都合の悪い人達

私たちは自分の意に沿わないことを言ったりやったりする人のことを快く思わないはずですね。嫌いになったり、その人のことを見ないで済まそうとしてしまいます。

そばにいられるだけで、穏やかな気持ちでいることができなくなってしまって、何か一言いってやりたくなるかもしれません。

どうしてそういう言い方しかできないのか、なぜそんな行動ばかりとるのか、考えれば考えるほどイライラさせられてしまったりもします。

自分にとってそういう天敵みたいな人がこの世界からいなくなればいいのにと思ってしまうのも当然かもしれないですね。

でも誰にとっても、程度の差こそあれそのような人というのがいるものです。奇跡のコースでは、そういう人のことを神からの賜物だと教えています。

自分の周りにいる人が一人残らずすばらしい人ばかりであったらどんなに生活が楽になるだろうかと考えたことがない人はいないはずですね。

ところがそれは、単に自分というエゴにとって都合のいい人ばかりであって欲しいといっているだけなのです。都合の悪い人というのは、本当は自分の心の中にある都合の悪い自分を投影しているだけなのです。

奇跡のコースの教えはそうしたことを伝えているのです。自分にとって自分が見ずにいようとしている暗闇の部分を、そういう人たちが見せてくれているわけです。

その天敵のような人たちがいなければ、もしかしたら一生自分のそうした部分に気付くことができないかもしれないのです。

もしもあなたの周りに困った人がいたら、その人をただ闇雲に嫌ってしまうだけでなく、その人は自分に何を気付かせようとして神に派遣されてきた人なのかということを考えてみることです。

冷静になって相手と向き合うことで、自分が抑圧してきたことに気が付かされるかもしれません。深刻な気持ちにならずに相手を許したいという気持ちになってみることです。

そこには、人生を幸せにしてくれるとても大きなヒントが隠されているはずです。

質問する気持ち

私は何を隠そう、子供の時からずっと質問魔でした。といっても大人に対して何度もしつこく「なんで?なんで?」と聞くようなことはありませんでした。

どちらかというと、ちょっと聞いて相手が分からないのだろうなと理解すると、もう聞くのをやめてしまうような子供でした。

そのあとは自分の中でずっと繰り返し自問自答するような感じだったかもしれません。といっても、それを真剣に考え続けるということでもありませんでした。

大人になると、経験が足りないと自他ともに認めてもらえるうちは、そこそこ質問をするほうでしたが、やはり相手が答えられそうにないと分かるとすぐにやめてしまいました。

会社員をやめて、今の仕事をするようになる前に、ヒプノのスクールやヒーリングを習ったりしていたのですが、そんな中ではまた質問魔に戻っていました。

何も分からずにただ黙って聞いているということが苦手なようで、私は大抵は講師の方に質問をしていたと思います。

そしてセラピストの仕事をするようになると、心の事を日々クライアントさんにお話ししている間に、全くそれに関して自分の中では質問がなくなってしまったのです。

確かに分からないことはあるのですが、質問という形では浮かんでこなくなったのです。それはきっと、質問を受ける立場になったからなのではないかと思っています。

そしてちょうど二年前に奇跡のコースを読み始めたときにも、また沢山の疑問が浮かび上がってきましたが、これは聞く相手がいないために自分で答えを導き出そうと努めていました。

そして気が付くと、奇跡のコースに関する疑問も自分が答える側になったために、質問がほとんどなくなってしまいました。

質問というのは、単に分からないことがあるというだけではなくて、それを誰かに解決して欲しいという気持ちが含まれているように感じるのです。

だからこそ、答える立場になると質問というものが心の中に浮かんでこなくなってしまうのだと思います。みなさんは疑問、質問が沢山ありますか?

質問をすることは決して悪いことではありませんし、質問があるにもかかわらず黙っているよりは率先して質問するほうがいいに決まっています。

ですが、物事を受け入れようとする気持ちが大きくなってくると、質問というものが少しずつ消えていってしまうのです。

質問をしたい気持ちというのは、ある意味訴えたい気持ちと同じなのかもしれませんね。本当は、その気持ちが消えてくれたら穏やかな気持ちだけが待っているのです。

徹底的に気付くこと

私たちは生まれて物心つくころからずっと、自分の能力を伸ばしていくことにエネルギーを注いできました。それは自立していく上では当然のことだと言えます。

一人で服を着替えられる、一人で食事ができる、一人で勉強できる、一人で電車に乗れる、一人で○○することができるようになるということをいつも目指してきたのです。

そして大人になると、それだけではなくそれぞれの自分の能力をフル回転して成果を出すことによって、人から認められるようにと頑張るのです。

こうした生き方は気が付くとすでに始めてしまっていたわけで、年老いてリタイアするまで続くのかも知れません。

しかし、なぜかこのようにして結果を出したとしても心の奥にある不満や満たされない思いなどがなくなることはありません。

つまり、自分の力で何かを成し遂げてもその満足感、達成感は一時的なものであって、それが永続的な幸福感には繋がらないと分かっているのです。

私の経験では、成し遂げるのではなくて、気付くことでしか本当の変化を感じることはできませんでした。このこと自体も気付きの一つと言えると思います。

気付くというのは努力して成果を出すのとは全く違う体験です。気付きはあるときに突然やってきます。それを予想することはできません。

ですが気付きがやってきたときには、成果を手にした時の喜びとは全く別次元のとても新鮮な何かが見えたという感覚になれるのです。

気付きとは元々自分の中にあるものを発見するというような意味ですから、自分の外側に大切なものを発見するのとは全く異なるのです。

そしてこの気付きというものが実は本当の幸せ、本当の感謝、本当の喜び、そういったものに自分を誘(いざな)ってくれるものなのです。

しかも、気付きは努力して成果を期待する今までの生き方とは正反対の生き方をするときにこそ、沢山やってくるものだと実感しています。

人は大切なものは元々すべて持っているのです。だからこそ、そのことに気付くことこそが本当の生き方だし、そこにこそ真の心の平安、幸福感というものがあると思うのです。

気付くことには限りがないようです。何度気付きがやってきたとしてもまた次に新たな気付きがやってきてくれます。人生とはその繰り返しなのだと思います。

気付くためにはとにかく外側の世界を見る代わりに、自分の内的世界に常に目を向けておくことです。外の世界を見るときには、必ず内側を見ているのだという意識で見ることです。

外と内は一つなのだという気付きがその後の大きな気付きへと向かわせてくれるかもしれません。

危ない理性

人が動物と一番違うところは、理性を持っているところかもしれません。しかし、この理性というのがとてもクセモノなのです。

というのも、理性は物事の正しさを判定することができるからです。幼い子供や動物というのは、理性的というよりも直情的といったほうが当たっています。

自分はこれが嫌だとか、こうしたいということをストレートに表現することができます。勿論100%ではないでしょうけれど。

ところが理性的な大人はそうは行きませんね。物事の道理や理屈、そして常識的な感覚などを総動員して自分の言動や相手の行為を制限しようとします。

し~んと静まり返った美術館で大きな声でおしゃべりすることは何も分からない子供の特権です。エレベーターの中でオナラを我慢しないのも子供です。

理性的であることが一人前の人間として当然のことと受け止められているのです。しかし、この理性が必要以上に自分を縛ってしまうととんでもない人生になってしまいます。

これはやってはいけない、こういう場合にはこうしなければならない、こんなことをしたらはしたないなどなど、常に自分や人の言動を見張っていることになってしまいます。

理性的なことを過度にしてしまう理由の一つは、恐怖なのです。誰からもできるだけ後ろ指をさされない人物であろうとする意識があまりにも強すぎるのです。

理性的であることは時としてとても危険であるということを認識しておくことです。そして、実はどんなに理性的な人であろうと本人の自覚のないところでは意外に理性的でない部分も持っているのです。

つまり理性には人それぞれに抜け穴があるのです。それは自分では決して気付くことがありません。そのことに一度でも気付かされると、理性的であることが馬鹿らしくなることがあります。

理性的な作られた自分だけではなくて、無邪気な子供のような部分も両立できるように自分を工夫してあげられると、心のバランスがとれて心地よく生活できるようになるはずです。

実践こそすべて

奇跡のコースを学習するという場合、大切なことは日々の生活の中でどれだけ活かせるかということに尽きると思います。

コース自体は、原理を教えてくれるテキスト、訓練するためのワークブック、それと教師用マニュアルの三つの部分からできているのですが、メインとなるのは実践を促すワークブックなのです。

毎月行っている勉強会では、その中のテキストを順を追って読んでいくに過ぎません。テキストを読んでそれで分かった気になってしまったら、私は読まない方がいいかもしれないとさえ思います。

なぜなら、理屈ばかりが先行してしまい、愛の目で周りを見ようとしたときに逆に裁きの目で見てしまうようになる可能性が高いと思うからです。

自分はこれだけのことを理解した、他の人が気付いていないこんなすばらしいことを知識として身に着けたのだからという驕(おご)りが、真理を見る態度の邪魔をするかもしれないのです。

だからこそ、コースに興味があるのでしたら絶対にワークブックを先生だと思って毎日実践することです。ただし、ワークブックだけでも実はこれが何のためなのかということが分からないとやる気が長続きしないかもしれません。

テキストをしっかり読んで、自分の目的や役目がはっきり分かった状態で、ワークブックを使って実践することこそが最大の成果を生み出すはずなのです。

ただ、ワークブックは毎日真面目にやっていくと、ちょうど丸一年で終わってしまうのですが、たぶんそこからが本当の実践になると思います。

日々周りの人達との関係性の中でどれだけ実践していくことができるか、ここが最も大切なところなのです。なのでワークブックが終わったとしても、忘れてしまったら再度紐解いて思い出せばいいのです。

つまり、コースのテキストもワークブックも繰り返し利用するようにできているのです。そして実践は勿論毎日の繰り返しの中でほんの少しずつ身についていくものです。

愛を選択するための様々な実践法を日々繰り返し生活することこそが本当の救いへの道なのだと思います。

比べることの苦悩

自分が27歳くらいの時の経験なのですが、最初の赤ちゃんが生まれたときに、大きなガラス張りの部屋に何人もの赤ちゃんが寝かせられていたのです。

その中に自分の赤ちゃんがいるはず。どれかな~と見ていて、きっとこの子に違いないと思った赤ちゃんがやっぱり自分の赤ちゃんだったのです。

このときに、もう自分の赤ちゃんと他人の赤ちゃんを比べてしまっている自分がいました。うちの子が一番いい子に違いないと。

そしてやっぱりあの子が自分の子かと分かった瞬間に、更に赤ちゃんの中で一人だけ輝いて見えるようにさえなりました。

単なる親ばかだけならいいのですが、そこに他の赤ちゃんと比べている意識が働いてしまうと、その目が今度は後々の子供の心にきっと突き刺さってしまうのです。

子供は自分が親から愛されていることを通常は分かっているものの、それが他の子供と比べてという条件付きであるとそれだけで傷ついてしまいます。

そして、その親の比べる目に応えようとして本来の無邪気な自分を捨ててしまうのです。なぜなら、比べられて駄目出しされたらこんなに惨めなことはないからです。

他の子と比較されていると心のどこかで察した子供は、今度は成長するにつれて自分のことを他の誰かと比べるようになってしまいます。

比べることで他より勝っていたら自分は価値がある、劣っていたら価値がないというような判断をすることが癖になってしまうのです。

そんなところに自分の価値があるというのでは、いつも恐怖と隣り合わせで生きているようなものです。自分という存在そのものが大切なのだという本来の存在価値が分からなくなってしまいます。

そこには恐怖ばかりがあって愛が見当たらないのです。このようにして、親の比べる目が子供の人生から愛を奪ってしまうことになるのです。

愛がない世界は殺伐としていつも恐怖を感じていなければなりません。その恐怖や不安を払拭するために頑張るというのが人生の目的にならざるを得なくなってしまいます。

どうか、赤ちゃんや幼いお子さんがいる親御さんは、その子そのものを見るだけにしてあげて下さい。けっして他の子供と比較したりせずに、愛してあげてください。

本当にその子のことが大切であれば、そうしてあげることがその子の人生を比較のない愛に溢れるものとすることになるのですから。

幼い頃の決意

人はより幸せになるために、もっと自分を進化させたくて様々な決意をするものですね。タバコが大幅に値上がりするので、この機会にタバコをやめようなどはそういった決意の一つです。

毎年元旦にその一年の目標を定めて、それを実行するように決意するという人もいます。そのようにして、大人になると明示的に決意するという行為をします。

勿論それほど意識せずとも小さな決意は毎日沢山しているのですが、やはり自分でもより大切な事柄に対する決意は覚えているものです。

それにもかかわらず、上記の例のように禁煙を決意したとしても一体どれだけの人がこの値上げを期に本当に決意どおりにタバコをやめられるでしょうか。

大人の決意というのは、場合によってその強さ、硬さにはかなりの違いがあります。ところが、子供の頃にした決意というのは実は半端ではないくらいに強く硬いものとなりやすいのです。

我々大人になると、子供でも決意などするのだろうかというくらいに捉えがちですが、子供でも立派に様々な決意をしています。

そして大抵の子供の頃の決意はある意味命がけと言ってもいいくらいなのです。逆にそうでもなければ、幼い子供が決意などするはずがありません。

タバコを吸うわけでもないですし、メタボ対策をする必要もないし、それほど人生の未来を不安に感じることもないのですから、大人のようにいろいろ決意しなければならない環境ではないはずです。

そうした中での決意ですから、その思いというのはとても一途だし、深刻であるわけです。それはたとえば、親に叱られて泣いたときに、親から泣くなと厳しく怒られたりしたら、もう泣かないと決意するのです。

また、親や周りの大切な誰かがかわいそうに感じたとしたら、その相手に対して、甘えたり、訴えたり、文句を言ったりするのをやめようと決意するかもしれません。

その決意には今日生き延びるために死守するというくらいの必死さがあるということです。つまり、幼い頃の決意には自己防衛の色彩がとても濃厚だといえます。

そしてその決意は大人になっても継続していることが圧倒的に多いのです。本人はそんな自覚はないのですが、その生き方を紐解いていくと必ず幼い頃の決意に今でも操られているということが分かってきます。

その決意は過去の自分を守るためには有効だったかもしれませんが、大人になった自分にとってはとても不自由さを感じるはずです。

自己表現が苦手であったり、感情を素直に感じることができなくなってしまったり、不要な笑顔でいつも取り繕ってしまったりといったことが続いてしまうのです。

日々の生活の中で何らかの不自由さを感じるとしたら、自分の幼い頃に何か強烈に決意したことはなかったか過去に戻って調べてみることがとても必要だと思います。

依存と自立

人の心の傾向を大きく二つに分けると、依存系と自立系とになると思います。依存系の人の場合は、最後まで自分でできずに投げ出してしまったり、目的を達成しづらいという特徴があります。

このくらいは自分でできるかもしれないけれど、とても全部は無理と最初から誰かにやって欲しいと助けを求められるのです。

だからこそ依存系の人たちは、自立系の人が大人に見えたり頼りがいがあっていいなと思ったりするようですし、自分も自立することが人生の目的になっている場合すらあります。

一方、自立系の人達というのは、自分の人生の全責任は自分にあると思っているのですからこれはこれで大変です。

怠けていてはいけないし、立派な人物にならなければと常に自分を叱咤激励しています。あまりにそれが過ぎると、心がストライキを起こして寝込んでしまうことになるのです。

責任感がないよりはあった方が人としてはきちんとしていると思われがちですが、強すぎるのは大問題です。そういう人は何か問題があると、全部自分がそれを背負うつもりになってしまうからです。

自分に対していつも過負荷を与えている状態になってしまうのです。幼い頃は誰でも一般的には依存状態で生活していますが、場合によって自立的に生きてしまう子供たちもいるのです。

それは、甘えてはいけない、親も大変なのだから迷惑をかけてはならない、泣いたり怒ったり感情を乱してはいけない、などのルールを自分の中に作ってしまう子供たちなのです。

依存の心でしっかり甘えなければならない時期に、防衛の一つとして自立的な生き方を選んでしまうことがあるということです。

そうなると、非常に硬い自立系の人物に成長してしまいます。そして、困ったことに、幼いころに依存できなかったしわ寄せが大人になってからやってくるのです。

自分では理由も分からないままに、子供のような気持ちが出てきて毎日の生活がまともにやっていけなくなってしまうこともありえます。

自分の人生の全責任を背負っているという感覚を持っていると自覚できる人は、こうした問題を抱えやすいと言えますね。

心の中で過去に戻って無邪気で子供らしい自分のイメージを使って自分を育てなおしてあげることが必要かもしれません。一人でうまくできないようでしたら、専門家の力を借りることも大切だと思います。

すべてが完璧

私たちは自分自身のことや、自分の境遇などについて誰でも何かしらの不満を持っているものです。何もかもが全く思い通りの人生だという人は少ないはずですね。

もう少し給料が高ければいいのに、もうちょっと休暇が欲しいなとか、もう少し痩せたいけど、おいしいものをもっと沢山食べたいなど。

細かいことまで挙げて言ったらきりがないほど、願っていることだらけなわけです。そしてその願いが一つひとつ叶っていくことで幸せを手に入れられると信じています。

でもそこにはいつまでたっても、何を手に入れられたとしても本当の幸せがやってくることはないのではないかと我々は薄々気付いているのです。

しかしそれこそが人生なのだと思っている人も多いのかもしれません。5年後にはここまで実現して、それが出来たらその次はここまで達成するというように次々と目標を設定しつづけて、それを目指して走り続けるのが人生だというわけです。

勿論それが決して悪いということではないのですが、それは金メダルを取ってもまた次の金メダルを求めて鍛え続けるオリンピックの選手のようです。

本当の幸せはその生き方のどこにもありません。そうやって走り続けている人は誰も幸せではないと言っているのではありません。

自分がどのような状態であっても、他人と比較することなく、そのままありのままを受け入れるという意識が重要なのです。

この世界で何かを達成することにこだわる生き方では、現状を受け入れることはできないはずです。自分の心の中をしっかりと見つめてみると、何かどっしりとした部分に気付くかもしれません。

その部分に焦点を合わせてみると、不足しているという感覚がないかもしれません。それは物質的な観点で周りを見てないのは明らかです。

この不足してないという感覚こそが満たされている心なのです。それは完全であり完璧であるという思いであるとも言えるのです。

こうした思いを、心の中に発見することこそが真の幸せを手に入れる唯一の方法なのです。誰の心にもそれは必ずあります。

外の世界で重要なものを手に入れることに集中するよりも、心の中の宝探しを真剣にやってみるつもりになってみてはどうでしょうか。

自分を客観視する

心を癒していくために最初に通る道は、自分が気付いていなかった自分自身について深く気付いていくことだと言えます。

もしかすると、そうした気付いていなかったことは周りの人からするととっくの昔から気付かれていた可能性があります。人のことは良く分かるが自分のことは分からないとよく言うのはそういうことです。

そうした自分への気付きというのは、自分を客観視することができるようになるにつれて、次第に増えていくのです。

たとえば、誰かに迷惑をかけてしまったと気付いたら、誰でもその人に謝まりつつ申し訳ないという気持ちを感じるはずですね。

しかしその迷惑をかけた相手が自分自身だった場合にはどうでしょうか?他人の場合と同じように自分に対して十分に申し訳なかったという気持ちに果たしてなれるでしょうか?

私は病気による手術によってお腹を50針くらい縫ったことがあったのですが、当初その傷口をみても何とも感じることはありませんでした。

しかし手術して3ヶ月くらい経過したある日に、いつものようにお風呂に入っているときにその傷を見て本当に自分に対して取り返しのつかないことをしてしまったと感じたのです。

そして人に対して感じたことのある申し訳なかったという思いと全く同じような申し訳なさというものを思い切り自分に対して感じたのです。

それはきっと生まれて初めて自分に対して味わった感覚だったと思います。その日を境にして自分の人生に変化が生まれたと思っています。

気付きとはそういうものなのです。自分を本当の意味で他人を見るように客観視できるようになることなのです。それはある時に突然やってきます。

そしてその先にこそ、癒しの次の段階が待っています。それは、今度は自分を見るように人のことを見てあげるという心になるということです。

これは自分のことを客観視できないとなかなか難しい心の状態だと言えると思います。そうやって、癒しは続いていくのです。その過程の中で幸せについて分かっていくのです。