夢の話

夕べは久々に相当いやな夢を見ました。いやな夢というのは、大抵がサラリーマンをしているときの仕事関係のものなのですが、昨日のはその集大成のようなものでした。

自分がひどく無能で、本当のところ何も分からずに、分かったふりをして体裁だけで仕事をしているのですが、もうそれも限界でバレる寸前という感じで。

自分よりも若い人たちが真剣に仕事をしているのに、自分はやることがなくて、困っているという夢で、もう駄目だと言うときがやってきました。

ここまでは最悪の夢なのですが、その後がびっくりの展開でした。限界を感じたときに、それまでとは違って、何かそれでも自分は救われるという感覚がふいにやってきたのです。

そうしたら、夢の中で実は今セラピストとして仕事をしてたんだということに気づいたのです。いつもなら、ここで目が覚めそうなものなのですが、やっぱり夢の中でした。

でも、心の底から安心している自分がいたのです。最悪の夢から目覚めることができて、本当によかったと夢の中で思っているのです。

そのうちに、次第にゆっくりと実際に目が覚めて、あの救われる感覚を繰り返し思い返していました。あれと同じものが、この人生においてもやってきてくれたらいいのにと、思わずにはいられません。

自分は今決して不幸ではないのですが、生きている間にこの人生から目覚めることができたらと思っています。

そしてそれはありえないことではない気がします。外側からみたら、ごく普通に暮らし続けているように見えるはずですが、内面は全く違ってしまうと感じます。

生きている間に人物として死ぬことができたら、本当の本当の純粋な意識としての自分として「在る」ところに戻れるはずだと思っています。

新たに発見した自分

人生には転機というものがありますね。私の場合は、11年前にサラリーマンを辞めて今のセラピストの仕事をするようになったことが大きな転機となりました。

それはそれは、毎日の生活や精神状態などが劇的に変化してしまいました。きっと、それまでに漠然と願っていたことが、ほとんど叶ってしまったのです。

それも計画的に少しずつ進めていったわけでもなくて、ただ単にそういう流れがドッと押し寄せてきて、それに対していっさい抵抗しなかっただけです。

確かにそれは自分にとって、とても大きな変化をもたらしました。そのことは、全く疑いようもないことでしたね。

組織の中で働く代わりに、個人で自由に仕事ができるようになったこと。そして、あくせく働いていたものが、ゆっくりとプライベートな時間を過ごせるようにもなりました。

でも本当に心の奥を見れば、何も変わってはいないとも言えたのです。日々クライアントさんの心と向き合うことで、自分の深い部分とも対面することになりました。

そうやって、多くの癒しを経験できたと思っているのですが、やはり根本的には変わってはいないなと言うのが正直なところです。

そうやって、なんだかなあと思っているときに、3年前の「奇跡のコース」という本との出会いを契機に、単なるセラピストとしての見方をはるかに超える、多くの気づきを得たのです。

人生に対する見方がとても大きく揺さぶられることになりました。クライアントさんとのセッションや新たに始めた講座、あるいはセミナーを通して、それまで以上にコースの教えを伝えることができました。

しかし、人間てなかなかしぶといですね。やっぱり、自分の根幹は変わってはいないと感じていました。それが今でも続いています。

ところが最近ようやく、もう後戻りできないというくらいの意識の変化がやってきたように思っています。まだまだその入り口あたりにいるのですが、今回のものはホンモノかもしれません。

なぜそんなことが言えるのかというと、今までは人物としての自分がこの世界で人生を送っているというところでは、全く同じだったのですが、それとは違う自分を発見できたからです。

この新たに発見できた自分というのは、本当はずっと以前から変わらずに在り続けたものだったのですが、そのことにただ気づかなかっただけだったのです。

そして、それはどんな人にも同じことが言えるのですが、それを伝えるのはとても難しいのです。今後は、セラピストの仕事を続けながら、そのことを伝えていけたらいいなと思っています。

マインドからの開放

人は何もしないではいられません。どれほどの怠け者であっても、とんでもない面倒臭がりやであろうと、ずっと何もしないでいるということは、まずできません。

それは、マインドが動いているからです。マインドは、片時もじっとしていることができずに、常に何かを思考したりして、せわしなく働いているのです。

なぜなら、それがマインドの根本的な性質だからです。マインドは本当にその動きを止めてしまうと、時空から開放されてしまうかもしれません。

それはマインドにとって、とても危険な状態となってしまいます。この世界にいられなくなってしまうことになるからです。

マインドはただ動いているだけではなくて、何かを達成しようとしたり、成果を出そうとして頑張らせようともします。

だからこそ、私たちは絶えず何かを計画して、今よりももっといい自分になろうとしたり、もっと豊かな生活を目指して頑張ろうとするのです。

しかし、私たちが何をしようとするにしても、マインドの命令に従っている限りは、本当の平安を手に入れることはできません。

本当の平安とは、マインドの動きから開放されることを意味するからです。これが、マインドのジレンマなのです。

何もしないでいることはできないし、逆に何かを目指して頑張ってもマインドの虜であることには変わりないということです。

それでもたった一つだけ、マインドの働きを利用しつつマインドから抜け出る方法があります。それは、自分は決してマインドではないという感覚を繰り返して感じるように務めるのです。

それが、「自分は在る」の感覚です。自分は○○であるとか、自分の○○、というような感覚を使わずに、ただ自分は在る、だけを意識するようにするということです。

それができると、自然とマインドの動きから離れていくような、とても心地のいい状態になることができます。繰り返して練習することが必要ですね。

身体は犠牲になる

私たちは生まれたときからずっと、自分の身体と一緒に暮らしています。自分の身体の好みの問題は人によってあるかもしれませんが、基本的には大切な自分の一部ですね。

しかし、身体のことを目的化するとおかしなことになってしまいます。例えば、身体を健康に保つことはいいことですが、それを人生の目的にするとなると話しは違ってきます。

あくまでも、身体は手段です。人生の目的を果たすための手段だと明確にしておかねばなりません。手段が目的となると、誤った生き方をするはめになってしまいます。

それは本末転倒であって、自分という大切な存在が身体に支配されることになってしまいます。こんなことは、分かっていると思うかもしれませんが、意外にも身体優先の人生を生きている場合が多いのです。

私自身もそういう面があると白状しなければなりません。それは、たとえば出かける目的があったとしても、雨が降ったり湿度が高くてジメジメしていると、身体が不快になって外出が億劫になったりします。

本来の目的のために、身体は移動するための手段であるはずなのに、身体の快適さを求めていることで、こんな間違った感覚になってしまうのです。

目的を実行するための手段としての身体は、確かに上手に協力してもらうためにも、そこそこのメンテナンスをしておく必要はあると思います。

でも、やっぱりそのことが第一優先事項になってしまうと、自分の人生を身体のために犠牲にさせることにもなりかねません。

愛を与えることを続けようとすれば、それは心はとても満たされた状態になるものの、場合によっては身体が犠牲になってしまうこともあるのです。

身体とはそういうものであるときに、最も活躍するのです。それが本来の身体の役目でもあるからですね。なるべくツールとしての身体とうまく付き合っていきたいものです。

意識としての自分を忘れる

本当の自分の方になるべく意識を向けるようにしていると、なぜかあまりいろいろなことが気にならなくなっていることに気づかされます。

例えば、ごく普通に部屋の中で過ごしていて何だか暑いなあと感じて、すぐにクーラーの電源を入れるのですが、そうしたことが急激に減ってくるのです。

どこかで蒸し暑さを感じていることは分かるのですが、そのことに意識が向いてないおかげで自分にとって大きなことにはならなくなるのですね。

だから、身体にじわっと汗が出だすまで放っておくことができます。それが案外気持ちいいことでもあると発見しました。それは、細かなことに拘らない自分になれた気がするからです。

普段の自分は神経が過敏なところがあって、そういう自分はあまり好ましくないと感じているし、生活していて面倒くさい面も多々あるのです。

とにかく細かいことに拘らないのは、とてもいいことですね。そういうこともあって、なるべくは純粋な意識としての自分のままでいようと務めるのですが、それが意外にも難しいのです。

昨日久しぶりに家族と回転寿司店に食事に行ったのですが、その時などはもうほとんど本当の自分のことなど忘れてしまっていました。

途中何度となく思い出すのですが、それでもすぐに目の前に繰り広げられていることに自分が乗っ取られてしまうのです。

その理由は何なのかは、まだあまりよく分かってはいません。とりあえず今のところは、できるだけ独りで過ごしている時だけは、なるべく本当の自分に戻れるようにとやっています。

スーパーに買い物に行ったときにも、人物としての自分がでしゃばって活躍を始めてしまいます。そうなると、なかなか元に戻すことができなくなってしまいます。

こんなことを意識しながら、毎日を送っていると、どれだけ自分は人生に翻弄されまくっているのか、本当に良く分かります。

それが分かっただけでも、大切な気づきを得ることができたなと自分を励ましています。

自己否定感 その2

誰でも心の底に、理由なき自己否定感というものを持っています。それは、自分とはこうだから、ああだから駄目なのだといった明確な理由のない否定感です。

それは、3歳くらいの時にやってくると考えられます。それまでは、幼児というのは明確な自意識というものを持ってはいません。

つまり、動物などと同じ意識状態であると言うことができます。したがって、鏡に映った像を見ても、それを自分であるとは認識しないということです。

ただ不思議な動きをするこの世界を面白おかしく見つめているだけなので、あの無邪気さを持っていることができるわけです。

ところが、3歳を過ぎるあたりから、「ここに自分というものがいる」という意識が芽生えてくるのです。それが、人生で最初に感じる自己否定感の源です。

それまではどこにも自分という存在を意識することはなかったのに、気が付くとそこには傷つきやすくて惨めで、能力のない卑小な自分を発見してしまったのです。

この両者の違いは筆舌に尽くしがたいと言ってもいいと思うのです。しばらくして、子供は急に恥ずかしがるようになったり、無邪気さが影を潜めてしまったりするようになります。

この体験は誰もが一様にするものです。これがなければ、その人は病院に入れられてしまうことになるかもしれません。

とにかく、人間として正常な成長過程として通る道なのです。ではなぜ、人によって自己否定感が大きかったり小さかったりするのでしょうか?

それは、育つ環境が大きく影響するからです。親に十分に受け止めてもらえたと感じれば、それだけ自己肯定感が大きくなり、先ほどの自己否定感を駆逐することができるかもしれません。

またその逆に、受け止めてもらえなかった不満を募らせていると、自己否定感が更に大きくなってしまうのです。

こうして、人生の初めに持ってしまった理由なき自己否定感が払拭されることも、増大してしまうこともあるということが分かります。

いずれにしても、本人にとっては何とも理不尽きまわりない否定感ですから、自分には何の責任もないということを明確にした上で、その感覚とおさらばして欲しいと思います。

インターバルタイマー付き腕時計

最近、欲しいと思うものがめっきりなくなってきたなあ、これはいいことだなあと思っていたのですが、突如として見つかってしまいました。

そして、しばらく購買意欲が衰えていた「つけ」がやってきたかのように、欲しいと思って次の日には買いに行ってしまいました。

それはインターバルタイマー付きの腕時計です。ただそれだけのシンプルなものが欲しかったのですが、なかなかそういうものがなくて、仕方なくわりと高機能なものになってしまいました。

自分で決めた時間間隔が経つと、音もしくはバイブで知らせてくれるものです。どうしてこんなものが欲しくなったかというと、我に戻ってい続けられるようにという願望からです。

瞑想したり、独りで心静かにしているときには、いつも人物としての自分を見つめていられるのですが、誰かと話したり何かに気を取られてしまうと、人物そのものに入り込んでしまうのです。

それを監視するための作戦として、一定間隔ごとに今ちゃんと自分を見ていられているかをチェックする「メカ」を利用しようと思い立ったのです。

実際に使って見ると、とてもいいです。今これを書いている時点でも、内容の方に気をとられてしまうと、ついうっかり人物としての自分に入り込んでしまうのですが、バイブレーションがそれを知らせてくれます。

これはとてもいいかもしれません。そして先ほど、なぜずっと自分を見つめる側にい続けることがむずかしいかの一旦を垣間見ることができました。

それは、ふと目にとまった何か、本当に何でもいいのですが、そのものから連想を膨らましている自分に気づいたのです。

そこから一気に普段の自分に戻ってしまうのだろうなと分かりました。その時に、バイブの振動で我に戻らせてもらうことができたからです。

しばらくお気に入りで使って見ようと思います。

自己否定感

人は誰でもある程度は自分を否定的に思う心の部分を持っています。それは自己嫌悪感と言ってもいいし、オーバーに言えば罪悪感のようにも表現できるかもしれません。

いずれにしても、そうした自分に対する駄目出しの気持ちというのを持っていない人はいないでしょう。そのくらい、私たちは否定的な思いというものを持っています。

それでも、元気よく人生を生き抜いているのは、それ以外にも自分はそこそこいいんじゃないの?という自己肯定感も同時にあるからなのです。

ですから、自己否定感があまりに強くなってしまうと、自己肯定することが難しくなってしまって、両者のバランスが取れなくなって、自己否定ばかりが目立ってしまうことになるのです。

そうなると、人生は辛く苦しい惨めなものになってしまいます。なぜなら、一番駄目な奴が他でもないこの自分なのですから。

そして本人としては、その自己否定が正当なものであるとの強い思いを持ってしまっているのも事実です。なぜそんなことになってしまうのか。

それは、一度自分を駄目だと思うと、そんなはずはないという気持ちと、駄目なことを証明しようとする気持ちの二つに心が分裂してしまうのです。

だから一方では駄目じゃない自分を作ろうとして必死に頑張るのですが、その一方ではほら駄目だったじゃない、という結果を作ることになってしまうのです。

これは本人にとっては挫折の連続になってしまい、益々やっぱり自分は駄目な奴だったという思い込みが強まることになるのです。

しかし待ってください、いいですか。まず初めになぜ自分のことを駄目な奴だと思ってしまったのか。そこを解明しなければ何も正しいとは言えないと気づいて欲しいのです。

セラピストの目から見ると、とても幼いころにどうしたわけか、期待しているような親からの愛を感じることができない状態が続くと、自分の気持ちを納得させなければならなくなります。

そのために、幼い子供は自分が駄目だから、愛情を受けることができないのだというように勝手な理屈を作って自分を駄目出しし出すのです。

これがすべての苦悩の始まりといってもいいかもしれません。それから後は、先ほど書いた通りにどんどん、自己否定感を確かなものにするようにと、人生が進んで行く事になってしまうのです。

今日お伝えしたかったことは、どんな理由があるにせよ、今感じている自己否定感とは幼い頃の愛されることができないということから生じたものだと理解して欲しいのです。

そのことを本当に分かれば、長年馴染んできた自己否定感がまったく筋の通らない理由からきたものだと分かるはずです。

そうしたら、そんな自己否定感などくそ食らえと思って欲しいのです。誰も駄目な人などこの世界にはいないのですから。

今に意識を向ける

先日近くのスーパーに徒歩で買い物に行くときに、スポーティな自転車に乗っている精悍な身体付きの若い男性が追い抜いていきました。

彼は、自転車をこぎながら何やら誰かと大声で話しをしているようで、イヤフォンをしていたので、それでケータイの相手と話し込んでいるものとばかり思っていました。

その彼も同じスーパーで買い物だったようで、私が到着する前にすでに着いていて、スーパーの中を小気味よく歩いていました。

それでびっくりしたのですが、あのイヤフォンはただの音楽を聴くものだと分かったからです。つまり、彼のお話し相手は彼にしか分からない架空の相手のようでした。

店内を足早に歩きながらも、彼はずっとかなり大きな声で見えない相手と話しをし続けていましたので、きっと周りに居合わせていた人はそのことに気づいたはずです。

彼には彼独特のワールドが広がっているのでしょうね。一般的には、それは病的なレベルとみなされてしまうかもしれません。

しかし、よく考えて見ると正常だと思っている私たちであっても、自分の意識は常に今ここにあるわけではなくて、絶えず過去や未来へと飛んで行ってしまっているはずです。

街を歩いていて、ただ自分はこの道を歩いているということにずっと意識を持ち続けられる人は稀かもしれません。

大抵は、何か他のことに思いを向けてしまうのです。昨日会ったあの人の顔だったり、明日までにやらなければならない宿題のことだったり。

私たちは彼のように声を出して、そこには実際にいない相手と話すことはしないかもしれませんが、意識がここにないということにおいては、まったく同じだと気づく必要があるのです。

誰しもが、過去や未来へと意識を飛ばしてしまい、大切な今ここにはいなくなってしまうのですから。この悪い週間に気づいて、なるべく今自分がしていることに意識を向ける練習をすることです。

それができるようになったら、その先に本当の自分の意識で生きるというところへと持っていけるようになるはずだからです。

尊敬できるグル

子供のときに、尊敬する人は誰ですか?と聞かれて、いつも困っていたことを思い出します。学校の授業で習った偉人さんなら、何人かは知っていましたが。

友達によっては、自分の両親が尊敬できる人だと言っている人もいましたが、自分の場合にはそういう感覚はまるでありませんでした。

そうやって、そのまま大人になってしまったので、いつになっても尊敬するひと、敬愛する人というのがいない状態が続いて、残念なことに今に至っているのです。

ほとんど伝記などを読まないこともあって、歴史上の人にあこがれをもったりすることもありませんでした。自分はこのまま死ぬのかなと。

最近いくつかの本を読んで、その著者たちを尊敬することができるなと思うようにはなったのですが、ほとんどの人がもうすでに亡くなってしまっているのです。

今の望みは、生身の生きている一人の人間として、心から信頼し尊敬できる心の師匠が欲しいなと思うのです。どういうわけか、そのようになりました。

最近までの本当の気持ちとしては、地球上には自分が尊敬できるような人は一人もいない、それで構わないと本気で思っていたのです。

でもそれはとても残念なことだなと思うように変わってきたのでしょうね。誰だって、この人はホンモノだと、この人なら全面的に信頼することができて、自分の人生を委ねることだってできると思えるような人がいたらいいなと思うはずです。

今は仕方がないので、すでに亡くなってしまった人ではあるものの、その著書などからその人たちが言うことを注意深く繰り返し読むくらいしかできないのです。

それでも、そうした本があったことはこの上なくありがたいことだと思えます。願っていれば、いずれ自分にとってのグルが現れてくれるのかもしれないなと、期待している今日この頃です。