仏教の中の言葉で、「行為はあるが、行為者はいない」というのがあるらしいのですが、それをブッダ自身が言ったかどうかは怪しい感じがします。
というのも、非二元の立場ではもう少し正確に表現すると、行為者がいないだけでなく、行為も起きてはいないのだと。
たとえば、「見る」という行為があると一般に思われていますが、実はそれは「見えている」の方が近いのです。
そして、もっと正確に言うなら、「色の体験が起きている」の方がしっくりきます。この違いが分かるでしょうか?
色や音という体験(現れ)が勝手に起きているとするなら、そこには見たり聞いたりする主体は必要ないし、見られる対象も聞かれる対象も不要になります。
このことは、注意深く観察しているとおのずと分かるようになってきます。単に主体と対象があるというイメージだったんだなと。
実はこのイメージですら、体験(現れ)の一部なんです。この物質世界はイメージだし、この私というのもイメージだったということです。
双方ともに、五感や身体感覚で発見することができないことは明白ですからね。であるなら、どちらに対しても言及することは無意味だと気づくことができますね。

