エゴが存在に道を譲る

私たちのほとんどは、エゴを持ったまま死んでいきます。誰でもない存在として生まれて、エゴが発生することは悪いことではありません。それは必然なのです。

けれども、そのエゴのまま死に行くことは必然でも当然でもなく、敢えて言えば残念なことなのです。というのも、それは目的を成就せずに生を終えたことになるからです。

それは、例えていえば種のまま土の中で腐ってしまったようなもの。エゴとは個人を守る種のような固い甲羅だと思えばいいのです。

種の固い外殻は、内側を守る上では必要なものですが、その種が土中で腐って自ら消えていくことで、その中から待望の芽が出現するのです。

種の本来の役目はそこで成就するのですが、種のままで終えるなら本来の目的を達成せずにその生を終えてしまうということ。

私たちのエゴは、いずれは私たちの内側深くにある存在へと道を譲らねばならないのですが、エゴの甲羅が固過ぎれば、存在が芽を出せずに終えてしまうことになるのです。

誰もがいつかはエゴを落として、そこから存在がその姿を顕わにすることになるのですが、これまでのところは相変わらずエゴという種のままで、人生という物語に興じているのです。

エゴが存在に道を譲るとき、あらゆる苦悩がエゴと共に消え去り、自分が中心だと思っていたものが宇宙の中心へと移行するのです。それを至福と呼ぶのです。