期待が辛さを創り出す

人生が辛いとしたら、その理由はたった一つしかありません。それは自我があれこれと期待をしているからです。

期待するのがなぜいけないの?と聞きたくなるかもしれませんが、いけないと言っているのではなく、単に辛くなるということ。

それでもやっぱり期待せずにはいられないのは、それが自我の生きる道だからです。自我は期待によって生き延びるのです。

逆に自我が活動を停止しているときには、期待は自我とともに消えているはずなのです。そのときには、この瞬間だけを楽しむことができるのです。

けれどもそれもつかの間、自我はあっという間に未来への期待とともに戻ってきてしまうのです。

そしてもしも期待が叶ったらそれはそれで嬉しいのですが、またすぐに別の期待を生み出すのです。

そして期待が叶わなかったならば、そこで辛い思いをすることになるのです。結局どうなったところで、期待はなくならないし、そのために辛さもついてくるのです。

これが私たちの現状なのです。自分の意思で期待を落とすことはとても難しいので、やれることは期待してしまう自我を優しく見守ることですね。

それを継続しているうちに、少しずつですが期待するエネルギーが自我とともに小さくなっていくのです。

期待が小さくなると、それにつれて大喜びすることもなくなるのですが、それとともに辛さも小さくなっていくのです。

常識は勇気によって覆せる

かつて地球が宇宙の中心で、太陽もその他のすべての星々も地球の周りを回っているという、いわゆる天動説が常識だったときがあったのです。

まさか自分のいる地球、自分の土地が太陽の周りをグルグル回っているなんて、思いも及ばなったのです。

それが、コペルニクスの地動説によって完全に覆ってしまったのですが、それが広く浸透するまでには大変な時間がかかったし、抵抗も強くあったはずです。

けれどもどれほど堅牢な常識であろうとも、勇気ある科学者の存在と、それが間違っていることであればいずれは修正される運命にあるのですね。

私たちが暮らしているこの時代にも、そういった間違って広まってしまった常識というものはたくさんあるのです。

その一つに、放射能は怖いという常識があります。福島の原発事故がきっかけとなって、多くの人が政府のいう常識を植え付けられました。

その大元はICRP(国際放射線防護委員会)というところがだしてきた被曝の基準値。年間1ミリシーベルトという値なのです。

ところが、調べてみれば分かることですが、この値は80年も前に出されたあるデータをもとに作られたもので、今では勇気ある科学者からは完全に否定されているのです。

もしも日本政府が最新の科学を取り込む勇気があれば、福島から退避して帰ることができずにいる多くの人々の人生が救われるでしょうね。

私たちが個人として生きているという常識も、真実は違うところにあるのです。それを垣間見ることができた人だけが知っていること。

けれどもこれもいずれはすべての人が気づいていくことになるのだと確信しています。

マインドへの期待を放棄する

初めに、自分自身を批判するのを止めることだ。批判する代わりに、あなたの不完全さ、あらゆる弱さ、あらゆる誤り、あらゆる失敗を持つあなた自身を受け入れることから始めてごらん。完全であることを自分自身に求めてはいけない。それは不可能な何かを求めているだけだ。所詮あなたは人間なのだ。

by osho

所詮あなたは人間なのだ、というのを所詮あなたはマインドなのだと言い換えてみてほしいのです。

あの人、この人、という代わりにあのマインド、このマインドというように見ることを練習するのです。

本当の私たちは決してマインドなどではないのですが、誰もがマインドと自己同一化しているので、そのように見るのが正しい見方なのです。

マインドは、不完全で、弱く、誤りだらけで、失敗をするものです。それを避けることはどうやっても不可能なこと。

この不可能性をしっかり見抜くこと。不可能なことを前にして、完全に無力だということを理解することです。

それこそが肩の力を抜いて、緊張から解放される唯一の方法なのです。自分のマインドに何かを期待するのを放棄することです。

マインドの領分を熟知すること。それは常に防衛し続けるのです。だから真の愛を知ることはありません。

マインドが愛してるという場合は、自我の愛であって、無私の愛ではないのですから。真の愛とは、マインドが消えた時の状態をいうのです。

過食を治すには?

それこそ星の数ほどある問題行動の中でも、摂食障害で苦しんでいらっしゃる方は多いですね。そのほとんどが女性なのですが。

男性の場合には、食べることへの興味が女性ほどには高くないというのがその理由かもしれません。

それと、食べることがそのまま外見の変化に結びつくということから、痩せたいという願望が拒食を起こさせるということもあるのでしょうね。

摂食障害には拒食と過食があるのですが、確実に拒食症の方が頑固で治りにくいように感じています。

とは言っても、過食症もご本人は非常に辛い毎日を送られているのです。健康で楽しく美味しい食べ物を食べたいという当たり前のことができないのですから。

過食を治らせないようにしている要因の一つに、自責の念があるのです。過食をやめられない自分を責めていると、その反発として過食は続くのです。

その理屈は簡単。元々過食は問題行動の一つなので、根っこに自分の気持ちを分かって欲しいという願望があるのです。

だから、過食を自分自身で責めてしまえばやっぱり分かってはくれないんだという思いがやってきて、分かってもらうまで過食を止めるわけにはいかないのです。

この仕組みをしっかり理解することができれば、おのずと過食は改善していくはずなのです。

自我であることの自覚を持つこと

この世界、この宇宙で最も真理から遠ざかっているものといえば、それは自我なのです。

真理に近づくためには、無為(非行為)、無努力、無防備、無秩序、無目的、無関心、無念、無想…。

つまりは「無」がつくもの、こういったものと共にあることが必要なのです。自我にとっては、この「無」というのは思考を排除するものなので苦手なのです。

そのため、自我が一番真理から遠いところにいるというわけです。自我の興味は、防衛、安心、依存、苦しみ、競争、戦い、自立、成功…など。

結局自我が好むどれをとっても思考がそのベースにあるということがわかりますね。だから瞑想も苦手なのです。

けれども、例外もあって瞑想や「無」を好む自我もあります。自我というのは、非常にずる賢いので、自分は自我ではないと思い込むこともできるのです。

そうなると、だれよりも瞑想が上手になろうとしてみたり、「無」を素晴らしいと感じたりすることもできるのです。そうなると手強い自我になってしまいます。

そんな自我の中でも、敢えて言えばほんの少しでも真理に近いものは、自分は立派な自我なのだということを自覚している自我なのでしょうね。

真理は究極のシンプル

この世界はとても複雑にできているように見えます。けれども、真理は非常に単純だということを聞きます。それはどういうことでしょうか?

自我(思考)というのは、そもそも物事を複雑にしてしまうのです。なぜなら思考とは解釈するものだからです。

たとえば、目の前に背の高い木と背の低い木があるとします。それをあるがままにただ見るなら、それはいたってシンプルです。

ところが、あの木の方がこっちの木よりも背が高いと解説してしまえば、そこから複雑さが始まるのです。

それなら、他の木と比べたらどうだろう?ということが起きてきて、一生かかってもすべての木の高さを比べ終わるということはありません。

このように思考は必ず、ものごとを複雑にしてしまう名人なのです。逆に言えば、思考はシンプルなものを捉えることができません。

だから、真理である「無」に対して、思考はどうすることもできずお手上げ状態になって、思考停止となるわけです。

そうやって、思考の騒々しさが消えた瞬間に、隠されてきた静かなハートが「無」をそのままに理解するのです。

私たち一人ひとりが自分の人生をもっともっとシンプルなものにしていくことができれば、それだけみんなが真理へと近づくことになるのですね。

思考の外はどんな処?

5月の今頃というのは、一年のうちでも最も気持ちよく過ごすことができる季節だと思いますね。

だから公園などに散歩に行くと、大勢の人の姿をみることができます。そんな中でも最近はワンちゃんの散歩をしている人がとても多い気がします。

そんな時ふとネコちゃんはどうしているのかなと思うのです。子供の頃犬を飼っていたことはあるのですが、ネコは飼ったことがないのでネコの生態を詳しく知らないのです。

聞いた話ですが、家の中だけで飼っているネコの場合、決して外に出してはいけないと。一度でも出て外を知ってしまうと、出たい気持ちがあるのに出してあげられないので可愛そうだと。

確かにそうですね、知らないなら知らないままの方が幸せということもあるのです。外に出たいという気持ちが起きないのですから。

実は私たちのマインドについても同じことが言えるのです。通常私たちは、思考の煙幕の中に閉じ込められているのです。

だから自分のことをマインドだと思っているのです。思考の煙幕の外のことを知らないので、不満はないのです。

けれども、一度でも思考の外に出てしまうことができると、それが忘れられずに何とかしてまた外に出たいと思うようになるのです。

ところが、その欲望が思考でできているために、その欲望を落とさない限り思考の外に出ることはできなくなってしまうのです。

とは言うものの、思考の外こそが本当の自由の場所なのだと気づいたなら、人はそこから探求が始まるのです。

そしてその探求も思考で出来ていることに気づき、いつかは探求そのものも終わる時が来るのですが、その時にはきっと自由の場所に出れるはず。

その場所こそが本当のあなた自身なのですね。

人生の目的って?

クライアントさんの中には、自分が生まれてきた理由を知りたい、あるいはこの人生での本当の目的を知りたいという人が時々いらっしゃいます。

そういった疑問を感じるその気持ちはよく分かります。それは、残念ながら自我というのは目的、目標なしにはどうしていいか分からないからです。

はっきりとした納得できる理由があれば、厳しく辛い人生であろうといずれは報われるという救いらしきものがそこにありそうに感じるのです。

だから何とかして自分を納得させたいのです。なぜ、いまこれほど上手くいかないのか、なぜいつも虚しくて満たされない状態が続いているのか?

一時的であれ、不満を感じる暇もなければ、何の疑問も感じることがないのです。けれども明確に言えますが、人生には本質的には何の目的もないのです。

自我が聞いたら喜びそうな、生まれてきた理由などどこにもありはしないのです。なぜそんなことが言えるのかというと、人生で何を達成しようとすべてはいずれ消滅すると決まっているからですね。

それでも百歩譲って、一つだけ目的があるとするならそれは気づくこと。生きている間に自分の正体を見抜くこと。

自分の本質に気づくことは、永遠だからです。たとえこの宇宙が消滅してしまっても真実はただ在り続けるからです。

過去もイメージに過ぎない

まだ来ぬ未来というのは、そのすべてがイメージの中のものですね。思考を使った想像でしか、未来のことを取り扱うことはできないのです。

それなら過去についてはどうでしょう?過去は未来とは違ってもうすでに起きたことです。だから現実だと感じると思います。

けれども、今この瞬間からみれば、過去は未来と何ら違いがないのです。ここが非常に大事な観点なのです。

過ぎ去った過去も実在してはいません。だから過去を振り返る時には、やはりイメージ(思考)を使うことになるのです。

結局、未来も過去も素直にイメージでしかないことを認めることなのです。特に過去がイメージだと気づけば、それは自分の中で変えることができるのです。

イメージは作り物だからです。あなたが無意識の中で作り込まされた自己イメージももちろんイメージなのです。

過去にトラウマになるような辛い経験をしたとしても、今となっては単なるイメージに過ぎないと見抜くことです。

そのイメージがすぐに消失していかないとしたら、それは自分のマインドが何らかの理由でそれに執着しているからなのです。

執着が落ちたなら、どんな過去であろうともそのイメージそのものも消えていってしまうのです。

その時に同時に未来も消えて、たった今周囲で起きつつあることだけに意識を向けていられるようになるはずですね。これが覚醒ということです。

自我が人生を創造する

自我が毎日やり続けていること、それは自分の世界を創造するということです。世界といっても人生といってもいいです。

あなたの自我があなたの世界、あなたの人生を創造しているし、私の自我が私の世界、私の人生を日々創造しているということ。

覚醒してしまった人だけが、彼の世界、彼の人生を創造することをやめてしまうのです。彼は、人生のないただ起きている現象の中で生きるのです。

どうやれば、このことを本当に理解することができるのか?そのためには、自我とは思考の塊だということを思い出すことです。

思考こそが世界、人生を創造しているものなのです。思考が起きている現象を逐一解説し続けているのです。

その解説によって、あたかも連続的な人生がそこにあるかのように思えるわけです。

食べるということが起きる時、自我は思考によって「私が食べる」と解釈するのです。

歩くということが起きている時、「私が歩いている」と解釈するのです。そして私たちはその解釈の結果だけを頼りに生きているのです。

かつてブッダが、「行為はあるが行為者はいない」と言ったのはまさにこのことですね。

すべてはただ起きることが起きていると見抜ければ、自我は人生を創造することをやめてしまい、自我そのものが消えていくことになるのですね。