分裂はマインドの特性

人間のマインドの最も優れた能力の一つに、自分自身を騙すというものがあります。他人を騙すのに特別な能力は必要ありません。ただ悪意があればいいのですから。

けれども、自分を騙すとなるとそれなりに高等テクニックが必要となるのです。なぜなら、自分自身のことは自分が一番よく知っているはずだからですね。

さて、どのようにして自分を騙すのかというと、マインドの中に分厚いパーティションのようなものを置いて、それぞれの空間同士が連絡を取れないようにするのです。

最も一般的なのは、マインドの表面意識の部分と潜在意識の部分が分厚いパーティションによって、明確に分け隔てられているのです。

そうすることで、都合の悪いものを潜在意識の中に投げ入れてしまえば、表面意識がそれを自覚することができなくなるので、いとも簡単に騙されてしまいます。

そして、もっと奥深くを見れば、潜在意識の中も互いに連絡をとれないような小さな小部屋のようなものに分けられてしまっているのです。

こうして、つまり分裂というテクニックを駆使することで、自分を騙すということを可能にしたのです。分裂していないマインドというものがないくらいに、まさに分裂はマインドの特性そのものと考えてもいいのです。

ではパーティションはどのようにして作り込むのでしょうか?実は、思考というのはそれ自体が分割のプロセスから成り立っているのです。

ひとたび思考を働かせれば、そこには必ず分割が起きてしまうのです。その分割を繰り返していくことで、強烈な分裂を生み出すことができ、それこそが分厚いパーティションの役目をするのです。

分裂を起こしてきた思考が落ちて初めて、全体性という真実が顕われてくるのですね。

意志というものはない

例えば、水が高いところから低いところへと流れて行くとき、水は最短コースをあたかも自らの意志で選んで流れていくように見えます。

勿論、水に独自の意志などというものはないのですが、自然の摂理がそのように流れる通路を自動的に選択しているように見えてしまうのですが、それは選択ではなく、自然の法則だということ。

自然はどんな意志も持ってはいないのですから。あるいは、ギターの弦を弾いて音を出した時、その音程と同じ音を出すように別の弦を指で抑えると、何も触れてないにもかかわらず、その弦も振動して音を出すのです。

ギターに限らず、どんな弦楽器であれ弾いたことのある人なら経験したことがあるはずです。子供の時に、同じことを音叉を使って実験した憶えがあります。

これも、一つの弦が音を出している時、近づけた別の弦があたかも音を選択して、同じ音程であれば自分も音を出すかのように見えますね。

つまりあたかも意志を持って音を選んでいるように見えるのです。勿論これも自然の法則なのです。そして実は私たち人間も、同じ自然の一部として、その自然の法則の中で活動しているのです。

あたかも、独自の意志を持って生きているかのように感じるだけで、あなたの身に起きたことはあなたの意志とは無関係に、エネルギー同士が引き合うという自然の法則の結果なのです。

あなたが生きてきた過程において、溜め込んできた様々な感情や思考のエネルギーが、それと見合った波動を持ったエネルギーを自動的に引き付けるのです。

それは単なる自然の摂理なのです。あなたの人生になにが起ころうと、すべては自然の法則によって、目には見えないあらゆるエネルギーが相互作用を起こしているだけなのですね。

経験者ではなく目撃者になれ

幼いころに、気が付くと出来上がってしまっていた「私」というエゴ。最初は、ほんの少しの思い込みから始まったはずだったのに、数年もするとそれはあたかも真実でもあるかのように確定したものになっていたのです。

なぜただの思い込み程度のものが、真実と感じるほどに成長してしまったのか?信念よりももっと固い思い込みとなるためには、ある理由があったのです。

それは、一度「私」が作られてしまうと、それ以降のあらゆる経験を「私の経験」として記憶していくからです。経験をただ記憶するだけなら、実際には「私」は必要ではないのです。

まだ、「私」のないころの幼い頃の記憶が残っているのはそのためです。私自身、おむつをつけた赤ちゃんの頃の一瞬の記憶があります。

きっと、まだハイハイもできずに寝転がっていただけの時の記憶です。母親がやってきて、何だか自分はケラケラ気分がよくて笑っているのを記憶しているのです。

私たちは、経験する主体が絶対に必要だと思い込んでいるのですが、経験とはそれ自体で完結するものなのです。つまり、経験はただ起きていることであり、それだけで記憶され得るのです。

それなのに、「私」はすべての経験をこの私が経験したこととして、記憶に溜め込んでいくために、「私」が絶対的な存在として強く定着してしまったということですね。

自分のことを経験する主体だと感じているなら、エゴは決してなくならないでしょうね。経験者である代わりに、目撃者であること。

常に目撃し続けるなら、そこにエゴの入る余地はなくなるのですから。

前世は単なる記憶データに過ぎない

自分の前世に興味がある、それがどのようにして現在の人生に影響を与えているのか知りたい。このような目的でセッションにいらっしゃる方は後を絶ちません。

多少ブームのようなものもあるのかもしれませんが、最近では定常的にある程度の割合でいらっしゃるのです。その際、私は必ず今世の幼い頃を飛び越えて見るのはどうしてかと伺います。

なぜなら、人生で何かがうまく行ってないと感じていたり、何等かの苦しみや悩みがあるのなら、前世を見に行くよりも、より身近な今回の人生の初期のあたりを見るに越したことはないからです。

前世とは、あなた自身が実際に経験した人生ではありませんよ、とお伝えするのですが、そう簡単には理解していただけないのです。

人のマインドの奥深くに、前世の記憶が収められているのは事実です。それは、数えきれないセッションでの経験からしても、間違いのないことです。

けれども、それは自分自身の経験したものではなく、単なる記憶なのですね。将来、科学が進歩して人の脳の中に記憶に匹敵するような情報を埋め込む技術が開発されるかもしれませんね。

そうなったら、その記憶を思い出せば、やっぱり同じようにそれを自分がいつか経験したことのように感じるでしょうね。でもそれは、単なる記憶データなのです。

前世の記憶もそれと同じこと。過去に生きて死んでいった方々の記憶を伴った感情や思考の微細なエネルギーが行き場を失って、そのエネルギーに見合ったエネルギーを持った受精卵の中に入るのです。

それこそが輪廻のメカニズムなのですから、何か実体のあるものが肉体を変えながら生き延び続けるわけではありません。そこにあるのは、エネルギーの伝搬なのです。

単なる興味で前世を見て楽しむということでしたら、協力させていただきますが、癒しが必要だと感じているなら、真っ先に幼い頃を再体験するべきですね。

親子の間の連鎖をストップする

幼い子供にとって、自分は親から関心を持ってもらってないと感じることほど、惨めで辛いことはありません。どんな子供でも、親の関心事のナンバーワンのつもりで生まれてくるのですから。

親が自分の子供に関心を持てないとしたら、その理由はたった一つしかありません。その親が子供の頃に、同じようにしてその親から関心を持たれてなかった過去があるということ。

親から関心を持たれなければ、自分の存在価値に気づくことは到底不可能となるのです。そうなれば、常に漠然とした不安を持ちながら生きていくしかないのです。

その不安を安心に変えようとして、強力な自己防衛を続けることになり、結果として心にまったく余裕がなくなってしまうのです。

自己防衛を最優先して、そこにできる限りのエネルギーを費やすことになるので、自分の子供への関心が疎かになってしまうのも致し方ないという以外にありません。

自己防衛の激しい親でも、一見すると子供のことを心配して、いかにも子供に関心があるように見える場合もあるのですが、それでも内実は自分のためなのです。

親自身がそうしたいからそうするだけであって、子供の存在を尊重しているわけではないのです。子供は、そうしたことを敏感に察知してしまうため、やりきれない気持ちになるのです。

子供の方は、できるだけ惨めな気持ちになりたくないので、親が自分にしてくれたことを憶えておいて、だから自分は愛されているのだと無理やり思うようにするのです。

愛されていると思うのですから、そこに愛を感じているはずがありません。愛は思考で理解できるものではないからです。

こうしたことは、親子の間で連鎖を起こして、いわゆる世代間チェーンを発生することになるのです。だれかが、癒しを進めてそうした連鎖をストップさせてくれることを祈るばかりです。

理性と無邪気さのバランスが大事

先日、有名な女優さんの息子が大変な事件を引き起こしましたね。ちょっとキャラが変わった人だというのは、私もテレビのバラエティ番組などを見て知っていました。

日頃から、自分は性欲が強いということを公言していたらしいですね。けれども、そのことが直接事件を引き起こす要因ではないと思います。

健康な若い男性であれば、誰だって性欲が強い年頃なわけで、だからといって、若い男性がみんなこんな性犯罪を引き起こすことはないのですから。

私が知ってる限りでは、テレビのコメンテーターが誰もまともなことを言わないので、感じていることを少し書いてみたいと思います。

被害者の方のことは、ここでは置いておいて、ただ犯罪の裏にある彼の内面について書いてみたいと思います。この事件を引き起こす原動力の一つは、「甘え」なのです。

つまり、彼の中の幼い男の子が、最後は許してくれるお母さんを他の女性に投影することで、その女性からも最後は許してもらえると思っていたのでしょうね。

彼の母親は、幼い彼を置いて仕事に行かねばならなかったため、一緒にいるときにはものすごく受容的だったのだろうと思うのです。

それ自体は決して悪いことではなく、かえって彼の無邪気さがいつまでもなくならない結果を生み出してさえいるといえるのです。

ただし、その無邪気さに大人の理性がうまくブレンドされることで、人はバランスが取れるのです。そこがきっとアンバランスなまま成長してしまったのでしょう。

社会に出て、そこでもまれてこれから成長していく矢先のことだったのだろうと。そして、究極的には、自分を置いて仕事に行ってしまう母親に対する問題行動としてとらえることもできるのです。

事実と幻想は酷似してる

先日このブログで、真実と事実の違いについて書いたのですが、それに関連したことをもう少し突っ込んで書いてみたくなりました。

一般的な認識としては、事実と幻想はまったく正反対だと思われているはずですね。なぜなら、事実とは客観的なものであるし、幻想とか夢というのは個人的な作り物だからです。

けれども、よくよく見てみると分かるのですが、真実と事実が決定的に違うのに対して、事実と幻想とは本質的にはそれほどの違いはないのです。

それは思考について見てみればはっきりするのです。私たちが勘違いしやすいのは、事実というのは思考とは無関係だと思っている点です。

実は客観的事実であろうと、そこには各人の思考が入り込んでいるのです。誰もが思考によって似たような解釈をすることで、事実に客観性が生まれるだけなのです。

だからこそ、厳密に言えば事実の客観性というのは100%確実なものではないのです。一つの事実に対して、他人とは全く異なる解釈をする人がいる可能性は常にあるのですから。

逆にどれほど個人的なものだと思っている幻想であっても、複数の人による同じような幻想が起きることはいくらでもあり得るのです。

つまり、事実と幻想というのは、どちらも思考に基づいているという点では、同じような類のものだといえるのです。そして、思考を超えたところにあるもの、それこそが真実なのですね。

欲望としあわせは裏腹

私たちの誰もが共通して持っているもの、それが欲望です。人は欲望を持っているために、しあわせにはなれないのです。なぜなら、欲望としあわせとは裏腹だからです。

欲望とは、今の自分のままに対して不満を感じているということです。もっとこうなりたい、より優れた誰かになりたいという満たされない思いが欲望を作り出すのです。

だから欲望がありつつしあわせであることは不可能なことなのです。欲望は闘いを生み出し、防衛を生み出し、それらはすべてエゴの餌となるのです。

欲望自体がエゴを生かし続ける原動力でもあるのです。欲望は未来をも生み出すのです。だから欲望は思考でもあるのです。

もしもしあわせを願うのなら、あらゆる欲望を落とすこと以外にありません。今はダメでもいつかは…という未来をも落とすことなのです。

私たちが生きれる場とは、常に今だけだからです。だから今この瞬間に不満があるのなら、決してしあわせと一つになることはできないということです。

欲望がなくなると、戦場だった人生がいきなり穏やかな安らぎの場に変わってしまいます。それは自然と過去と未来に広がる物語から抜け出すことでもあるのです。

今この瞬間に徹底的にくつろぐことができるなら、欲望は姿を消していくはずです。欲望とは、物語の中にしか存続することができないのですね。

善意の押し付け

私たちのマインドの中には、天使の部分と悪魔の部分の両方があるとよく言われますね。どんな善良な人であっても、心のどこかには悪意に満ちた部分が隠されているものです。

どれほどの極悪人であっても、優しい気持ちの部分を持っているのです。もちろん、その両方を持っているのが人間ですし、それを認めることは生きていくうえでの基本です。

ところで、善意と悪意のどちらがいいかと言われれば、当然善意の方がいいに決まっているのですが、ただし善意といえども、それを一方的に押し付けるのであれば、大問題なのです。

悪意を持って人を騙そうとか、相手を陥れようとすることは非常によろしくないことですが、私個人的には善意を押し付ける方がたちが悪いと思うのです。

理由はたった一つ。気付いているかいないか、つまり意識的かどうかという観点からすれば、たとえそれが善意であろうとも、相手の気持ちに無意識であれば悲惨なことになるからです。

善意の押し売り、押し付けをする人というのは、相手の気持ちはほぼ無視なのです。ただ自分の気持ちを最優先して、それが相手にとってはいいことだと思い込むのです。

だからこそたちが悪いし、決して直そうとはしないのです。善意の押し付けは、ある種の自己防衛から発生するのですが、それは内面を自閉することで達成します。

自閉することによって、都合の悪い相手の気持ちが分からなくなるため、罪悪感を感じることなく自分の気持ちを優先することが簡単にできてしまうのです。

親に善意の押し付けを繰り返されて育った子供は、非常に苦しむことになってしまいます。親に悪意がないことが分かっているだけに、悶々としてしまうからです。

そういう親の一つの特徴は、「言わなくても分かるはず」と勝手に思っていることです。だから、平気で相手に相談することもなく、良かれと思って独りよがりに事を進めてしまうのです。

そうやって育てられた子供は、あらゆる方法を使って、気持ちを分かってくれない親に反逆することになるのです。それが問題行動となるのですね。

言っても伝わらないので、仕方なく行動で訴えることになる、それが問題行動なのです。あなたの周りにも善意の押し付けを繰り返す人はきっといるはず。

気付いたら、接し方に気を付けることですね。言っても分からない相手なので、ホドホドに距離をとるか、それを承知でうまく付き合う方法を見つけることです。

所詮はどうでもいいこと

人生において、本質的なこととは、自分の本質に気付くことです。自分のことを本当は何も知らないで生きてきたということに気付くこと。

そこから、自己探求が始まるのです。そしていつかは、自分の本質と出会うことになる。それ以外に大切なことなど一つもないと、胸を張って言えるのです。

そうした理解を深めていくことによって、人生でどんな苦難がやって来ようと、「所詮はどうでもいいこと」として済ますことができるようになるのです。

もしも辛い気持ちになったり、気分が落ち込んでしまったり、否定的な感情にやられてしまったとしても、その度合いは小さなものになるはずです。

そして、落ちている期間も次第に短くなっていき、あっという間に快復することができるようになるのです。身の上に降りかかったことが重大なことだと思えば、深刻になるのは仕方のないこと。

けれども、一時はそうした深刻さがやってきたとしても、「所詮はどうでもいいこと」を思いだすことができるなら、そのときにはあっという間に平常心に戻ることができるのです。

人生のすべては思考が作った産物の連鎖で成り立っているのです。自分の内面深くに横たわっている否定的な自己イメージも作り物なら、「私」という自我も思考によって作ったもの。

それらがあなたの人生を支えていることに気付くなら、自我が喜ぶような人生には何の意味もありません。「私」という作り物と同一視していることを見抜き、自分の本質に気付くなら、私たちはすべてを手に入れたことになるのです。

自分は誰なのか?の問いに対する探究に、全力を捧げる覚悟が必要なのですね。