無防備=明け渡し

私たちの本質は、私たちが生まれてきたときのことをイメージすれば明らかなように、天真爛漫、無邪気、そして無防備なのです。

これこそが生の中に溶け込んでいる状態。生と分けるものが何もない時には、この状態のままでいられるのです。

ところが自我の発達とともに「私」ができてくると、「私」のことは自分で守らなければならないと思うようになるのです。

それが防衛の始まりです。防衛の大きさに反比例して、オリジナルの無防備さは影を潜めていってしまいます。

こうなったら、生を享受することなど到底不可能になってしまうのです。生とは恐怖に満ちた場所だと感じてしまうのですから仕方ありません。

癒しとは、自分の本質を思い出すこと、防衛にまみれてしまった生き方に気づいて、それが自我の作戦に過ぎなかったと理解するのです。

そうして少しずつ、生まれてきたときの無防備さ、無邪気さ、天真爛漫さを思い出すのです。

それを明け渡しと呼んだりします。生に自分を明け渡すことができたなら、あとは溢れてくる至福とともにあることになるのでしょうね。

思考の煙幕が晴れたら

私たちは、実存の中にいるのに、そこにいることができずにいます。実存というのは、過去や未来ではなく、たった今この瞬間のこと。

今というのを言葉や概念化してしまうことになったのも、過去や未来という実際には存在しないものをでっち上げてしまったからです。

人間はありたがいことに、ほんの少しだけ意識的であることができるようになったのですが、それを真に利用しているわけではないのです。

すぐに思考の中へと入っていって、過去や未来という妄想の煙幕が張り出して、それに包まれてしまうのです。

要するに、煙に巻かれている状態なのです。煙にまかれたなら、本当に存在するものを何も見ることができなくて当然なのです。

それでも実存の中からどこかへ行ってしまったわけではなく、煙が晴れてきたら自動的に回りに在るものが見えるようになるのです。

それは一度もどこかへ行ってしまったわけではなかったのですから。今在るものがそのままに見えるようになったら、今度はあなたは至福に包まれることになるのですね。

成熟って?

人は年齢を重ねるごとに成熟していくものだという認識がありますが、この成熟というのは一体どういうことを言うのでしょうか?

人は必ず失敗するものですが、その失敗から多くのことを学んで、次から失敗しないようにできれば、それは一つの成熟の形だと言えます。

あるいは失敗ということに限らず、自分の言動を省みて、それをより正しい方向へと変化させていけたら、それも成熟の形ですね。

けれども、そういうこととは根本的に異なる成熟というものもあるのです。それは、自分を裁かないというものです。

たとえば、すぐに怒ってしまう人がいるとして、何で自分はすぐに怒りを露わにしてしまうのだろうと反省するわけです。

そうして、もう二度とそんな怒りに任せた言動をしないと誓うのです。これは一見良さげに見えるかもしれませんが、これは成熟ではありません。

いくら真剣に誓ったところで、自我を最後までコントロールするなんてことはできないことだからです。

そういうことに気づき、怒ってしまう自分をただ見守ることができるなら、それこそが成熟というものなのです。

すぐに自分を裁いてしまう自分がいたとしても、それも含めて見守ることを練習するのです。そうやって少しずつ成熟していけるのですね。

マインドはメカニズム

日本語の「心」という言葉には、英語でいうところのマインドとハートという二つの意味合いがあるように思います。

なぜ日本語には英語のような明確な二つの相異なる意味に当てはまる言葉がないのでしょうか?マインドとハートでは全く違うものなのに、不思議です。

個人的には、心という言葉の響きからすると、どうもハートの意味の方が強いような感じがしますが、どうでしょう。

それはそうとして、ハートというのは生まれながらにあるものであり、そこに自我が介在することはありません。

自我の住まいはマインドです。マインドは単なるメカニズムであって、マインドという存在があるわけではありません。

仕組み、働き、そういうニュアンスでマインドを捉えてほしいのです。だから、一つひとつのマインドが独創的であるなんてことはありません。

ただのメカニズムなのですから。人の数だけマインドの仕組みが動いているのですから、それさえ深く理解してしまえば問題は消えていくのです。

特別なマインドというものもありません。マインドにいいも悪いもありません。ただ理解すれば事足ります。

もしもあなたが覚醒して自我が消えてしまったなら、マインドの中枢である自己防衛も同時に消えて無くなるでしょうね。

残るは、マインドの機能する部分のみです。それは日常のあらゆることを司る部分。会話をしたり、運転をしたり。そこがなくなることはないので、心配無用です。

真実はただ在る

理由のあるものはすべて自我のものです。あなたが感じている幸福感に理由があるなら、それは自我の幸せなのです。

不幸も同じ。その不幸にこれこれしかじかだから不幸なんだという理由があるなら、その不幸は自我のもの。

喜びであれ感動であれ、悲しみであれ、何であれそこにはっきりとした理由が見つかるのなら、それはすべて自我のものです。

逆に、もしも目の前にいる人のことを愛おしく感じて、それに理由が見つからなければそれは自我のものではなく、本質的なものだということ。

自我とは次元の違う愛を感じているということです。独り静かに目をつぶり、少しの時間なにも考えずにじっとしていると、ふわっとした気持ちになるかもしれません。

私はそれを至福と呼んでいるのですが、この至福感にはどんな理由付けもできません。だからこれを感じているのは自我ではないということですね。

自我から離れて真実に近づいていくと、そこにはどんな理由も見つからない世界が広がっていることに気づくかもしれません。

真実には、理由や目的や価値などといった自我だけが大切にしているものが無いのです。真実はどんな理由もなくただ在るのですから。

自己改善のマインドを見守る

マインドは自己改善というものをなくしてしまったら、生きてはいけないのです。だから基本的にはいつも自分自身に対して不満を持っているのです。

それはマインドの特性なので、それ自体を変えようとしても変わりません。勿論それを変えようとすること自体が自己改善の一部なのです。

もしもあなたが、自分に対して何らかの理想を作ってしまったら、死ぬまで自己改善が続き、それに比例した自己不満もやってくるのです。

理想的な自分を妄想してしまうマインドの部分はあってもいいのです。大切なことは、それを見守ってあげることです。

見守ることができれば、それに乗っ取られて毎日後悔と自己不満がやってくることもなくなっていくのです。

理想を目指すマインドは、常に自分はもっとこうあるべき、もっと努力できる、もっと頑張れるはずを繰り返しているのです。

それを微笑ましく見守ってあげるのです。ほかにやれることはありませんし、それが結果として自己不満を最小にしてくれる唯一の方法なのですから。

執着と知識の勘違い

私たち自我は、色々な間違いをしでかすのですが、その中でも代表的で致命的な間違いがあるのですが、それをご紹介します。

それは、執着を愛と間違い、知識を理解と勘違いすることです。一番問題なのは、その間違い、勘違いに気づいていないことです。

多くの人は、自分が感じる執着を愛だと思い込んでいるのです。たとえば、親が子供を溺愛するといった場合は、とんでもない執着なのです。

愛は相手をコントロールしたり、期待したりしないのです。愛は無防備であり、執着はその反対の防衛だと気づくこと。

知識というのは、単なる情報であり、それが自我の財産にもなっているのですが、知識は他人のものでありそこにはどんな気づきもありません。

その反対に、理解というのは自分の血となり肉となる深い気づきのことなのです。1億の知識よりも1つの気づきの方がどれほど大切か。

自分の中にどんな執着があるのか、それをしっかり見ることです。それ以外に執着がなくなることはありません。

同様にして、知識をただのデータだと見抜くことができれば、本当は自分は何も知らなかったのだという大切な気づきがやってくるのですね。

天の計らいは素晴らしい

ちょっと嫌な話しではあるのですが、恐怖や苦しみなどを超えていくためには、それに直面しなければならないのです。

直面するというのは、それと戦わずに、それから逃げるでもなく、ただそれをあるがままにしておくということです。

とても耐えられないような恐怖、あるいは苦しみというのはあるのでしょうね。けれども、耐える必要はありません。

恐怖の根っこ、苦しみの根っこを見てあげるのです。勿論簡単なことではないのですが、小さいものから練習を積むことでいつかはできるようになるはずなのです。

最高難度のものが階段の10段目だとしたら、今の自分にできるのは今いる位置よりも一段だけ上にあがること。

それだけを考えればいいのです。それなら間違いなく可能なのですから。10段目のことはきっぱり忘れてしまうのです。

今不可能なことを考える必要はありません。一段だけあがることができた自分だけが、もう一段あがることができるのですから。

未来のことは未来の自分に任せてしまえばいいのです。天の計らいは素晴らしく、今のあなたがちょうど直面できるくらいのものを贈ってくれるのです。

それを楽しむことができたらいいですね。

生の中に問題はない

マインドの働きというのは、問題を見つけてはそれを解決しようとすることなのです。それに従事していたいのです。

マインドは従事すべきことがなくなってしまうと、手持ち無沙汰になり、退屈になって死んでしまう気がするのです。

だから人生は問題だらけになってしまうわけです。そんなはずはない、問題など起きて欲しくはないと思っている自覚があるはずですね。

けれども、実際は気づけないところでマインドは虎視眈々と問題を発見しようと頑張っているのです。

発見すると言いましたが、正確には問題を作り出すのです。問題はマインドが作り出さない限りは無いのです。

自分の人生にはどうしてこう問題ばかりが次から次へと舞い込んでくるのか、自分は運が悪いのかと思っている人もいるかもしれませんね。

本当は、その人のマインドが問題をたくさん作り続けて、それに従事することでマインド自体は安泰でいるということなのです。

そこを見抜くことができると、問題は徐々に減ってくるはずなのです。何にせよ、気付くことは最強ですね。

宇宙人に自我はあるか?

私たちが通常認識している社会が表社会であるなら、その反対の裏社会というものがあるという話しを聞くことがありますね。

常識ではとても考えられないような不思議な出来事だったり、場合によってはオカルト的な様相を呈する事柄だってあるのです。

そういうものをありえない作り話しだとして否定してしまうのは簡単ですが、私自身は何を聴いても否定することはありません。

さりとてそれを信じ込むということでもないのですが、否定も肯定もない宙ぶらりんな状態にしておいて、興味があればできるだけ自分で調べるのです。

ただし、どれほど興味深い事が見えてきたとしても、あくまでも思考が作り上げた物語に過ぎないということを忘れることはありません。

たとえば、もしも私のところにUFOに乗った宇宙人がやってきて、高度に進化した文明や科学のことを教えてもらったとしたら、それはびっくりするはずです。

けれども、最終的にその宇宙人に聞きたいことはたった一つなのです。あなたに自我はありますか?ということ。

個体として生きているという答えが返ってきたなら、自分と根っこのところで違いはないということがはっきりするのです。

その宇宙人も思考がこしらえた物語の中の住人をやっているのだということが見えてしまい、あとは物語の中で興味を持つだけとなるのでしょうね。