あなたの中心に「私」はいない

あなたが持っている自己イメージというのは、他人という歪んだ鏡を通して反射した自分の姿から出来上がっているのだということは、何度かお伝えしましたね。

そして、その間違った自己イメージを統括しようとの試みによって、でっち上げられたのが「私」(エゴ)というわけです。つまり、「私」というエゴは実は人との関係性の中でのみ生きることができるのです。

あなたという存在のまさに中心に「私」がいると思っているかもしれませんが、それは真っ赤なウソだったということになりますね。

あなたの本当の中心には、「私」はいないのです。「私」の唯一の居場所とは、自分以外の誰かとの関係の中にしかないということです。

だから、もしもあなたが長年無人島でまったく一人で暮らし続けるとしたら、そのうちにはあなたの中の「私」は薄れて行って、終いには息絶えることになるでしょうね。

理屈的にはそうなのですが、ところがその「私」とは非常にしぶといのです。何十年にもわたって、独りでヒマラヤで修行をして、有名になった行者がいたのですが、彼は自分のマインドに一点の曇りもなくなったと思ったらしいのです。

それで、下界に降りて来て、人々に教えを説いて欲しいと誰かに頼まれて、いざ下界に降りた途端に彼の中の眠っていた「私」が復活して、ただの怒れる人に戻ってしまったという話しを聞いたことがあります。

そのくらい、「私」が完全に落ちることは難しいことなのですね。独りで過ごしているときに、一時的に「私」が落ちる経験をするよりも、他人との関わりの中にいるときに、それが起きる方が難しいというのもうなずけます。

あなたの中の「私」が、どのような状態にあるのかを知るためにも、あなたは人と関わっていく必要があるということです。

そして繰り返しになりますが、「私」があなたの中心にあるわけではないということを、忘れないことです。あなたの真の中心は、空なのですから。

感じよくしようとするマインド

学生のときに、一人暮らしをしていたことがあったのですが、きっと時間はあるけどお金がないという環境のせいなのか、アパートの殺風景な部屋の中で、時々いろいろなことを考えていたのです。

その一つに、人と接するときに感じのいい人として振る舞うことに、どれほどの価値があるのかということを考えていたことがありました。

結局、自分が感じのいい人と思われようが、感じが悪い人だと思われようが、どちらにしても大したことではないということに気づいたのです。

単に、肯定的に思われた方が一過性の安心を得ることができるだけだと…。それは、誰かにとってトマトが好きか嫌いかという程度のことだと分かったのです。

それからというもの、他人にどう映ったかは別として、自分の意識の上では殊更に感じよく接するという努力を放棄してしまいました。

でもこれが意外に難しいのです。しばらくして気が付くと、また放棄したはずの気の使い方が戻ってきたりするのですね。とはいうものの、そのことに意識をむけて気づいていられるようになったことは大きかったかもしれません。

そうして自分の行いに注意深くいれば、過度になることは決してありません。その前に気づいて、適宜加減する余裕ができるようになるわけですね。

必要以上に感じよくしようとしてしまうマインドを見張っていることは、大切なことですね。毎日を爽快に過ごすためには、是非とも必要なことです。

そしてその先もありますよ。それは、そうした自分を丸ごと放っておくというやり方です。愛を持って放っておかれた自分というのは、私の経験上あまり変な方向には行かないようです。

よかったら、是非試してみてくださいね!

私」という思考の特別さ

もしもあなたがテレビを見ていて、おいしそうなスウィーツの紹介をしているのを知って、そうだ、明日私もそれを買って食べることにしよう!と思い立ったとします。

その思い立った内容というのは、思考であるということは明白なことですね。きっかけが何であれ、そのことを考えたわけですから。

で、瞑想というのは、そうした様々な思考(雑念などとも言いますが)を落としていくことなのです。たとえ、そうした雑念が浮かんできたとしても、それに捉われないでいようとするわけです。

毎日コツコツと瞑想を続けて行くうちに、気が付くとそうした雑念が湧いてこなくなるようになります。そうなると、マインドの中は本当に静かになってくれますね。

ところが、そんな感じでマインドが静かになったとしても、そこにはやっぱり私がいるのです。「私」という思考だけは、しぶとく残ってしまうのです。

瞑想に究極の目的があるとするならば、その「私」という思考も落ちて行くことなのです。ではなぜ、「私」という思考はそれほどまでに他のどの思考とも違うのでしょうか?

これは、私自身が感じていることなので正しいかどうかは定かではないのですが、「私」という思考が作られたときには、まだそれが充分に言葉と繋がっていなかったからではないかと思うのです。

ご存じのように、通常思考というのは100%言葉と連携しています。私たちが思考するときには、間違いなく言葉を使っているという事実があるのです。

思考は言葉であり、言葉は思考なのです。ところが、「私」がでっち上げられる頃の人間の状態では、まだ言葉を上手に使いこなすレベルにまで成長していないのです。

それが、「私」という思考がそれ以外の思考との大きな違いなのだと思うのです。だからこそ、「私」という思考はただ考えているというような感覚とは異なるのですね。

どちらかというと、考えることというよりも、「私」がここにいるという感覚になってしまっているはずです。だから、思考が静かになるというレベルでは、「私」はなくならないのです。

こうなったら、「私」を根こそぎにするためには、すべての希望、あらゆる欲望を落とすしか方法はないようですね。「私」が一過性に消えるような体験では、ほとんど何の変化も起きません。

かえって、「私」の防衛が厳しくなってしまうように感じています。切ないですね~。

思い通りにはならない

いつも夜11時くらいになると、ああブログを書く時間がまたやってきたなあと思うのです。それから、今日もネタがないなあと思いながら、しばし沈黙するのです。

で、何となくですがそれなりに文章を書いて0時0分にアップするように設定をして終わりにします。先日、セッションにいらしたクライアントさんがこう言いました。

ブログにする文章をストックしてあって、そこから毎日アップしてるのですか?と。実際そういうことができたらそうするかもしれませんが、そうもいきません。

書こうと思うことは、大抵その瞬間に思いつくことばかりで、前もってこれを書こうと思っていても、いざ書こうとするとすっかり内容を忘れてしまうのですから。

よし、今日のはなかなかいいじゃないの、と自画自賛しても、それほどの反応はもらえません。逆に、何の気なしに書いた大した内容じゃないね、と思えたものでも、思いのほか高評価をいただけることもあったりで…。

そういう意味では、自分がどう判断しているかということは、多くの場合に期待はずれで終わるのです。世のなか、そんなものなのかもしれないですね。

自分が気に入って書いたブログも中にはあるのですが、きっとどなたもそれを同程度に評価されることはないのでしょうね。不思議なものです。

けれども、本当に怠け者の自分が、何をやっても長続きすることのなかったこの自分が、こうして毎晩ブログを書き続けているのは、私にとっては奇跡的なことなのです。

きっと、どこかで好き勝手に書くことを悦びと感じている部分があるのでしょうね。そうでなければ、あり得ないことですので。

だからこそ、読んで下さる方が、一人もいなくなったとしても、きっと書くことがなくならない限りは、書き続けているのでしょうね。

思い通りにいかないことの苛立ちと、それを楽しむ両方を感じられるといいですね!

自分自身を直接見る

あなたは、あなた自身を直接見たことがないという事実に気づいているでしょうか?あなたは、本当には自分自身のことを何も知らずに生きてきたのです。

私たちが自分を知る唯一の術とは、鏡に映った自分を見るということです。勿論、その鏡とはごく一般的な手鏡のようなものかもしれないし、他人という鏡かもしれません。

生後2~3年の間は、手鏡はそれほど意味を成しません。私たちは、周りにいる家族という鏡を通して、自分自身を知っていくことになるのです。

その鏡が理想的な鏡であればいいのですが、それは100%期待することはできません。なぜなら、人はみんな自我という色眼鏡を使って生きているため、彼らが映し出したあなたの像はひどくでっち上げられたものだからです。

そのまさしく歪んだ鏡に映された自分の像を、そのまま自分だと想い込んで成長していくことになるのです。それが、自己イメージなわけですね。

私たちは、その自己イメージを本当の自分だと思い込んでいるだけなのです。だから、他人を通した自分の姿以外を知らないと言ったのです。

もしも一度でもいいから、直接的に自分を見ることができたとしたら、どうなるでしょうか?その前に、どうやったら直接自分を見ることができるのでしょうか?

五感という知覚を通して自分自身を見ることは不可能ですね。知覚が機能するのは外側にある対象に対してだけだからです。

鏡に映るあなたとは、本当のあなたでないのは明白です。鏡には映らない自分を求めて、深く深く探っていくしか方法はなさそうです。

そしてそこには、誰もいない!ということを知ったとき、それこそがあなたの本質、あなた自身を直接体験していることになるのですね。

感情と対面する

みなさんは、こういう経験をしたことはないですか?普段は黙って隠しているのに、その時には自分の本当の気持ちや想いを相手に言おうとしたら、冷静さを欠いてしまったということ。

ごく普通に穏やかに伝えたかったはずなのに、本音の言葉とともに隠していた感情、例えば怒りや悲しみが出てきてしまって、うまく伝えることができなくなってしまったという体験。

そのようになってしまう原因は、本当に言いたい言葉、相手にぶつけたい本音とそれに関連した感情の両方を、セットで抑圧しているからなのです。

自分にとって都合の悪い思い、言葉や気持ち、それにリンクされた感情というのはいつもセットになっています。だから、抑圧するときには片方というわけにはいかないのです。

そのために、言葉などの片方だけを表面化しようとすれば、私も出して欲しいとばかりに、感情も出て来てしまうというわけですね。これはごく当たり前の現象なのです。

ところが、あまりにも感情の方だけが耐え難かったり、命の危険があるような場合には、違った状態になることも例外的にはあり得るのです。

10年以上も前のことですが、セッションで子供の頃のことを思い出したあるクライアントさんが、自分でもびっくりしてこんなことがあったとお話ししてくれたことがありました。

それは、夜寝る前に布団の中で両親がどうやったら死ぬんだろう?ということを毎晩のように冷静に考えていたというショッキングな内容でした。

当時の本人は、そのことを不思議とも何とも思っていなかったというのです。それこそ、思考と感情が完全に分離された状態だったのですね。

つまり、殺意のような激しい怒りの感情を親に対して持っていると知ることは、子供にとっては過酷過ぎることだったのです。それは生きていくことを難しくしてしまうことだからです。

だから、感情だけを抑圧してしまったということです。催眠のセッションにおいても、過去に抑圧してあった本音(言葉)だけが出て来て、感情が抑圧されたままになるということがあるのです。

どれだけ感情を厳密に封印してしまったかが伺い知れるというものです。本当に人の心というものは不思議なものですね。

私の経験では、言葉だけであったとしても一度でもそれが表に出て来てくれさえすれば、後は感情が出て来るのは時間の問題だということです。

ひたすら隠してきた感情と対面することは、それは辛いことなのでしょうね。けれどもそうした場面は、表現は変かもしれませんが、本当に美しい姿なのですよ!

何かを否定する本当の理由

私たちは「否定」の世界で生きています。どんなものでも人でも、否定することがかなり好きなのです。互いに否定しあって一体何がそれほど面白いのか、考えたことありますか?

イエスというより、ノーと言った方が、相手に対して何だか優位に立ったような気がしませんかね?どうもイエスばかり言ってると、相手に支配されているような気になるというのもありそうです。

イエスよりも、ノーの方が負けてないというのか、自分をそれだけ守れたような気がするのです。何かを否定する本当の理由は、物心つく前の本当に幼いころに、周囲から否定されたからなのです。

なぜ幼い子供を親は否定してしまうのかと言えば、彼らも幼い頃にその親などから否定されたことがあるからです。周囲からの否定は、そのまま否定的な自己イメージが作られることへと繋がるのです。

その否定的な自己イメージを丸ごと信じてしまえば、その人は自分を肯定しようと頑張ることになるのです。けれども、否定的な自己イメージにさからって、単に自分を肯定することは至難の業です。

そのために、回りくどいやり方ではあるのですが、相手を否定することで自動的に自分を肯定しようとするのです。つまり、何かを否定する本当の目的とは、自分を肯定するがためだったというわけです。

そのことにしっかりと気づくことが先決ですね。そして、理不尽に作られてしまった否定的な自己イメージを客観視することで、自己イメージへの自己同化から抜けるのです。

そしてどんな自分であろうとも、あるがままを受け止めることができれば、わざわざ何かを否定しようとする原動力そのものが消えて行くことになるのですね。

もしもあなたが、誰かや何かを否定せずにはいられないのなら、否定的な自己イメージから解放されるように努力することが最も得策なのです。

間違っても道徳的な自分を目指そうなどと画策しないで下さいね。

自然とともに流れる

素晴らしい osho の言葉を、シンプルに受け止めちゃいましょう!

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受容とは、「それが何であれ、全体の意志があなたを通してなるものになるように」ということだ。

戦わないこと。

全受容の法は、単純に自分自身を受け容れること、そして自然があなたをどこに導こうと、自然とともに流れることだ。

外側の成長、発展は不満足に由来し、内側の成長は満足に由来する。

「自分は膨大なる全体の一部に過ぎない。だから全体に従う。自分は全体と闘わない」それが満足なのだ。

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すべては繋がっている

今日もシンプルに書こうかな。

地球も含めて、この太陽系にあるすべての惑星は実は太陽から作られたということをご存じでしょうか?つまり地球は太陽の子供なのですね。

その地球上で生まれた生命体は、みんな地球の子供のようなものです。最初は水の中の藻のようなものから進化して、植物、動物、そして私たち人間が生まれました。

つまり、あなたの先祖は地球であり、太陽だということ!!

あなたの細胞の一つひとつは、太陽から出来ているということ。そりゃ、太陽の活動が私たちに重大な影響を与えるのも当たり前ってことです。

占星術がいろいろなことを当てるのも、そこから来ているのですね。あなたが生まれた瞬間の星々の位置などが、あなたのもっとも深い部分に刻印されたのですから。

で、一番言いたかったことは、すべてが繋がっているということ。自分はこの世界の中で孤立した存在だというまことしやかなでっち上げを信じているなら、それを放棄することです。

私たちは、そのことを「思い出す」必要があります。英語の remember とは、re-member ふたたびメンバーになるということ。つまり、あなたはこの宇宙の大切なメンバーだということを思い出せばいいのです。

今、自分は孤独だと思って落ち込んでいるあなた、この宇宙の大切なメンバーだということを思い出して!!