言葉にできないアレのこと

私たちは、多忙な一日のちょっとした合間に、ふと我に戻って自分に意識を向けるとき、通常自分の存在とはこの身体だったり、マインド(思いや気分や気持ちなど)だと思うのです。

あるいは、肉体や内臓などのあちこちからやってくる無数の感覚だったり。こうした慣れ親しんだものの総称を「私」と呼ぶようになって久しいのです。

けれども、そうした集まりを表に残して、意識をもっともっと奥へ奥へと向ける練習をしていくと、何かが変わり出すのです。

それは、決して言葉にすることのできない自己の実在、いつも気づいている個人としての「私」とはまったく異なる、不動の何かへの気づきがやってきます。

本当はいついかなる時でもそれは常に在り続けているのですが、この「私」が活躍しているときには微妙過ぎて気づけなくなってしまっているだけなのです。

敢えて表現すると、形も大きさも色も位置も何もない、「何か」とも言うのが憚れる感じのモノ。「無」と言ってもそれも違う感じがします。

結局は、すべてがそれであって、それでないものは一つもない。「私」がそれに気づけないでいるというバカバカしさを思い出せたり、思い出せなかったり。

ふとしたときに、いい人生だなあと感慨深く感じていると、すぐにそれを飲み込んで消してしまう計り知れないモノ。人生なんてものはないと気づかせてくれるのです。

だって人生の主人公だと思っている「私」がないのですから、人生もあるはずがありません。「私」というエゴは、現象という表層にいるのです。

時間の流れの中で起きている現象の割れ目の中へと入っていくことができるなら、時間は消えてただすべてが在るだけだと気づくのですね。