしまうといいことはありません。積極的に笑うことですね。

我慢してるという自覚がなくても、何だか最近あまり笑ってないなと感じている人は、笑いを忘れてしまっている危険な状態だと思うことです。

どんなことでも笑い飛ばすことができたら、人生に問題など一つもないということに気づくことができるはずです。

同じを喜び、違いを越える

よく街で見かける女子高生たちが、こんなことを言い合っている風景に出会います。「○○というお店の△△というケーキ知ってる~?あれ超おいしいよ~。」

「ああ、知ってる知ってる~、私もあれ大好きなんだ~」こうやって、二人は嬉しい気持ちになって話しが盛り上がるのです。

それは、互いが同等の立場で無理なく気持ちを認め合うことができたため、分かち合いによる安心を得ることができるからです。

「私たち感性が一緒だねえ」と思えることで、相手から攻撃される心配が少し減るわけですね。同じということはそうした安全さを内在しているのです。

もしも、「なにそれ?知らな~い、そんなおいしいケーキがあるの~?」と言われたら、一度是非食べてみて欲しいと言うはずです。

そうして、確かにおいしかったと言ってもらうことで、自分の感性は正しかったということを証明することになって、それがまた安心を得ることになるのです。

しかしその一方で、何から何まで好みや考え方が同じだとなると、今度はちょっと居心地が悪くなったりするのです。

それは自分という存在の個別性が怪しくなってきてしまうからです。自分は人とは違うということが自分の大切な存在価値とつながっているからです。

「○○ちゃんはピンクが似合うよね~」「そう、ありがとう~、△△ちゃんは赤が似合うね~」という感じで、互いの違いを尊重しあうことでそれを楽しむことができるのです。

ところが、この違いというのは尊重しあっているうちはいいのですが、ちょっとしたことで攻撃しあうことになる可能性を多分に秘めています。

実はここに私たち人間のジレンマがあるのです。違うということが自分としてのアイデンティティを作っているにもかかわらず、それは攻撃されて傷つけられる危険を常にはらんでいるからです。

傷つけられる可能性は必ず人を不安や恐怖に陥れ、心の平安を得ることはできなくなってしまいます。それが自分を幸せから遠ざけてしまうのですね。

大切だと思っている人との違い、実はそれこそが苦悩の根源だということを深く理解する必要があると思います。

違うということが分離をささえている

もしも誰かが利益を度外視してホンモノとの違いを識別できないくらい精巧な偽札を作ったとしたらどうなるでしょうか?

どんな熟練した人の目も、最もすぐれた偽札発見器を使っても、どうにもホンモノとの違いを判別できなければ、それはもう偽札ではなくなってしまいます。

原理的には、同じ番号のお札が二つ以上あったら、そのうちの一つ以上は必ず偽札だと言えるわけですが、でもどれが偽札かは分からないのですから、ホンモノとしか言いようが無くなってしまいますね。

つまりこの世界における、ホンモノ、ニセモノとはその程度のものでしかないということです。個々の違いを知覚することができるということが大前提だからですね。

ではホンモノとはどういうことなのでしょうか?違いという概念がなければ、ホンモノとかニセモノといった概念もありえないということです。

違いがあると認めることができるのは、知覚を使っているからです。私たちは知覚によって、あらゆるものに違いがあると思い込んでいるのです。

もしも知覚を使わなかったとしたら、どれがホンモノでどれがニセモノなのか、全く分からなくなるし、違いがないということはすべてが同じだということになるのです。

すべてが同じということは、すべては一つということです。自分の思いと人の思いに違いがなくなると、それは一つになってしまいます。

それこそが実在の世界です。私たちは自分と人とは違う存在だと思い込んでいますが、知覚を使わなければ互いの違いというものは消えうせてしまうのです。

それが本当は自分しかいないということです。しかしその場合の自分とはこの私ではなくて、みんなだということです。

みんなが自分であるということです。それこそが究極の一体感であり、愛そのものなのです。