自分へ意識を向ける

よほどの人間嫌いでもない限りは、気の合う仲間とワイワイやったり、大好きな人との大切なひと時を過ごすことは、人生の中でも最高の喜びの一つに違いないですね。

私たちは、その瞬間のために頑張って仕事をしたり、一生懸命勉強したりするのですから。人は、どんな形であれ自分以外の誰かと繋がりがなければ、殺伐とした心になってしまいます。

けれども、それだけではバランスがとれないことも事実です。人と過ごす時間が大切であるのと同じ程度に、自分独りの時間を過ごすこともとても大切なことなのです。

勿論、引きこもりになれと言っているのではありません。一日のうちの何時間かは、働きかける誰かがいない状態を作ることです。

それは、対象が相手でもそれ以外の何かでも同じことです。たとえばテレビを見ている時間も、自分独りではないということです。なぜなら、自分以外の何かに意識を向けているからです。

要するに、独りになるとは、自分へ意識を向けている時間ということです。とはいうものの、自分の過去や未来に思いを巡らすということでもありません。

たった今、この瞬間の自分にのみ意識を向けるということです。ここで心の反省会を開いてはいけません。それでは、結局過去の自分という対象ができてしまうからです。勿論未来についても同じです。

今この瞬間に順応している自分を見るのです。それは、もう過去を生きて、そして未来に向かっていこうとしている人物としての自分ではなくなるはずです。

今とともにある自分は何者でもなく、姿も形も大きさも位置もなにもなく、純粋な意識としてただただ在るのです。改善すべき何もないことに気づけば、いずれは間接的に、そしてボディブローのように人物としての自分に少しずつ影響することになるはずです。

感情と無防備に向き合う

私たちにとって、怒りや悲しみ、恐怖や罪悪感といったいわゆるネガティブな感情というのは、できることなら感じたくはないものですね。

そのために、幼いころにはっきりとした自覚のないままに、そうした都合の悪い感情を見ないようにしてしまうということが起きるのです。

それは、その本人の繊細過ぎる気質や、生育環境があまり安心できるものではないなどの要因が強ければ強いほど、感情を抑圧する度合いも大きくなってしまいます。

一度感情を抑圧する回路が心の中に出来上がってしまえば、もう意識することなしにほとんど自動的に感情の抑圧が起きるので、本人としてはある意味楽になるのです。

けれども、人生におけるその代償は計り知れないものとなってしまいます。たとえば、悦びや感動といったポジティブな感情さえも、あまり感じることができなくなってしまうのです。

つまり、喜怒哀楽のない平坦な心を持つロボットのような人物になってしまう可能性すらあります。また、抑圧された感情は消えることなくそのすべてが心の奥に蓄積されてしまいます。

そうなると、巷で言うところの引き寄せの法則どおり、溜め込んだ感情のエネルギーに見合った現実を引き寄せてしまうことになるということです。

恐怖がたくさん溜まれば、怖がりながらの生活を余儀なくさせられてしまうし、実際に怖い体験をする可能性も高くなるのです。

怒りをたくさん溜め込んだ人は、その後の人生で理不尽な目に遭ったりしてやはり激怒せざるを得ない経験を呼び寄せてしまうことになります。

こうしたことは、この世界の法則なので努力で何とか克服できるようなものではありません。そこで、単純に自分の心にどんな感情がたまっているのかを見てあげる必要があるのです。それが癒しです。

自分が、どうあるべきかにエネルギーを使う代わりに、今この瞬間自分の心がどうなっているのかに意識を向けるのです。過去を探るのは、過去が大切だからではなく、今どんな感情があるかを見るためです。

徹底的に見ることにより、必要なことが自動的に起きるはずです。感情と無防備に向き合えば、次第に心の奥底に光が差し込み、癒しが自動的にやってくるのです。

真実の直接体験

あなたに光を当てれば、あなたによって光を遮られた場所は影になりますね。子供のころから、自分の影が自分にくっついてくることを知ってもいます。

影のことを誰もが知っていながらも、影は決して実在すると思っている人はいません。それは勿論、存在ではないからです。ではなんと表現すればいいのか?

それが現象ということです。影とは現象の一つなのです。たとえば、あなたの肉体はこの世界の中に実在としてあるのですが、影は単なる現象だというわけです。

それと同様の関係性が、真実とこの世界の間にも成り立つのです。この世界という実在は、本当は真実から見れば影のような単なる現象に過ぎないのです。

真実からみれば、実在するのは真実のみであって、その真実という源泉から現象化して顕われているこの宇宙、この世界、あなたの肉体や思考などのすべてが現象なのです。

この世界は実在ではなく幻想だといういい方がありますが、それの本当の意味はこういうことなのですね。幻想というと、ニュアンス的に強すぎるのですが、影のような現象と言えばもっと近い感じがします。

私たちのこの世界のあらゆる場所に雲隠れしている神は、実は隠れているのではなくて、私たちの思考がそれを隠してしまっているだけなのです。

神という真実、神という本質はいついかなる場所であっても、そこに厳然として在るということは、現象としてグルグル活動している思考から抜ければ、瞬時にそれに気づくことになるのです。

単なる現象に対して、あなたや私がこの世界で生きているという解釈を思考によって作り、その中で暮らしている限りは、神を直接体験することはできません。

思考を脇に置いて神を捉える時、あなたは自分こそが真実の神であるという直接体験をするのです。それは大それたことではなく、ごく普通の当り前の体験に違いありません。

誰もが名俳優

アルパチーノ主役の、「セントオブウーマン」という映画があるのですが、その中で彼は盲目の退役軍人の役柄を好演しています。大好きな映画で、つい最近もまた見てしまいました。

真偽のほどは定かではないのですが、彼はその役作りに没頭するあまりに、実際に目が見えなくなったという噂が立ったほどです。

役者さんは、演技中に自分が演技をしているということを忘れることは、常識で考えればないはずですが、すばらしい役者さんともなれば、ある程度は自分のことも騙すということかもしれません。

だから、その台本の中で本当に泣いたり怒ったり絶望したりもできるわけです。名演技の裏には、必ず自分のことも上手に騙すという能力が隠されているということです。

ところで、そういう役者さんと比べたら、私たち一人ひとりの人間というのは、最高の名演技者だと断言できますね。なぜなら、自分の人生というドラマに本当に没頭しているのですから。

自分を一人の人物であるというように自分を欺き、それを心から信じることで死ぬまで人生を演技し続けているのですから。その逆に、自分の本当の正体、自分の本質に気づいてしまったらどうなるでしょうか?

それは勿論、大根役者になるということです。なぜなら、大根役者は、役になりきれずに周りにいるスタッフや監督にどう見られているのかを気にして演技するわけですから、それと同じになるのです。

私たちが自分の本当の本当の正体、真実に気づいたならば、それ以降は一人の人物として人生を生きるという演技だけに100%集中することができなくなるのです。

自分を欺いている自我に気づいてしまうのですから、自我は真の自己ではないと気づけば、役柄を名演している自分をやさしく見守ることもできるようになりますね。

もうそろそろ目を覚ましましょう。あなたは、この世界であなたの人生を生きている一人の人物ではありません。そういうふりをして、演じているのです。

気づいても、人生という物語は台本通り進んでいくのですが、それでも人生でのスタンスが根本的に変わってしまうはずです。なによりも、深刻ぶっていたそれまでの自分を面白がることができるようになります。

自由か、安心か?

昔懐かしい会社員だったころのことです。米国本社で開発したソフトウェアを、日本の環境で使えるようにする(ローカライズと呼んでいました)作業をしていたことがありました。

相当に賢いと思われる欧米人のエンジニアが書いたプログラムのソースを読んで、そこに必要となる手を加える作業なのですが、その時驚いたことがありました。

それは、一般的にプログラムを書くときには、コメントといってプログラムの中に説明文を書くという習慣があるのですが、ローカライズの作業にとってはそのコメントがとても大切なわけです。

その説明文の中に、次のような内容が書かれてあったのです。「今回、このアルゴリズムを使ったけれど、俺はもっと別の賢い方法も知っているよ。次のバージョンアップの時には、それを披露するからね。」と…。

原文は英語なので今記憶を元に適当に私が訳したのですが、ニュアンスとしてはこんな気楽で何とも自由な書き方がされていたのです。

プログラムのソースコードを見ることができるのは社内のしかもエンジニアだけなのですが、それにしても会社の所有財産となる大切なプログラムに自分の自由な私的な言葉を書くなんてと、びっくりしたわけです。

それにしても、やっぱり自由の国は違うなあと。そして、同じ自由さでもう一つ驚かされたことがありました。米国本社に滞在しているときに、それは起きました。

月曜日の朝職場に出向くと、いつも一緒に仕事をしている連中の数人が荷造りをしているのです。不審に思って聞いてみたら、何とその日の朝一でクビを勧告されたのだと。

日本ではあり得ないことですが、従業員を辞めさせる時にもあの国は別の意味で自由なんだなと驚いたのです。自分が自由でいられるということは、すばらしいことですが、その場合には周りのみんなの自由も尊重する覚悟が必要ということですね。

自由というのは、何かを守ろうとする心、つまり安心を求めていては決して手に入らないものなのです。あなたは、どちらをより強く欲しているでしょうか?自由か、それとも安心か?

今自分がどんな気持ちで生活しているかを見れば、結果は明らかになるはずです。

家庭内確信犯に負けるな

先日、あるバラエティー番組で「セコイ男性」は誰かというテストのようなものをやっていたのですが、俳優さん4人がそのテストを受けて、きっとセコクないと思われていた俳優さんが結構セコイという結果で一同大笑い。

単なるお笑い番組なので、信ぴょう性は高くないとは思うのですが、どういうわけか私も一緒にテストをしてみたところ、全問セコイ男性ではないという好結果でした。

自分ではケチなところもあるし、結構セコイのかなという自覚があったので、意外でした。その一方で、確か同じ番組で数年前にKY度のテストがあったのですが、私もテストしたところかなりの高KY度を誇りました。

ある程度、これは確信犯的なところもあって、このように答えたらKY度が高くなるのだろうと予想できた面もあったのは事実ですし、非常に親しい相手に対してのみの高KY度ということのようでした。

ところで、今「確信犯」という言葉を使いましたが、ご存じの方も多いと思いますが、実はこれは間違った使い方なのですね。本来は、全然違う意味合いがあるのです。

それは辞書によれば、『道徳的、宗教的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪。』 ということです。

たとえば、テロリストが宗教上の正しさを信じて起こす無差別テロのような犯罪などはその典型例でしょう。一般社会の規範とはかけ離れているとしても、本人の心の中で正しいと信じた結果の犯罪なわけです。

犯罪というと、やや極端な感じがしてしまいますが、社会的には見過ごされてしまうようなごくありふれた日常の中にも、こうした確信犯的なことは起きているのです。

母親が子供の留守中に、良かれと思って子供の部屋を無断で片づけてしまうとか、食欲のない家族の健康を心配して、朝からしっかり食べさせるなど…。

確信犯を起こすご本人は、すべて良かれと思ってやっていることなので、罪の意識はまったくありませんが、やられた側はたまったものではありませんね。

みなさんの周りにも、家庭内確信犯が起きてませんか?もしも、遭遇した場合には、毅然とした態度で対処するようにして下さい。それができないと、いずれは心が病んできてしまうことになるからです。

興味を持ってすべてを見る

今年もまた、確定申告の時期がやってきました。毎年、2月も中旬ともなると、慣れない書類作りに悪戦苦闘するのですが、それでも最近はだいぶ要領よくこなせるようになったと思っています。

いつも申告し終わると、もう来年からは大丈夫だと思うのですが、一年経って作業を始めてみると、忘れてしまっていたり、理解していたもののルールが変わったりしていて、また頭を抱えることになるのです。

説明書きを一生懸命読んでも、どうも頭にすっきり入ってこないし、自分の理解力のなさにびっくりしたりするのですが、本当のところは単に興味が持てないということなのですね。

人は、大抵興味を持てないことに対しては、集中力も根気も続かないし、理解力も最低レベルに落ちてしまいます。元々理解力がないというわけではないのです。

逆に興味のあることや、好奇心を持って立ち向かうことについては、疲労が少ないし、時間のたつのを忘れてやり続けることだってできてしまうのです。

好きこそものの上手なれ、という言葉がありますが、上手にできなくても好きなことであれば楽しむことができるのです。それだけでも、心理的な疲労はなくなってしまうでしょうね。

私は長年、何に対しても興味を持つことができないという自覚がありました。いろいろなことに挑戦しても、面白いと感じてもそれが長くは続かなかったのです。

そしてとうとう、興味の対象を探すということを断念してしまいました。それは、本当に楽になりましたね。開き直ったというのか、自分は元々この世界に興味を持っていないということを受け入れたのです。

そうしたら、不思議なことに結果としては自己探求が始まったのです。それは、興味を持つというのとはニュアンスは異なるのですが、それでも何もすることがないというわけでもなくなったのです。

自己探求とは、真理に気づきたいという欲求からやってくるものですが、しばらくの間はそれで毎日を過ごすことができました。今は、ひとまず自己探求も終わったように感じています。

その結果、なんでもよくなったというのか、あらゆることに興味がないという状態でいるのと同時に、すべてを興味深く見ている自分がいるということに気づかされたのです。

前者は自我としての自分であり、後者は本質としての自己なのです。

思考に注意を向ける

以前、ある人からヒーリングを習っているときに、質問ばかりする私のことを、その先生はアナライザーだと表現しました。つまり、すぐに分析を始めてしまうということを言いたかったのでしょう。

分析というのは、当然思考の中で行うものですから、ヒーリングを教えている側からすれば、私のような質問野郎はちょっと手におえない劣等生という感じだったのかもしれません。

他の多くの生徒さんたちは、先生の言う通りに、きっと疑問を持つこともなく素直に言われたことを実践することができたのでしょうね。私はそういうタイプではなかったのです。

アナライザーだと言われたときに、思考を使って考えるという行為を否定されたような気がしました。けれども、私は今でも思考を否定するつもりはありません。

思考を目の敵にしても、邪魔もの扱いしても仕方のないことだと思うからです。そればかりか、思考によって物事を論理的に捉えることは、とてもすばらしいことだと思うのです。

思考を否定することは、緊張を否定するのと同じです。適度な緊張は、シャキッと身を引き締めてくれるし、アドレナリンも出て普段よりも能力がアップするかもしれません。

問題は、緊張したくないと思ったときに自由に緊張をほどくことができるかどうかということです。緊張と弛緩のバランスが取れていればいいわけです。

思考も同じです。思考を緩めてただ今に佇むことができるなら、何も問題はありません。逆に、思考を使いたいときには存分に思考を使う、そうしたメリハリが大切なのです。

気がつくと、おきまりの考えが頭の中をグルグルしてしまうのは、思考に翻弄されてしまっているということです。思考を味方にするには、思考を止めようと頑張らないことです。

昨日の言葉を思い出して下さい。物事をこうあるべきとしてエネルギーを使うのではなくて、今どうなっているかに注意を向けるのです。

あなたの中にある思考に注意を向ければ、思考は自動的に緩むのです。

注意を向けること

私はこれまでに、約7000回のセッションをやってきました。それらのどのセッションを取ってみても、一つとして同じセッションはありませんでした。

なぜなら、他の誰かと同じ人生を送ってきたクライアントさんが一人もいらっしゃらなかったからです。だから、セッションの内容も、一回一回がその瞬間の成り行きで決まるのです。

きっとこのようになるだろうと予想したところで、セッションがその通りになることは絶対にないと言えます。あくまでも、セッションはその時の流れによって動かされていくのですから。

けれども、私が伝えたいこと、それは勿論自分自身に対してもいつも言い続けていることなのですが、それはそれほど多くはありません。

本当に大切なことは、実はいつもシンプルなのです。それは、「自分や物事を改善しようとする代わりに、今それがどうなっているのかに注意を払う」ということです。

もしも本当に、このシンプルなことが常に実践できるのなら、あなたは神を友達につけることができるでしょうね。それこそが、神と戦わない唯一の方法だからです。

今に注意を向けていることができるなら、あなたは思考と純粋な意識の違いが明確になるはずです。あなたという人物がどうであれ、それが思考の内容物であると気づくはず。

思考はその内容がどんなものであれ、意識の上で飛んだり跳ねたりしているものに過ぎません。それは時間と空間を作りだし、この世界を形作ったのです。

それは、あなたのふりをするでしょうけれど、あなたの本質ではありません。純粋に注意をしていることは、本当のあなたをニセモノのあなたである思考から解放してくれます。

人生という物語を上手に駆け抜けようとしているあなたは、思考の中にいる一方で、本当のあなたはどこにもいないのです。なぜなら、あなたの中にこの宇宙があるのですから。

二種類の気づき

巷でよく言われる「気づき」というのには、大きく分けて二種類のものがあるように感じています。一つ目は、あなたが自分は一人の人物であるということに気づいている、といった場合のものです。

この場合の気づきとは、認識しているということであって、それまで認識できてなかったことに新たに気づくなどという使われ方もしますね。

癒しとは、こうした気づきの連続であるとも言えるのです。なぜなら、私たちは自分に都合の悪いことは見ないようにして自己防衛しているのですが、癒しを進めてそれまで見ていなかったものを真っ直ぐに見るようになれば、そこに気づくという現象が起きてくるからです。

そして、二つ目の「気づき」とは、上記の気づきとは全く異なるものです。それは、一般的な認識、つまり主体が客体を認識するものではないのです。

この場合の「気づいている」というのは、何とも摩訶不思議なことです。なぜなら、「○○が気づいている」という主体があるわけでもなく、また「△△に気づいている」という対象もないのですから。

つまり、「○○が△△に気づいている」ということではないということです。それは、ただの気づきだからです。敢えて言えば、「気づきそのものがそれ自体に気づいている」ということ。

それは、「ただ在る」という直接体験なのです。どうやったら、直接体験ができるのかという質問ほど、意味をなしてないものはありません。

直接体験はいつどんな時であっても、それをなくすことなどできないからです。「知る」ということの本当の意味も、この直接体験を指すのです。

この宇宙を生み出しているもの、それは気づきなのです。二種類の「気づき」の違いは決定的ですね。前者は思考による認識ベースであり、後者は純粋な意識そのもののことだからです。

あなたの中にある気づきも、この二種類が同居しているのです。