「無」について

中学生になってすぐの頃に、教室の黒板の上の壁の部分に「無」という字が額に入って飾ってあるのを発見しました。

授業のたびにぼやっと見ていることがあったと思うのですが、ある日担任の先生がそれを書いたということを知ったのです。

きっと達筆なんでしょうね。字というよりも、どちらかというと絵のようなタッチだったと記憶していますが、そのときにこの「無」というものについて自分なりに考えていたことがありました。

それは、「無」は最強なんじゃないかということです。私たちは日ごろ何かを考えるとき、ああでもない、こうでもないという議論をします。

誰の言い分が一番優れているかとか、どの言葉がもっとも説得力があるのかなどと評価するわけですが、何も言わないし考えないということには所詮敵わないのではないかと感じるのです。

つまり、人が思考によって何かを説明したり解決するということをしようとするのですが、もしも何も思考しないということができるならこれが無敵だということです。

この感覚は誰に教えられたわけでもないのに、中学生の自分の心にそれがあったのです。何にしても争わず、戦わず、解決しようとしない、そうした心こそが無敵なのだという感覚です。

残念ながらそうした思いを持ってはいたのですが、日々の生活でそれを生かすことはできませんでした。そして大人になった今でも何かをいつも考えてしまいますね。

本当は考えることをやめて、すべてを手放してあるがままに受け止めることができれば、それが最強の心の状態だと分かっているのですが、実践は難しいのです。

この「無」とは結局、無我ということです。これは自我が無いということを意味するのです。確かにそれは愛の心であるため、敵は無いということになるのです。

「無」とは何もないのではなく、愛だけが「在る」ということです。そして愛以外はすべてが「無」だと言っているのです。