同じを喜び、違いを越える

よく街で見かける女子高生たちが、こんなことを言い合っている風景に出会います。「○○というお店の△△というケーキ知ってる~?あれ超おいしいよ~。」

「ああ、知ってる知ってる~、私もあれ大好きなんだ~」こうやって、二人は嬉しい気持ちになって話しが盛り上がるのです。

それは、互いが同等の立場で無理なく気持ちを認め合うことができたため、分かち合いによる安心を得ることができるからです。

「私たち感性が一緒だねえ」と思えることで、相手から攻撃される心配が少し減るわけですね。同じということはそうした安全さを内在しているのです。

もしも、「なにそれ?知らな~い、そんなおいしいケーキがあるの~?」と言われたら、一度是非食べてみて欲しいと言うはずです。

そうして、確かにおいしかったと言ってもらうことで、自分の感性は正しかったということを証明することになって、それがまた安心を得ることになるのです。

しかしその一方で、何から何まで好みや考え方が同じだとなると、今度はちょっと居心地が悪くなったりするのです。

それは自分という存在の個別性が怪しくなってきてしまうからです。自分は人とは違うということが自分の大切な存在価値とつながっているからです。

「○○ちゃんはピンクが似合うよね~」「そう、ありがとう~、△△ちゃんは赤が似合うね~」という感じで、互いの違いを尊重しあうことでそれを楽しむことができるのです。

ところが、この違いというのは尊重しあっているうちはいいのですが、ちょっとしたことで攻撃しあうことになる可能性を多分に秘めています。

実はここに私たち人間のジレンマがあるのです。違うということが自分としてのアイデンティティを作っているにもかかわらず、それは攻撃されて傷つけられる危険を常にはらんでいるからです。

傷つけられる可能性は必ず人を不安や恐怖に陥れ、心の平安を得ることはできなくなってしまいます。それが自分を幸せから遠ざけてしまうのですね。

大切だと思っている人との違い、実はそれこそが苦悩の根源だということを深く理解する必要があると思います。