しわ寄せは必ずやって来る

人生をシンプルに生きないと、様々な不都合な結果がやってくるというお話しです。私たちのマインドというのは、物事を複雑にするプロだと思ってもいいくらいです。

何かを我慢したり、無理したり、異常に頑張ったりして、自然な振る舞いを抑制すると、使われなかったそのエネルギーがマインドのどこかに蓄積されます。

それが自覚できる表層に残る程度ならいいのですが、潜在意識というマインドのいわば地下室の部分に放り込まれてしまうと、溜めてる自覚がまったくなくなってしまうのです。

そうなると、益々不自然な生き方をするようになり、地下室は次第に使われないで残った、つまり成仏できていないエネルギーで溢れ返るようになるのです。

そのしわ寄せは、いずれあらゆる方法でやってきます。そのエネルギーが突然感情となって噴き出してくることもありますが、そうなると、理性ではもう止められません。

例えば、子供の頃に両親に対する怒りを知らずに溜め込んできたとすると、自分が親になったときに、子育て中に愛しい子供に対して激怒するといったことが起こるのです。

また、無気力になったり疲労感がやってきて、つまりウツの状態になったりもします。このようなしわ寄せは、比較的分かりやすいものですね。

最も自覚できないのは、それが問題行動化したときです。子供の頃なら、おねしょや病気、ケガ、あるいは不登校といった形をとるかもしれません。

大人であれば、人生が何だかうまくいかないというような状況を作り出すことが起こるのです。不自然な生き方をした過去からやってくるしわ寄せは、決して逃れることができません。

もしもしわ寄せが来ていると気づいたなら、それは癒すチャンスだと思えばいいのです。逃げられないと腹をくくって、癒しを実践することですね。

願いが叶ってもすぐに普通になる

どんな人生が理想的な人生かと問われたら、大概はその人の希望や欲求が叶う人生、本人の願い事が実現する人生だと思われるかもしれません。

たしかにそんな人がいたら、とても羨ましいと思ってしまうはずです。それは当然のことですが、でもちょっと待ってください。本人のことは本人にしか分からないのですから。

考えてみると、私は自分がこうなったらいいなとか、ああなれたらいいのにと思っていたことが、かなり実現してしまっているのです。

これは驕りでも自慢でもありません。冷静に思い返してみたときに、そんな気がするのです。勿論、100%というわけにはいかないのですが…。

でも嬉しいのは一時的なものであって、そのうちには実現したことが普通に感じられるようになるのです。会社員の頃に、自分独りで仕事ができたらどれほど楽だろうと思っていました。

仕事に追われずに、自由な感覚で生きることができたらいいのにとも思っていましたが、それは間違いなく実現してしまっています。

最近だと、瞑想や星見のできる完全にプライベートな空間が欲しいと思っていたところ、気が付いたら手に入っていました。

毎日、露天風呂生活ができたら快適だろうと思っていたら、それも叶っています。けれども、身体の快適さはずっと続くものの、マインドの喜びというのは日ごとに小さくなっていっているのです。

実現する以前の生活のことを思い返せば、それと比較することで現状に感謝する気持ちも出てきますが、そんな思考を働かせずにいるなら、今が普通になってくるのです。

結局、何が手に入ろうが、どんな嬉しい出来事が起きようが、そのときの興奮や感動は過ぎ去っていくものなのです。だから、幸福感など起こりようがないのですね。

苦しい人生も嬉しい人生も、どんな人生であれ、外側からくるものに至福をもたらしてくれるものなど一つもありません。すべては一過性の刺激でしかないのですから。

だったら、どんな人生であれ大して変わりはないということ。自分の人生と誰かの人生を比較しても、まったく意味がないということです。

人のために役立つ人生だったら満たされるはずと思うかもしれませんが、それも一過性のものです。こうしたことに深く気づくともっとラク~に生きることができるようになるのですね。

四十九日の法要を終えて

昨日は、亡くなった父親の四十九日の法要を行なった日でした。極力少人数の身内だけで、なるべくシンプルにということで執り行ったのです。

納骨堂の一フロアを貸し切りにしていただき、とても静かな空間の中で、頼んでおいたお坊さんの読経の声がとても心地よかったのです。

ジ~ッと聞き入っていると、何となく真理を表現しているような言葉が入って来たりするのですが、それでもほとんどは何を言っているのか分からないのです。

ところが不思議なことに、何を言っているのか分からないということが、逆に何か崇高なことが行われているような気がしてくるのです。

きっと、何だか分からないということ、つまり理解できないということが思考を停止してくれるのですね。それが心地よさを連れて来るのです。

そして、なんとなくその崇高なことを執り行ったのだという妄想が、故人に対する愛情表現のような、そんな気持ちがするのかもしれません。

丁寧なお坊さんなのか、お経が終わった後に、四十九日の法要の意味などをかいつまんで説明してくれたのです。そして、すべての法要が故人のためになること。

更に、故人は残された家族全員を見守ってくれるので、みんなのためにもなるということを言葉巧みに伝えてくれたのです。

なんて、商売上手なんでしょう!あのお経を上げる透る声は、確かに一種の職人さんなのだなと感慨深い気持ちにもなったのです。

エゴと至福は裏腹

以前にもこのブログで書いたことがあるのですが、私たちが知っている喜びの三つの側面があります。一つは快感であり、これは肉体のものです。

二つ目は幸福であり、これはマインドのものです。そして三つ目は至福です。これは敢えて表現すれば、霊的なものだということができます。

初めの二つである、快感と幸福という喜びは、どちらも求めることができるものですね。なぜなら、それらはエゴの範疇のものだからです。

エゴの範疇であるこの二つの喜びは、その真逆が一緒についてくるということを憶えておく必要があるのです。つまり、快感を求めれば不快も必ずやってきます。

また幸福を求めるなら、不幸も同時にやってくるのです。これがこの二元性の世界の掟なのです。だから、知性的な人ほど、そうしたものを安易に求めなくなるのです。

一方、エゴは自分の力で求めて手に入るものが大好きなのですが、残念ながら至福だけはいくら努力したところで手に入れることはできないのです。

逆に努力すればするほど、至福から遠ざかってしまうのですから、どうしようもありません。なぜなら、至福はエゴのないときにだけやってきてくれるものだからです。

エゴにとっては、非常に皮肉なものと感じてしまうでしょうね。私は個人的には、最も遠ざかってしまったのが幸福感だと言ってもいいのです。

マインドの範疇である幸福感というものは、思考を駆使しなければやってこなくなってしまうからです。自分が幸福なのか不幸なのかということには、もう随分前から無頓着になってしまいました。

そして、時々短い時間ですが至福を実感することもあるのですが、長くはそこにいられずにいるのは、エゴの邪魔が必ず入るからなのでしょうね。

求めないこと、これが至福がやってくるときの条件なのです。気が付くと、エゴが至福をも求めてしまうために、それを逃してしまうということです。

中心というものはない

人間が他のどの動物とも違って、心理的に苦悩することになってしまった本当の理由は、人間だけが意識的な部分を持つようになってしまったからなのです。

その意識が中途半端であったために、身体やマインドと自己同化することによって、個人としての自分が中心であるかのような錯覚を持つことになったのです。

そうなると、自分以外はすべて外側に位置している自分とは別のものという感覚になってしまうのは当然のことですね。それがいわゆる分離感というものです。

動物にはこうした分離感はありません。分離感は、不安や恐怖を生み出し、結果として自己防衛へと突き進んでいくことになったのです。

それがエゴの生き方であり、だからこそ愛が分からなくなってしまったのです。「私」という個人がその内側に中心となる部分を感じながら、愛に気づくことは不可能なこと。

愛とはすべては一つという感覚だからです。私がいれば、その対象として誰かがいるのです。そうした個々の間における愛とは、エゴのレベルの愛なのです。

それが悪いわけではないですが、真の愛ではないということの気づきは必要なのです。その気づきがなければ、いつまでもそれを愛と錯覚しつづけてしまうことになるのですから。

中途半端な意識から100%の意識へと変化することによってのみ、分離感が消えていくことになるのです。そのときに初めて、個人のなかにあった中心が、全体性へと移っていくのです。

そのときには、中心というものすら消えていくのです。

マインドに力を貸さないようにする

少しの間でいいので、マインドに力を貸さないようにしてみるのです。マインドとは、過去の蓄積です。今この瞬間に意識を向けていれば、マインドの出番はありません。

そのほんの少し後に、マインドは今だと思っていたものを蓄積するのです。だから、今この瞬間を意識しているあなたは、マインドのほんの少し前にいるのです。

マインドは決してあなたに追いつくことはできません。なぜなら、マインドは一瞬でも今が通り過ぎた後にのみ、蓄積し出すことができるからです。

普段、あなたはマインドと自己同化しまくっているので、そのことに気づくことができずにいるのです。マインドのほんの一瞬でも前にいれば、マインドと離れることができるのです。

その時、エゴはありません。エゴはマインドの中にのみいられるからです。沈黙して、意識そのものに意識を向けることができるなら、エゴを後ろに追いやることになるのです。

例えば、あなたが過去のエネルギーであるインナーチャイルドと同化しているとき、あなたはインナーチャイルドの存在に気づくことができなくなるのです。

その時、あなたはインナーチャイルドに乗っ取られたように振る舞うかもしれません。まったく意識的ではない状態にすら、気づけなくなるのです。

一方そこから脱出して、今に意識を戻すことができるようになると、突如としてインナーチャイルドの存在に気づけるようになるというわけです。

人生にはどんな目的もない

クライアントさんの中には、自分の人生の目的を知りたいという人がいます。人生の目的を知って、それを成就して価値ある人生にしたいと思うのでしょうね。

けれども、残念ながら誰の人生であれ、どんな目的もないのです。敢えて言えば、人生そのものが目的だと考えればいいのです。

勿論これは思考レベルの話しではあるのですが、生きることは手段であると同時に目的でもあるということです。以前、このブログでも書いたように、手段と目的が一つである行為を「遊び」と呼ぶのです。

だから、人生とは遊びなのです。何かを達成するとか、成果を出すというようなものではなく、ただそのプロセスを楽しむこと、それが生きることなのですね。

エゴというのは、どんなことにも、意味や価値、そして目標、目的を作り出して、それを支えにして日々戦い続けることが好きなのです。

エゴは遊ぶということが不得手なのです。なぜなら、遊びの原動力は愛であり、エゴは不安や恐怖を原動力として生きているのですから。

百歩譲って、一人ひとりの人生に個別の目標や目的があるとしたら、それは人生という物語の中でのことなのです。物語は思考によって作られているので、どんな目的だろうと生み出せるのです。

けれども、真実は物語の中にはありません。人生を物語だと見抜くヴィジョンを持つことができれば、それが遊びであることが分かるようになるのです。

今日も今日とて…

気づいていようと気づいていまいと、私達は心のどこかで未来に何か嬉しいこと、素晴らしいことが起こるのではないかと期待しています。

これまでの人生があまり気に入らないと感じている人でも、それなりに悪くもなかったと思っている人でも、みんなもう少し明日は良くなってほしいと願っているのです。

自分の人生は、もうそれほど良くはならないとあきらめている人であっても、実は心の片隅で必ずや何がしかの希望はなくしていないのです。

それがエゴの習性なのですから。私たちが死を恐れる最大の要因とは、そうした期待を寄せる未来を完全に奪われてしまうからなのです。

未来がないということは、どんな希望も期待も欲望も持てなくなってしまうことになるのですから。それが恐怖を生み出すことになるのです。

けれども、落ち着いて心を静かにして毎日起きていることを見ることができれば、いいことも悪いことも起きて、それでもおしなべて何だかOKだという感覚がやってくるのです。

毎日が淡々とやってきては過ぎていく。都合の悪いことが起きたら、次にはちょっと嬉しいことが起きたりする。それでも、本質的にはどんな変化もありはしない。

暇な一日、活躍した一日、不愉快だった一日、感動した一日、何事もなかった一日、どんな一日でも、今日も今日とて…という感覚に浸ることができれば、すべてがOKになるのです。

勿論、OKでなくてもそれはそれでOKなのですから。

「自分の思考」はない

私たちは、「自分の○○」というものを無数に持っています。自分の家、自分の車、自分の彼氏、自分のお金、自分の名前、自分の性別。

目に見えるものもあれば、目に見えないものもあります。いずれにしても、「自分の○○」というのは真実ではなく、単なる思考だと見抜くことです。

もう少し詳細に言えば、思考の中身だと分かりますね。そのような内容の思考があるということです。それでは、思考そのものについてはどうでしょう?

自分が考えていることは、「自分の思考」と言うことができますが、他のすべての「自分の○○」と同様にして、自分の思考というのも真実ではないということです。

つまり、こう考えたのは自分であり、自分が考えたのだと信じているのです。けれども、それは上記したように本当は自分の思考ではありません。

あなたが今何かを考えているとしても、それはあなたの思考ではないということ。でも私たちは「自分の思考」だと信じて疑わないし、そのことに執着してもいるのです。

これは私の考えだ!と言う具合に。もしもこのことを深く理解することができたなら、思考から距離を取ることができるようになるはずです。

そうなったときに残るもの、それこそが私たちの本質である意識なのです。意識に対して、「私の意識」ということはできません。なぜなら、「私の○○」こそが思考だからです。

「自分の思考」はないということ、この理解はとてもとても重要です。

エゴが存在に道を譲る

私たちのほとんどは、エゴを持ったまま死んでいきます。誰でもない存在として生まれて、エゴが発生することは悪いことではありません。それは必然なのです。

けれども、そのエゴのまま死に行くことは必然でも当然でもなく、敢えて言えば残念なことなのです。というのも、それは目的を成就せずに生を終えたことになるからです。

それは、例えていえば種のまま土の中で腐ってしまったようなもの。エゴとは個人を守る種のような固い甲羅だと思えばいいのです。

種の固い外殻は、内側を守る上では必要なものですが、その種が土中で腐って自ら消えていくことで、その中から待望の芽が出現するのです。

種の本来の役目はそこで成就するのですが、種のままで終えるなら本来の目的を達成せずにその生を終えてしまうということ。

私たちのエゴは、いずれは私たちの内側深くにある存在へと道を譲らねばならないのですが、エゴの甲羅が固過ぎれば、存在が芽を出せずに終えてしまうことになるのです。

誰もがいつかはエゴを落として、そこから存在がその姿を顕わにすることになるのですが、これまでのところは相変わらずエゴという種のままで、人生という物語に興じているのです。

エゴが存在に道を譲るとき、あらゆる苦悩がエゴと共に消え去り、自分が中心だと思っていたものが宇宙の中心へと移行するのです。それを至福と呼ぶのです。