二種類の欲望

人間である限り、何らかの欲望を持っています。欲望というと、何となくあまりいいニュアンスを感じないかもしれませんが、欲望がなければ人としては成り立たないのも事実です。

欲望と一口に言っても、大きく二種類に分類することができると思っています。一つ目は、必要なものを手に入れようとする欲望です。

何かが自分には足らないので、その不足を補うために外側から取得しようとする欲望です。これが一般的に言われる欲望ですね。

例えば、もっといい給料をもらいたい、パートナーが欲しい、マイホームを建てたい、クルマを買いたい、いい服、いい靴、いい家電製品が欲しいなど。

手に入れたいという欲望は、それが実現したときにはとても嬉しいものですが、しばらくするとまた他のものが欲しくなるため、際限がありません。

手に入れたいという欲望の中でも少し上記と違うのは、例えば病気がちの人にとっては健康になりたいという欲望がありますね。

それは自分自身を向上させたいという欲望です。もっと能力を身に着けたい、知識を沢山身に付けたい、いい学校に入りたいなど、自分自身を磨こうとする欲望です。

こうした欲望も、広い意味では手に入れようとする欲望の一種だと言うことが分かります。このような欲望は、人の心を疲弊させることになる可能性が高いのです。

なぜなら、それは結末というものがなく、永遠と続いてしまうものだからです。そしてそのために、いつも足りない、このままではまだ駄目だという思いを抱き続けることになってしまいます。

それに対して、もう一つの種類の欲望とは、手に入れたい欲望とは真逆で、不要なものを自分から取り去っていこうとする欲望です。

いらなくなったものを捨てて、整理整頓したくなるときがあると思うのですが、あの欲望がまさにそれに当たると言えます。

そして、その欲望は物だけではなくて、自分自身の心に積んでしまった不要なものについても、できるだけ捨て去ろうとするのです。

この欲望は、心を疲弊させることはありません。なぜなら、それを続ければ続けるほど心が軽くなって、生き易くなっていくからです。

そして最終的には、この人生で手に入れたあらゆるものを手放すことができたときには、本当の自分に出会うことになるはずです。

すべてをそぎ落として、そこに残るものこそ、本当の自己であるからです。どちらの欲望を優先して生きるのか、よく考えてみる必要がありそうですね。

「それ」に気づく

心を静かにして、しばし自分を見つめていると、「それ」が在ることに気づいてくる。「それ」は、とてもとても大きな存在であり、敢えてイメージすれば静寂のなかで座禅をしている感じ。

しかし、もっと正確に表現すれば「それ」自体が静寂そのものだとも言える。その大いなる静寂というバックグラウンドに支えられて、自分はあらゆる音を聞くことが出来る。

私の声、外の騒音、鳥のさえずり声も、すべてはその静寂のなかで起きることだと分かる。「それ」のイメージは完全な透明性とも言える。

透明で形も大きさも何もない。だからこそ、自分は形や色によって出来ているこの世界を見ることができるのだ。

大きさのあるこの世界や自分を感じられるのは、「それ」が無限の大きさでこの自分や宇宙を支えているからだと分かる。

時間があらゆる物事を起こし、空間があらゆる物質を存在させるが、そのどちらもが、「それ」によって支えられていることを感じる。「それ」は時間や空間をも包んでいるから。

生まれてからずっと一緒にいてくれたもの、「それ」はもう一つの表現として、「今」という言葉で表すこともできる。

だから、「今」は静寂であり、透明で無限の「それ」と同義語だ。いつも「今」だけが自分を支えてくれている。過去と未来は一度たりとも自分と一緒だったことはない。

心が思考や感情に支配されて、過去や未来へと漂っているときでさえ、その自分を支えているのは「今」に違いない。

「それ」は誰もが感じることができるもの。もしも、分からないなら、もう少し心を静かにして、ずっと自分に寄り添ってくれている「それ」を感じるようにすればいい。

そして、「それ」こそが本当の本当の自分そのものだということに気づけばいい。 「それ」は、あなたのものでもあり、あなた自身でもあるのだから。

苦悩と向き合う

人は何かに夢中になって取り組んでいると、時間を忘れるということは誰もが経験していることですが、それだけでなくて苦しみさえもある程度忘れることができるのです。

子供の頃に風邪をひいて高熱を出して唸っているときに、ディズニーの番組を見ているときだけ、その苦しみからすっかり開放されていたことを思い出します。

ソフトウェアエンジニアだった若い頃、頭が重かったりして具合が悪いとき、プログラムの開発に没頭しているときには、その具合の悪さを感じないで済むという経験を何度もしました。

勿論限度はあるのですが、ただ何もしないでいるときの方が、痛みや苦しみは大きくなるということを誰もが経験しています。

何か心の痛手を受けて、それが辛いので仕事を多忙にして打ち込むことで、それを感じないようにしている人を何度も目撃したことがあります。

なぜそうしたことが起きるのかというと、何かに熱中している間というのは、自分のことを忘れることができるからです。

痛みを感じる主人公である自分が不在になることができるので、その痛みを感じなくなってしまうということなのだと思います。

ところが、残念なことにこうしたことは一過性のものであって、朝から晩までいつまでも何かに没頭し続けることは不可能です。

したがって、我に帰ったときにはその苦悩がちゃんと待っていてくれるのです。その苦しみと向き合うことをしなければ、いつまでもそれが追いかけてくるのです。

だからセラピストは、何かに熱中するだけではなくて、冷静になったときにこそ、その苦悩としっかり向き合って下さいと言うのです。

苦しみは向き合って受けいれることができれば、それまでとは種類の違う苦しみに変わります。それは、もう逃げる必要のないものになってくれます。

時間をかけて、繰り返し何度も苦しみを抱きしめてあげることです。いつかは、取り扱いができるレベルにまで沈静化してくれるはずです。

「ただ在る」は難しい

近頃めっきり気温が下がってきて、お風呂はシャワーだけではなくて、ゆっくりと湯船に浸かるのが気持ちいい季節になりましたね。

私は実を言うと、のんびりとお湯に浸かっているのがそれほど得意ではないので、大抵は15分くらいでお風呂から上がってしまいます。

昨日の朝お風呂に入ったときに、そうだ15分くらいの時間だったら、お風呂から出るまでの間だけでも、お風呂に入っているということ以外に意識を飛ばさないでいようと思ったのです。

そしていつも自分の内側で唱えている言葉などを繰り返していたのですが、気が付くとあっという間に全く違うことに意識が向いていました。

気持ちを入れ替えて、もう一度自分にチャンスを与えてあげようと始めたのですが、やはりお風呂から出る直前に、過去だか未来のことに意識が向いてしまっていました。

自分では思考しているという感覚はなかったのですが、とにかくぼんやりと、何かを思い浮かべていたりすることに気づいてしまいました。

本当に意識を今ここに向け続けることは難しいということですね。髪を洗っているときには、そのことに意識を集中することができたのに…。

一日中こんなことを試していると、どういうときが一番今にいられるか、また逆に何をしているときには、すぐに意識が飛ばされるか、よく分かります。

以外なことにテレビを観たり、音楽を聴いたりするときは、今にいることが比較的できるのです。それはきっと行動が受動的だからでしょうね。

逆に、本を読んだり、ネットの情報を見たりしていると、あっという間に意識がどこかへ行ってしまいます。これはとても難しいです。

それと、講座やセッションで一生懸命何かをお伝えしているときも、その言葉に意識が向かっているために、「ただここに在る」という感覚を忘れてしまうようです。

お風呂ののんびりタイムでもなかなかうまくできないというのは、ちょっとショックでしたね。明日の朝もまたチャレンジしてみようと思っています。

心の玉突き連鎖を止める

私たちの心の中には、誰でもが自分に対する否定感を持っています。その反対の自己肯定感も充分にあれば、バランスが取れるのですが、残念にもそれが足りないと自己否定感ばかりが目立ってしまいます。

そうなると、その否定感を何とか払拭しようと頑張る意識が成長することになるのです。それは、いつも駄目な自分を見ているために、不安と隣り合わせであるのです。

その不安を感じることがあれば、必ず「どうしたらいいの?」という気持ちが沸き起こってきます。この「どうしたらいいの?」を受けて、必ずその次には、「何とかしなきゃ!」がやってきます。

「何とかしなきゃ!」はのんびり解決を待つような悠長な気持ちではないために、その次には、自分を駆り立てて何らかの思考あるいは言動を起こそうとします。

それが、自分をとり散らかった意識状態にしてしまうということです。一度その状態にはまり込んでしまうと、なかなか冷静さを回復することもできなくなってしまうはずです。

「自己否定感」→「どうしたらいいの?」→「何とかしなきゃ!」→行動へと駆り立てられる、こうした心の中での一連の関連は、ちょうど玉突きの玉のように瞬時に伝播します。

そして、何とかやりくりができたとして、冷静に戻ることができた、つまり我に帰ることができたとしても、またあっという間にこの心の連鎖がやってくるのです。

つまり、人生はこの連鎖の繰り返しをただ続けることになるのです。それは、本当に無駄なエネルギーを費やして、その結果は何も残らないということになるのです。

穏やかな心の状態で生活するためにも、この連鎖を是非とも断ち切る必要があります。そのためには、「何とかしなきゃ!」が来たときに、その声を真正面から受け止めることです。

困ったなと思って背中を向けていれば、かならず乗っ取られて、我を忘れて行動することになってしまいます。

「何とかしなきゃ!」をいつもこちらから探して、その気持ちをただただ、引き受けてあげるのです。それ以外には何もしないことです。

そうすれば、かならずこの連鎖から抜け出ることができるのです。いつもどんなときにも、その声の方向を見て、それをしっかり抱きしめてあげてください。練習あるのみです。

季節の変わり目

ここのところ、急に秋風が吹くようになってきましたね。ずっと暑かったり、台風で荒れていたりと、なかなか散々な天気が続いていましたが、ようやく虫の音が聞こえるような気温になりました。

毎年、この頃になると、暑さから開放されて皮膚感覚的には、とても清々しい感じがして、外出するのも楽になるなと思う反面、どうも具合が悪くなるのです。

どこがどう具合が悪いのかと言うのを、うまく説明するのが難しいのですが、とにかくどこかが疲労している感じがしたり、目の奥が変に痛かったりと。

今年はそれがやってこなくていい塩梅だなと思っていた矢先、それは今朝しっかりとやって来ました。それでも、例年ほどではないのですが、でもしっかり来ましたね。

身体がとてもだるかったり、お腹の具合が悪かったり、首から上のどこかが妙に重い感じがしたりと、いろいろな症状を出してくれます。

勿論すべて自分で起こしているんだなということは、分かっているのですが、きちんと正確に毎年やってくるので、その律儀さに笑ってしまいます。

しかし、最近ではその気分の悪さをそのままにしながら、そこから完全に離れている自分に意識を向けることもできるようになりました。

そこは、身体の具合悪さとは無縁の場所なのです。無縁とはいえ、すべてを受け止めてもいるのですが、いやな感覚の中に丸ごと入ることはないのです。

その違いをうまく説明することができないのですが、苦しみを彼方から受容しているというような感覚に似ているかもしれません。

人物としての自分は、身体が具合悪いのはとても嫌いなのですが、彼方から見ている本当の自分は好き嫌いを超えて受け止めているのかもしれません。

でもいつになったら、季節の変わり目になっても、図太く逞しく、まったく影響しない自分になれるのか、いやそれは無理なのかもしれませんが、それも受容してあげたいと思います。

過去への不満と未来への期待

人物としての自分は、間違いなく過去にしっかりと根ざして生きています。過去のさまざまな体験などを寄せ集めて、自分という人物像を作ったのですから。

この自分とは、まさしく過去から出来上がっているということです。そして、その過去が輝かしいもので埋め尽くされていれば、深い満足感を持つこともできるのかもしれません。

ところが、ほとんどの人は過去に多くの不満を持って生きてきたのです。幼い頃に言いたいことが伝えられなくて、親に誤解されてしまった悔しさ。

伝えることはできたのだけど、自分の気持ちを受け止めてはもらえなかった苦しみ。そのほかにも、沢山の満たされない感が過去には溢れています。

それを土台として今の自分がいるわけです。したがって、その不満をどのようにして解消するべきか、私たちは日夜考えているのです。

そして、もしもその不満が今日解消されていなければ、それは未来にこそ解消するチャンスがあると思うわけです。

それが未来に対する期待となるのです。ですが、どうして過去の不満を未来に解消することができるというのでしょうか?

過去はもう二度と戻って来ないという事を知っているはずなのに。それでも私たちは何とかして、過去の満たされていない気持ちを未来に何とかできると思いたいのです。

そうやって、不可能なことに自分の人生を賭けてしまうのです。これはとても不毛なことだと気づかなければなりません。

本当は過去も未来も、自分を満ち足りた気持ちにさせることはできません。どちらでもない、大切な今に意識を向け続けることです。

それを抜きにして、他に心の平安を見出す場所はないということを明確に認めることです。今は過去と未来の間にあるのではありません。それは、永遠を意味するからです。

親の不安感が子供をコントロールする

誰でも心の中に少なからず不安を持っているものです。その不安というのは、すべてが幼い子供の頃に出来上がってしまったものです。

その不安感はよほどのことでもない限り、大人になるまでずっと心の中に燻ったままになってしまいます。そして、不安な心は、安心を強く求めるのです。

そうした心を持ったまま結婚して子供の親になると、親自身の不安を安心に変えるために子供を利用しようとしてしまいます。

勿論親自身がそのことに気づいているわけではありませんが、何とかして自分の不安感を解消しようと子供にその役を背負わせてしまいます。

具体的には、子供を親の言いなりにさせようとするということです。親にとって、気に入らないことをさせないように、子供をコントロールしようとします。

そのためには、親は子供の心の恐怖心や罪悪感をとことん利用するのです。子供が否定的なことを言おうものなら、悲しそうな顔をしてみたり。

残念そうに、あなたのために言っているのだから、といったニュアンスで子供を責めることもするかもしれません。

子供にとって一番苦しいのは、見捨てられる恐怖を味わうことです。親はそれを使うことで、子供を自由に操ることができるのです。

そして、悲しげな親の様子ほど、子供の心を罪悪感で埋め尽くすものはありません。そうなると、恐怖と罪悪感に勝てる子供など一人もいないのです。

子供は、しぶしぶ親の言いなりになってしまうのです。そのように育ってしまった人は、大人になっても自己表現などまったくできなくなってしまいます。

代わりに、自分への駄目出しが心を満たし、その結果駄目ではない自分を作ろうとして頑張り、その分だけ自己犠牲の餌食になってしまうのです。

そうなると、何のための人生なのか、まったく分からなくなってしまうはずです。親の不安感が子供の人生を台無しにするという現実を、しっかり見る必要があると思います。

心当たりのある人は、幼い頃に作ってしまった、しつこい罪悪感、あるいは自己否定感を、まったく不当なものとして手放すように務めることです。

情熱を持って向き合う

人はただ生きているというのでは、心がまったく満たされることはありませんね。そのために、何か目標を作って、それを目指して活動するのです。

日々の生活の中にも、食事をする、仕事をする、移動する、人と会うなど、いろいろなことが計画されていて、それをこなしながら生きているのです。

日々の小さな目標から、近未来の少し大きな目標、そして人生レベルの大きな目標まで、さまざまな目標を掲げて生きている人が多いです。

そして、どんな目標でもいいのですが、そのことに対して、その人がどれだけの情熱を傾けることができるかによって、心の満足度というものが違ってくるわけです。

情熱を持って何かに向き合っていると、瑣末なものが気にならなくなるということも体験として分かっていると思います。

私の場合には、長い人生の中で最近になるまで、情熱を持って立ち向かうべき何ものも見つけることができませんでした。これは、本当に正直に言っています。

それがようやく、この2~3年でこれというものが見つかり、そして今年に入ってよりそれが明確になったと思います。

更に、この一ヶ月くらいの間にもまた、益々はっきりしてきたように感じています。それも真剣に、つまり自分としては本当に珍しく情熱を持って、そのことに当たろうと思うようになったのです。

具体的には、「注意する」ということなのですが、どこに注意を向けるかと言うと、今のところ三つくらいを挙げることができそうです。

一つは、自分のあらゆる言動に対して。二つ目は、自分の中心の深みに対して、そして三つ目は、「私は在る」という感覚に対してです。

これらは、ある意味関連があるのですが、どれも思考にはまらないようにするという点では、まったく同じ効果があるようです。

注意することを怠らないようにするために、いろいろ工夫をしています。うまく実践できると、自分のマインドが静かになることが実感として分かり、とてもいい具合です。

いつもと違う脳を使う

今日、久しぶりにパソコン上でプログラムを組むということをやりました。HP上にあるカレンダーを作ってから、もう何年もやったことがなかったのです。

だからかもしれませんが、もう普段使っている脳とは、全く違う脳の部分を使うようで、しんどかったです。予想はしていたのですが、あまりにひどいのでびっくりしました。

目的は、ある一定の時間が経過したら何らかの音で知らせるという、単純なプログラムなのですが、それがなかなかできなくて困りました。

そして、一番びっくりしたのは、そういう作業をしているときというのは、人物としての自分に丸ごと飲み込まれてしまうということです。

その作業をやっている自分を見つめる自分が不在になってしまうということです。これが、この世界に飲み込まれていく一つのパターンなのだなと分かりました。

実は、そのプログラムを使って、常に人物としての自分を見てあげる自分に戻るということが目的だったのですが、見事にその反対を強いられてしまったということです。

ただ、未完成ながら必要な機能を果たすものが動作するようにはなったので、これからはパソコンに向かっているときには、随時そのことを思い起こすことができるようになりました。

これは、先日このブログで書いた、インターバルタイマー付き腕時計の代わりになるものです。実は、その時計のバイブ機能を3分おきに作動させていたために、バッテリーがものの一週間でなくなりかけてしまったのです。

それで、独りで部屋にいるときには、パソコンでその時計の代わりをさせようと思ったのが、このプログラムによる巻き込まれ現象を起こしたということでした。

今これを書きながらも、自分を監視する自分に戻ることができるようになりました。もう少し、そのプログラムをブラッシュアップしようと思っています。