経験者ではなく目撃者になれ

幼いころに、気が付くと出来上がってしまっていた「私」というエゴ。最初は、ほんの少しの思い込みから始まったはずだったのに、数年もするとそれはあたかも真実でもあるかのように確定したものになっていたのです。

なぜただの思い込み程度のものが、真実と感じるほどに成長してしまったのか?信念よりももっと固い思い込みとなるためには、ある理由があったのです。

それは、一度「私」が作られてしまうと、それ以降のあらゆる経験を「私の経験」として記憶していくからです。経験をただ記憶するだけなら、実際には「私」は必要ではないのです。

まだ、「私」のないころの幼い頃の記憶が残っているのはそのためです。私自身、おむつをつけた赤ちゃんの頃の一瞬の記憶があります。

きっと、まだハイハイもできずに寝転がっていただけの時の記憶です。母親がやってきて、何だか自分はケラケラ気分がよくて笑っているのを記憶しているのです。

私たちは、経験する主体が絶対に必要だと思い込んでいるのですが、経験とはそれ自体で完結するものなのです。つまり、経験はただ起きていることであり、それだけで記憶され得るのです。

それなのに、「私」はすべての経験をこの私が経験したこととして、記憶に溜め込んでいくために、「私」が絶対的な存在として強く定着してしまったということですね。

自分のことを経験する主体だと感じているなら、エゴは決してなくならないでしょうね。経験者である代わりに、目撃者であること。

常に目撃し続けるなら、そこにエゴの入る余地はなくなるのですから。