自我のおかげ

私たちの本質は意識です。意識は、この宇宙の一切合切の背景であるとも言えるのです。したがって、意識がないということはありません。

人間や動物の場合に、意識を失うと意識がない状態と表現されますが、それは自覚がないということであって、その状態を無意識と呼ぶのです。

無意識とは、意識が眠っている状態のことであり、もう一つの状態は意識が覚醒している状態です。

地球が誕生してからおよそ46億年経つと言われてますが、その間ずっと無意識状態で覆われていました。

それが人類の誕生とともに、ほんのわずかな間に意識が覚醒するようになったのですから、これは奇跡的だと思うのです。

ただし、個々の人間の内面のほとんどはまだ無意識状態であり、目覚めている部分はほんの少しだけなのです。

それでも自覚ができるようになったのは、自我のおかげなのだと思うのです。自我が自覚している「私」が偽りであっても、それこそが一人称のスタートなのですから。

いずれはすべての人々が100%覚醒することになるのでしょうけれど、それまではまだまだ無意識層が支配するので、強欲や恐怖が横行するのでしょうね。

マインドにとって執着は便利なツール

付き合っている相手に別れを宣告されて、それでもずっと相手のことが好きで会いたくて仕方がないということがありますね。

そういう状態を「引きずる」と表現したりしますが、場合によっては5年も10年も引きずってしまうということもあるかもしれません。

それを執着心と呼ぶのですが、それはどういったマインドの働きなのでしょうか?誰だってそんな辛く苦しい状態でいたいわけはないのですから。

私の説明はいたってシンプルです。それはただ、マインドが困った状態、対処しなければならない事案が必要だからなのです。

マインドというのは外側の何かとの関係において存在しているため、それがどんな形であろうと関わりが必要なのです。

別れてしまった恋人とは物理的な関わりは無くなってしまったのですが、マインドが思考によって永続する関わりを作り出しているのです。

そうやって困った事案をでっち上げておいて、それとの仮想的な日々を過ごすことでマインドが永続しようとしているということです。

だからマインドにとっては、執着することは非常に便利な生き延びる方策だということです。これを見抜くことができたら、マインドの理解は深まると思います。

100:0の理論

癒しを進めていく中で、絶対的に必要なことがあるのですが、それは自分のマインドをよくよく見つめるということです。

私たちは日々の暮らしでは、自分の身に降りかかった事柄のことばかりに注意が向いてしまう傾向があるのです。

簡単に言ってしまえば外側にばかり目を奪われてしまっていれば、何をどう努力したところで癒しが進むはずもないのです。

自分のマインドの中で一体何が起きているのか、マインドはどんな目的があってどんな反応をし続けているのか、そういったことを真正面から見つめるのです。

周りにどんな人がいるとか、どれほど被害に遭ったのかといったことに観点があるなら、それこそがマインドの作戦だと気づくべきなのです。

マインドは、本当のところをあなたに見つけられたくないのです。あなたにばれないようにしつつ、都合のいいことばかりに目が行くように仕向けるのです。

自分と他の誰かとの人間関係を見つめてみるなら、忘れてはならないのは100:0だということ。50:50だと思いたいのですが、それは違うのです。

相手が誰であろうと、あなたが作るコミュニケーションは100%があなたのものだと理解することです。

こうしたことが腑に落ちるようになって初めて、マインドはそれなりの変化をするようになるのですね。

シンプルな人生を目指す

今の自動車がガソリンエンジンで動いているのには、それなりに理由があるのです。それは電気エネルギーを保存しておく技術がなかったからなのです。

だからガソリンを燃やして、その爆発の威力を動力とすることを選択せざるを得なかったわけです。

ところが次第にバッテリーの技術の発展とともに、ある程度の電気を保存しておくことができるようになり、それでいよいよ電気自動車の時代が見えてきたのです。

電気自動車はモーターで駆動するため、エンジンのような複雑な技術を必要としません。一説によると、電気自動車の部品数はエンジン自動車の1割程だということです。

シンプルなものは、複雑なものに比べて安価に作ることできるだけでなく、より壊れにくくなるという特徴があるのです。

つまりいいことづくめだということですね。そのうちあっという間にガソリンエンジンのクルマは電気自動車に取って代わられるようになるはずです。

私たちの人生も同じようなことが言えるのです。闇が深い人の人生ほど複雑になる傾向があるのです。

嫌いな人と一緒にいてみたり、やりたいことを我慢してみたり、会いたい人に会いに行かなかったりということが起きるのです。

今一度自分の人生が複雑なものになっていないかどうか、注意して見てあげることですね。そして、シンプルな人生であればそれを喜んでいいということです。

得ることと失うこと

何かを得ることと、何かを失うことをイメージしたときに、どちらが肯定的でどちらが否定的でしょうか?

もちろん多くの人にとって、得ることが肯定的であり失うことは否定的なことだと言うでしょうね。

自我として生きている限りは、それが大多数の人にとっての共通認識なのです。自我とは足りてないという欠乏感を、何かを外側から得ることで満たそうとする存在だからです。

そして自我が作ったこの社会では、やはり多くを得ることの方が何かと都合がいいのも事実です。

だから人はさまざまな能力を身につけようとするし、何かの資格を得ようとするのです。そういったことすべてを含めて、自分をより改善したいと願っているのです。

けれでも、自我をどれほど磨いたところで自我のままなのです。道端で拾った小石を、どれほど研磨したところでダイアモンドにはなりません。

ただしここで言いたいことは、小石よりもダイアモンドの方が優れているということではなく、小石は小石のままで完全なのだということ。

癒しは、今のあなたに何かを付け加えるのではなく、あなたがこれまでに培ってきたさまざまな考えや生き方を捨てて行くことなのです。

そして本来のまっさらなあなたに戻った時に、本当のあなたは決して自我などではなかったということを知ることになるのでしょうね。

潜在意識はなぜできるのか?

まだ中学生になっていなかった頃だと思うのですが、人間には潜在意識というものがあって、自覚できない自分というものを隠し持っていると知ったのです。

その時には、人間とは何て不思議な生き物なんだろうと驚くと同時に、なぜか魅惑的な感じがしたのを覚えています。

自分にとって不可思議なことに妙に好奇心をくすぐられる体質だったのでしょうね。でもなぜ潜在意識という領域があるのでしょうか?

この仕事をしていく中で、自分なりに分かったことがあるのですが…。私たちの内面は、全くまっさらな状態から始まって、周囲からさまざまなイメージを植え付けられるのです。

それは毎日、凄まじいほどの量なのです。そしてその情報は一貫しているわけではなく、情報を与える人によって異なるのですから大変です。

もしもそのままずっと、与えられるがままでいたなら、一人の人間としてのまとまった人格を作って行くことはできないでしょう。

そのくらいやってくる情報はバラバラなのです。人格を固定化していかなければならない時に、それまでに作られた自己イメージの強いものを固定化するようにするのです。

つまり、それまで入り込んだ自己イメージと同類の情報は更に中に入れて固定化し、異なる情報は跳ね返すことで中へ入れないようにするのです。

この跳ね返す機能を果たしているのが、潜在意識と表面意識の境目なのです。その境目が自己イメージを固定する役割をするわけです。

成長するにつれてその境目が分厚くなって行き、大人になる頃には自覚出来る部分と潜伏している部分が完全に分離された状態になるのです。

その上自己防衛の手段として、都合の悪いことを隠すためにも潜在意識を活用できるので、人間にとって潜在意識は必要不可欠なものとなったのです。

癒しの観点からすると、潜在意識がなければ心を病むということもなかったはずなのですけどね。

何もせずにいる時間を作る

1日のうちで、たったの5分でもいいので「何もしない」でいる時間を作ってみるといいと思います。

何もせずにただいるというのは、意識しなければできないことですね。瞑想すらしないでいるということですから、自我にとっては難題なのです。

自我というのは、たとえほんの数分であっても全く意味のないこと、価値のない時間を過ごしたくないのです。

一生懸命働く、疲れてただデレってしてる、ゆっくりと睡眠をとる、問題に取り組む、それが何であれ何かの目的があるのです。

何もしないというのは、その時間は完全な無目的な状態にあるということ。もちろん過去のことも未来のことも考えない。

そこにはどんな利益も、どんな期待もなくいるのです。つまり言いたいのは、自我にとっての無価値な時間となる必要があるのです。

初めのうちはつい何かを考えてしまったり、退屈な感じがして耐えられなくなったりするかもしれませんが、そんなことは構わずにいてあげるのです。

なにもしないでいることができたなら、あなたはきっと味わったことのない不思議な清々しさを感じるかもしれません。

でもそれを目的にしてはいけません。どんな期待もせずに、ただただ何もせずにいるのです。きっといつか生きる感覚に変化がやってきてくれるでしょうね。

無邪気さと深刻さは共存しない

無邪気さと深刻さというのは、どうやっても共存することはできません。無邪気さは深刻さとは無縁だし、深刻さは無邪気さを隠してしまうのです。

人生の中で、この二つの要素のどちらが大切かははっきりしていますね。無邪気さが宝であり、深刻さは防衛からくるのです。

自我が無邪気であった試しはありません。なぜなら、自我の本分は防衛だからです。防衛のエネルギー源は恐怖であり、そこに愛はないのです。

一方で無邪気さは別の言葉で言えば無防備ということになるので、そこに自我の存在が入り込む余地はないのです。

気がついたら、自分の中に無邪気さを見つけることができなくなってしまったという人はたくさんいるのです。

その上、無邪気さを見失ってしまったということすら気づいていないものです。人に言われて初めて、そう言えば無邪気さをなくしてしまったと気づくのです。

そんな場合には、間違いなく毎日の生活に深刻さが漂っているのです。無邪気さの特徴である気楽さとか、明るさが消えてしまうのです。

あなたの中にある、この二つの要素をじっくり見てあげて下さい。そして出来る限り、深刻さを排除して無邪気さをたくさん使えるようにしていくことですね。

不満を持たない子供は危険

人それぞれとはよく言ったもので、何にでもイチャモンをつけたがる人がいるかと思えば、ことさらなんの不満もないと言う人もいます。

どちらがお得かと言えば、それはもちろん文句が少ない人の方がいいのです。なぜなら、文句があればそれに比例して不満を持っているということだからです。

私たちは満たされたいという願望を誰もが持っているので、不満を感じると嫌な気持ちになるわけです。

けれども、もしもあなたが幼い頃からずっと不満がなくて、そのまま成長して大人になった今も不満がないというなら、それは危険な匂いがします。

それは幼い頃からすでに、本当の不満を見ないように隠してきた疑いが濃厚だからです。子供のときに親に不満を感じるのは自然なことなのです。

親が生きているワールドと子供のワールドは違うものだからです。違っているのに、何でも受け入れてきたならそれは自分を欺いている証拠なのです。

本人が気づいていないだけで、マインドの奥には都合の悪い感情や本音がたくさん溜まっている可能性が大なのです。

そうなってしまうには、それなりに理由があるのですからそれをまずは見つけること。そしてすべてをぶちまけるようにしてあげるのです。

自分の本音と一緒に無邪気さも心の地下室に放り込んでしまったことに気づくことができたら、そこから新しい人生がスタートするはずですね。

常識で自分を縛るな

科学というのは、それまでの常識を覆すことで進歩発展してきた経緯がありますね。だから、優秀な科学者ほど常識の枠を超えた考え方をするのです。

時間は同じ速度で進むという常識は、アインシュタインの相対性原理によって覆されたし、存在は存在としてあるという常識は、認識されることで存在が確定するというように覆されたのです。

それ以外にも、我々一般人が知らないような非常識を先端の科学者はたくさん知っているのです。彼らが隠しているのではなく、我々には理解できないだけなのです。

科学者が証明したり発見したりしなくても、現実の体験によって常識を覆す人たちもいます。

たとえば、不食の人たち。彼らはこの世界に何万人いるかは知りませんが、私たちが勝手に思い込んでいる、「食べなければ死ぬ」という常識を見事に破って見せました。

彼らは全く何も食べなくても平気で生きていることができるのです。もちろん、現代科学では解明することはできないのですが、実際に食べずに生きている人がいるのですから仕方ありません。

食べずに生きていられるなら、最高潮に健康体になるでしょうね。なぜなら、食べ過ぎや飲み過ぎなどの生活習慣病も消えてしまうわけですから。

消化吸収と解毒に使われていた全エネルギーを別のことに使えるようになるのですから、どれほど活力ある毎日を過ごせるようになるか、想像もできません。

常識の中で生きるのは安全かもしれませんが、それは自分を檻の中に閉じ込めて安心しているようなものです。

常識を捨てて、なんでもありという気持ちで自分を解放すれば、きっと人生の彩りが変わってくるはずです。