他人から見られる恐怖

私たちの苦しみの原点とは、ここに自分がいるという思いです。ここに、他人から見られる対象としての自分がいるという認識が、自分を苦しめるのです。

見てもらえるということは、構ってもらえる、あるいは愛してもらえるというすばらしい利点もある反面、評価されて否定されてしまうという大変な欠点もあるのです。

中学生ともなると、いわゆる思春期を迎えるわけですが、そうなると単なる他人の眼が気になるだけではなくて、そこに異性からの眼というものが加わることになるのです。

その時に、見られる悦びと見られる恐怖の両極端を同時に自覚するようにもなるのです。私は、中学生のある期間だけですが、一度髪をスポーツ刈りにしたことがありました。

なぜそうしたのかは覚えていないのですが、とにかくその期間は非常に楽だったことだけは確かなのです。きっと、ヘアスタイルを気にする必要がなくなったからなのでしょうね。

異性の眼を気にして、毎朝少しでも寝癖などがついていたら、気にして整えなければならないのに、スポーツ刈りにしたおかげで、ヘアスタイルがどうでもよくなったのです。

見られる(評価される)対象としての恐怖が、幾分緩和されたということなのでしょうね。スポーツ刈りの頭をどういじくったところで、どうなるわけでもないからです。

また、大学生の時には、濃い色のサングラスをかけて電車に乗ると、非常に気持ちが楽だったことを覚えています。自分の目を他人に見られずに済むからです。

目というのは、その人の心の中身を映し出すものだからですね。自分が内心で、他人の眼を怖がっているということを知られずに済むような気がしたということです。

話しを初めに戻すと、他人から見られて評価される恐怖というのは、ここに自分という人物がいるとの思い込みからやってくるものです。

ということは、自分の本質に気づいて、その全体性を感じているときには、評価される恐怖はなくなってしまうはずですね。もちろん、そこには恐怖などあるはずもありません。

けれども、同時に人物としての自分の恐怖とも密着していることを忘れてはなりません。私たちの本質とは、そういうものです。恐怖が消えるのではなくて、恐怖の渦中にある自分を丸ごと抱きしめているのです。