感じやすくカラッとしている

自分の内面にやってくる気持ちや感情のうち、素晴らしいものとそうでないものに分けるとしたら、例えば、感動とか感激、歓喜などは前者ですね。

そうでないもの、つまりネガティブと言われたり、都合の悪いものとしては、悲しみや怒り、嫉妬、罪悪感、恐怖、不安、苦しみなどがあります。

なんとなく、ポジティブなものよりもネガティブなものの方が、よりたくさん挙げられるのはなぜなんだろうと思ってしまいます。

誰だって素晴らしい嬉しい気持ちになりたいし、感動や感激の体験をしたいと思うものです。けれども、そうしたポジティブな感情をより多く感じる人は、同時にそれだけネガティブな感情も感じることになるのです。

例えば、すごい感激屋さんなら、それだけ悲しみを多く感じることになるということです。なぜなら、それらは方向が違うだけで一つモノだからです。

人一倍貪欲に快感を感じようとする人は、それだけ多くの不快も感じることになるということです。そうやって、二元性の世界はバランスを自動的に保っているのです。

辛い感情を感じないように抑圧している人は、その分だけ感動や感激も少なくなってしまうということと同じですね。都合のいいものばかりというわけにはいかないのです。

そして癒しが進み、人生を物語だと見抜くことができるようになると、何が変わってくるかというと、どんな素晴らしい感情や否定的な感情であれ、長続きしなくなるのです。

癒されると、それだけ人は感じやすくなってしまいます。だから、病んでいたときの方が、却って楽だったと訴えてくるクライアントさんは沢山います。

けれども、それを更に通り越していくなら、今度は多くを感じはするけれど、すぐに治まるようになるということです。いつまでも余韻が残らないのです。

一口で言えば、非常に感じやすく、その一方でとてつもなくカラッとしているということですね。それが本来の私たちの内面なのです。

ただ観る自分は無反応

夕べ少し嫌な夢を見ました。大人の自覚があるようなのですが、どうも修学旅行に行っているようなのです。それで、自分だけ道に迷っているような…。

置いてきぼりになりたくなくて、全力で走ったりしているのです。ところが、その一方でどういうわけかその夢のあらすじを見ている自分もいるようなのです。

本気で焦っている自分と、その成り行きを見ている自分の両方が混じり合っているといった感じなのかもしれません。

だから、本気のようでいて本気ではないのです。この夢の内容については、正直それがどんなマインドの状態を表しているのか、あまり興味があるわけではないのです。

人間ですから、いろいろな内面の葛藤とか抑圧してきたものが当然表れているのでしょうけれど、それよりも大切なのは、見ている部分があることに気づけるようになったということ。

普段から、人生を物語としてただ観るという練習をしてきた成果?が、ほんの少しずつでも夢の中にも影響を与えるようになったのかなと。

その効果は、結局のところ内容が悪夢であったとしても、全体としてはその嫌さ加減が半分になってくれるということですね。

見ている自分は、どんな反応もせずにいることができるのですから。

他人の意見に対する恐れ

私たちは、死の恐怖以外にも様々な恐怖を持っているものです。その中の一つに、他人の意見に対する恐れというものがあります。

それがどれだけ自分のことを傷つけるかということを、恐れているということです。人からどう言われるのか、どのように否定されてしまうのかを恐れるのです。

そして、その恐れが強ければ強いほど、逆に肯定されたり褒められたりすると、それだけ喜ぶことになるのです。なぜなら、それらの反応は逆向きではあるけれど、対をなす同じものだからです。

これがマインドの二元性なのです。好きであればあるほど、ひっくり返ったときの憎悪も大きくなることを思い出せば、理解できるはずです。

どうでもいい相手を嫌いになることはありません。好きになれるからこそ、嫌いになる可能性が生まれるということに気づけばいいのです。

巷にある人気ランキングなどで、ベスト10に入っている人が、同時にワースト10にもランクインしているケースがよくあるのは、周知の事実ですね。

ということは、人から肯定されても褒められても、殊更の反応をしないマインドの状態になっていると、他人の意見に対する恐れも小さくなってしまうということです。

元々、それらの恐れとは自己防衛からやってくるものなのです。幼いときには恐怖があるから自己防衛を始めたのですが、それが大人になるにつれて逆転してしまうのです。

恐怖から防衛するのは建前で、その実情は防衛すればするほど恐怖を引き寄せてしまうということなのです。日頃から自分が持っている恐れに気づいていると、こうしたことを深く理解できるようになるのですね。

内側と外側は一つもの

自分を観察していて気付いたのですが、ごく普通に外側の世界を見ている間は、内側の自分というものが個として感じられるのです。

そして、その逆に瞑想などによって内側深くに入っていけばいくほど、外側の世界との境界が曖昧になってくるということです。

このことは一見矛盾しているように思えるかもしれませんが、実はそうでもないのです。外を観るということは、同時に外とは隔絶した内側を明確にするからです。

だからこそ、ごく普通に社会の中で暮らしているという感覚は、それこそが自分を個人として見るということを同時に起こすのです。

一方で、内側深くに意識を向ければ向けるほど、外側の世界は希薄になって行き、しまいには消滅してしまうかもしれません。

そして、残るのは内側だけとなったときに、内側と外側の区別すら消失して、それが全体性へと変わっていくのです。内も外も同じ一つだったということ。

ただし、それが分かったとしてもこれまで通りの人生は続いていくのですが、間違いなく個としての自分は、周りとの境界が曖昧なものになってしまうのです。

外と内の境界がなくなれば、防衛するべきどんな理由もなくなってしまい、残るのはすべては一つという愛だけになるのでしょうね。

癒しは自己消滅を予感させる

初めてセッションを終えたクライアントさんが、時々あと何回くらい通ったら良くなるのでしょうか?といった質問をされることがあります。

それは尤もな質問ですね。時間と労力とお金をかけてセッションに通うのに、先の見通しが全くできなければ不安にもなるというものです。

けれども残念なことに、これがほとんど予測できないというのが実情なのです。クライアントさんによって、現状が千差万別だからです。

生き方や考え方、どういった自己防衛をしてきているか、困っているレベル、敏感さのレベル等々。こうした様々な要因が絡み合って、今の状況を作り上げているからです。

そもそも、ご本人が一日も早く癒されたいと願っているはずなのに、どうしてすぐにでも思ったように癒しが進んでいかないのか、そこに着目する必要があるのです。

その理由は、一言で言えば、マインドの中に「消えたくない」という恐怖があるからなのです。誰が消えたくないと思っているのでしょうか?

それは、これまで何とか生き延びるために、犠牲を強いてまでも頑張ってきた自分、戦ってきた自分、防衛してきた自分が消えたくないのです。

癒しを進めていくということは、そうした自分にとっては自己消滅を予感させるものなのです。その激しい恐怖心がマインドの奥底で暗躍するのです。

それが、癒しにストップをかけ続けるために、癒しを進めていきたいという自覚とは裏腹に、場合によっては遅々として進まないということが起こるのです。

大切なことは、そうした消えていく恐れを抱いている自分の存在に気づいてあげること。そして、消えてしまうのではなく、小さくなるだけだということを伝えてあげることです。

どんな自分も消える必要などないのです。ただ、あるがままの自分でいいということに気づくことこそが、癒しの本質なのですから。

いることは緊張だ

いることは緊張だ。

いないことは安らぎだ。

あなたが消えたとたん、存在全体がその姿をガラリと変える。それゆえ、あなたこそが唯一の問題だ。もし自分の問題を溶かし去ることができたら…。

それはつまり、自分自身を溶かすということだ。

だからあなたに救済は存在しない。ただ<究極>へと自分自身を溶かすしかない。そして、それほど偉大で、それほど尊く、それほど奇跡的なことはない。

by osho

人生は手段であると同時に目的でもある

私たちは、人生に目的を持てと教わるのです。無目的に、その日暮らしのようにして生きるのではなく、目標、目的を達成するために今日をしっかり生きなさいと教わるのです。

そのせいで、いつも未来のどこかで自分の希望する目標を達成するのだと考えているのです。それが明確になっていようが曖昧であろうが同じこと。

何が同じかと言うと、人生そのものが目的だという最も大切なことを忘れてしまっているということです。セッションでもいつもお伝えしていることの一つに以下のことがあります。

手段と目的が一つであるとき、その原動力は愛であり、手段と目的が別々であるなら、その原動力は不安や恐怖、つまり自己防衛であるということ。

だから、人生に目的や目標を持つということは、何となく正しいことのように感じるかもしれませんが、その生き方には愛がないということなのです。

逆に、生きるという手段それ自体が目的であるときにのみ、愛が溢れることになるということ。だから、表面的に目的や目標があったとしてもいいのです。

本質的には、生まれて生きて死ぬこと、それ自体がそもそも目的であればいいのです。そこにはどんな難しさもありません。これほどシンプルな生き方もないのです。

今日生きることが、未来に想定される何かを達成するためだとしたら、そこには自己防衛しかないということに気づくことですね。

「癒しから覚醒へ」というテーマのこと

このブログの題名というかテーマは、「癒しから覚醒へ」というものなのですが、改めてこの意味を書いてみたいと思います。

セラピストの仕事を始めた頃は、心を癒していくということが唯一人が幸せになっていく方法だと思っていたのです。だからこそ、そうしたことに関われることは嬉しいことだと感じてもいたのです。

ところがどっこい、癒しを進めていくと実は二つのことに気づいていくことになるのです。一つは、癒した分だけ楽になって、心が軽くなっていくということ。

自分で勝手に重荷を背負って生きて来た人が、それを肩から降ろして身一つで生きていくことがどれほど清々しいものかを実感できるようになるのですから、それは素晴らしいことですね。

けれども、もう一方で心の奥深くには依然として満ち足りないという漠然とした不足感が残っているということにも気づいてしまうのです。

というより、癒せば癒すほど、その不満感はより明確になっていくのですから、これは本当に困ったことなのです。そのときに、ようやく気づくのです。

心の癒しだけでは、どうしようもないのだということを…。癒しを続けていった先にあるもの、それは目に見える苦しみは消えていくのに、本質的な苦悩がよりはっきりしてくるということ。

結局、人は自分の本質に気づいていく以外には救われないのだと気づいたのです。このことを、セッションにいらしたクライアントさんに、いきなりお話ししても仕方のないことです。

ですので、まずは目の前にある苦悩を癒していくことから始めることがやはり必要なのです。そのためのセッションを行うのがセラピストとしての仕事です。

そして、ある程度の癒しが進んだ段階においては、自己を探究することへと意識を向けていくこと、瞑想によって無自己性に気づいていくことこそが、真の癒しなのです。

だから、「癒しから覚醒へ」という題名にしたのです。充分に癒しを進めていく中で、瞑想や自己想起のような方向へと話しが変わっていくときに、ついてきていただけるかどうかが最大の関心事なのです。

気が晴れない

この一週間くらいですが、どういうわけか何となく気が晴れない感じが続いているのです。実際、物理的にも胃の辺りがモヤモヤするのです。

けれども、それとはまた別に内面も気分がどんよりしている気がして、自分でもその理由がまったく分からずに過ごしているのです。

一般的には、何か嬉しいことがあれば気分がいいし、都合の悪いことや心配事があれば、気分がすぐれない状態になるものですね。

ところが、自分の身に起きていることをいくら考えてみても、気分を落とすようなどんなことも見当たらないのですから、不思議としかいいようがありません。

それどころか、実はやっかいな相続関連の作業がほぼ終わって、ああよかった!と思っているところなのです。お墓にまつわる面倒なこともすべて終わったし。

敢えて言えば、一つだけ、本を執筆していて今年中くらいをめどに仕上げようと思っているのですが、それも本当はいつまでにというのもなくて…。

だから、適当に書く気になったときだけ書くというように、気楽にやっているのでそれも気を病むような原因にはならないはずなのです。

そして、その気が晴れない状態は、じっと見つめていると少しは良くなったり悪くなったりといったことを繰り返しているようなのです。

これも何かの練習になるかなと思って、できるだけこの気が晴れない状態に意識を向けていられるようにしようと思うのです。人間、こんなときもあるのですねえ。

不可能というアート

エゴはできないよりもできることに価値があると信じています。不可能よりも可能であることが優れていることだという思い込みです。

けれども、本当の救いは不可能性からやってくるのです。例えば、もしもあなたがウソをつくことができないなら、苦しみは消えていくのです。

何か都合の悪いことを隠すことが可能だと思うからこそ、マインドが分裂してしまうのですから。本当はどんな隠し事も不可能だと知れば、ただあるがままで生きることになるのです。

私たちの誰もが、価値のない存在になることなど不可能なこと。価値がないと思い込むことだけは可能ですが、実際に価値がなくなることはあり得ないのです。

もっと言えば、すべてが分離しているというのも幻想であり、リアルな実在は分離することなど不可能なことなのです。そして、エゴが存在することさえも不可能なこと。

私たちの実在が死ぬということも不可能なことです。真実は、あらゆる不可能なこととして表現することしかできません。

あなたが、マインドの中にいるということも不可能なことです。瞑想はマインドから離れることだと表現したりもしますが、それは単なる方便に過ぎません。

どうやったところで、あなたはマインドの外にしかいられないのですから。マインドとの自己同化をなくせば、すぐにそのことに気づくはずなのです。

その不可能性に気づくなら、歓喜することになるかもしれませんね。