憎々しい「私感覚」

いや~何というのか、本当にしつこい私の中にある「私感覚」。あの時のあの体験は一体何だったのかと思わせるほど、しっかりくっついて健在そのものですね。

それは、衰えることなく常に私に影のようにへばりついて、いつどんなときでも消えることがありません。いたって、丈夫で長持ちでうっとうしいのです。

この「私感覚」は、私の人生のすべてを貫き通し続けるのです。私の身体、私の思考、私の体験、私の記憶、私の○○と何から何まで私尽くしで、辟易してしまいますよ。

どこかに、この「私感覚」を落とすことができる便利なツールはないものでしょうか?唯一これを感じていないときには、大抵が外側に注意が向いているときだけで、それが済むとあっという間に復帰する憎々しさ。

瞑想してもしても、ジィ~ッとことの顛末を伺って、この瞑想うまくいってるじゃないの的な面持ちで見ているんです。そして、悲しいことに、このブログを書いているのは、「わ・た・し!」と言ってにんまりしているのです。

今この瞬間も、「私」は思考なんかじゃないよと、開き直っているではないですか。でも、知ってるもんね、思考が固い固い信念になったときには、もう思考とは思えなくなるということを…。

こうなったら、一日中「私」「私」「私」とずっと唱え続けてやろうかと思ったりもするのです。「私感覚」を徹底的に全面に押し出してみてやったらどうだろうという発想ですね。

あるいは、真逆にただ身体がある、ただ思考がある、ただ体験がある、ただ記憶がある、のように「私」という枕詞を全滅させてみるというのもいいかもしれません。

ちょっと妙な感覚になってきたので、今日はこれで終わりにします!

天国は何処にある?

今日は、小さな子供にするような質問をしてみたいと思います。みなさんは、天国は本当にあると思いますか?あるとしたら、どこにあると思いますか?

天国のイメージというと、私の場合には何か理想郷というか、ユートピアのような夢の国を連想しますね。この地上とはけた違いに素晴らしいところのように感じます。

そしてすごく遠いどこかにあって、簡単には手の届く場所ではないというイメージがあります。このようなイメージは、私が子供の頃に持っていたものです。

今はどうかというと、天国がもしあるとしたら、それは「ここ」にあるのだろうと。ただし、残念ながら誰もそこへは入ることができない場所なのです。

もっと正確に言えば、私たちの中に「私」がいる限り、天国を見つけることはできません。逆に言えば、天国とはあなたの中の「私」が消えた瞬間に今あなたが在る場所なのだということです。

非常に残念ですが、あなたの中の「私」が天国を味わうことは不可能なことです。その反対に、「私」こそがこの世界を地獄のようにあらしめている張本人なのですから。

天国を求めてどこか最果てまで旅に出る必要はまったくありません。あなたの中の「私」がどれだけ努力したところで、その張本人である「私」がすべてを台無しにしているのですから。

「私」さえ落ちてくれたなら、今この瞬間にここが天国であることに気づくことになるはずです。「私」こそが唯一天国を地獄としてとらえてしまう不届きものなのです。

誰の心の中にもいる「私」さん、いつか正体が暴かれるときがやってくるので、覚悟しておいて下さいね。正体が暴かれた瞬間に、「私」さんは消滅してしまうでしょう。

そうなったら、天国は丸ごとあなたのものだし、あなたの本質こそが天国なのだと気づくことになるのでしょうね。

お気楽な人生を生きる

あなたという人物は、あなたの人生の当事者ですよね。それは当り前のことなのですが、もしもその当事者としてのあなたを放っておくとどうなると思いますか?

上手に放っておくコツをつかむことができると、当事者としてのあなたはこれまで通り、人生を生き続けて行くことでしょうね。そうなのです、放っておかれても当事者はそれなりに生を生きていくのです。

ただし、間違った放っておき方をすると、変なことになってしまいます。私は、幼い頃にそれで何度か失敗していますので、それについて少々お話ししますね。

小学校高学年のときに、運動会の徒競走で、最後のコーナーのあたりから身体がしんどくなってきたんですね。その時に、自分を放っておいても足が勝手に動くから自分は楽をしようと考えてしまったのです。

必死の走りの間にそんなことを考え出す自分がやや恐ろしくもあるのですが、そうしたらまんまと脚が止まってしまって、最後の最後で何人にも抜かれてしまったのです。

後で、先生から足が止まってたぞ!と言われて、やってもうたと思ったことを憶えています。このような放っておくは、間違ったやり方の典型です。

またもっと幼い幼稚園児の頃のこと、休み時間にトイレに行き忘れたのか、ものすごくトイレに行きたくなってしまったのですが、我慢しているのがすごく辛くなってきたので、それを放っておこうと思ったのですが、結果は当然のことながらじわ~っと床に漏れてしまったのです。

この放っておき方も間違いです。正しい放っておき方というのは、少しコツが必要で、それは「私」がやってることを邪魔しないということです。

上の例で言えば、脚が疲れたとか、トイレを我慢するのが辛くなったという自分を放っておくということで、それは痛みや苦しみから逃れようとすることとは違うということです。

朝起きて、気分がすぐれないから会社に行くのをやめたいと思う自分と、行かないと社会人としてまずいだろうという自分の、両方ともに放っておくということです。

自分に一切干渉しないでいればいいんです。放っておかれても、あなたはこれまで通り、結局どちらかの決断をして行動することになるはずですね。

そのときに、放っておくことにしたその自分は、人生の当事者ではないということです。そうだとしたら、こんなにお気楽なことはないと思いませんか?放っておく実践、続けてみて下さいね。

「私」との同化を緩めるワーク

毎朝スポーツクラブで泳いだ後は、大好きなサウナで汗を流すのが日課となっているのですが、そのサウナの暑さの中でちょうど手頃なある実践ができるんです。

それは、暑いんだけど暑くないの実践。体中の皮膚に熱を感じていると同時に、暑さの全くないところに意識を向けていることができるんです。それが、身体との自己同化を緩めることに繋がるんですよ。

このブログを読んでいる人ならご存知だと思うんですが、自我の発生と発達は身体との同化から開始されるんですね。だから、どんな方法でもいいので身体との同化を解除することがまず先決です。

歯ブラシをするときに、それをしている自分を放っておくようにすると、歯を磨いている腕の動きを見ながら、何とも言えない違和感を覚えることがあるんです。

何だか、カニのような動きだなあなんて…。そうやって、少しずつ身体と自分の間にすき間を作って行くということです。結果として、身体との同化は緩んでくるはずなんですね。

街を歩いている時、食事している時、運動しているとき、いつでもどこでもそんな自分を放っておいてあげるを実践すると、身体とのズレを感じるようになるんです。

そして次は最難関、マインドとの同化が厳重に立ちはだかっているんですね。瞑想をしても、座禅をしても、いつまでもしぶとく残っているのが、マインドの中にある「私」という思考です。

この思考は、あまりにも自我の深い部分にあるために、思考だと見抜くことすらできないのが普通です。この思考との同化を緩めるためには、何かに反応している自分を放っておくことが役に立ちます。

腹が立っていたり、気分が悪くなって落ち込んでいたり、とにかく内面に何かしら問題が起きているときにこそ、そうした自分を丸ごと放っておくを実践することです。

初めの内は、放っておくを実践する「私」こそが、自我(エゴ)そのものなのですが、きっとそのうちには「私」との同化が緩みだすはずです。

直接的に「私」を落とすことはできないようです。だから、気になったことはどんなことでも実践してみるべし、ですね。

福は内、鬼も内

今日は節分でしたね。自分が子供の頃は、母親からマメをもらって外に出て、大きな声で「福は内、鬼は外」を叫んだものです。少々恥ずかしさもあったのですが、食べ物であるマメを思い切り投げられるのが、何だか気持ちよかったのを憶えています。

近所の家からも、そうした子供の声が聞こえてきたものです。でもよく考えたら、自分の家には来るなと追い出した鬼は、一体その後どこへ行ってしまうのでしょうか?

誰か憎たらしい奴の家へでも行ってしまえばいいと思ってるわけではないものの、人さまのことまでは気にしないということが前提にあるのでしょうね。

本当のところ、福も鬼も私たち自身の内側にこそ在るものですよね。マインドの中には、善も悪も同じくらいずつ備わっているのですから。

当然、悪(鬼)は正面から見ることなく潜在意識の中へと抑圧されて、善(福)だけが表面に残るわけです。それが人間の苦しみのすべての原因なのですが…。

福が来ても、鬼が来ても、どちらもあなたの内面が引き寄せたものだということに気づけば、「鬼は外」などという発想は消えて行くはずです。鬼はあなた自身なのですから。

外側の世界と内側を分けているのもマインドの働きであって、実は外側のすべてがあなたのマインドの投影であると分かればいいのです。

福が来たら思い切り悦び、鬼がきたら思い切り悲しんだり怖がればいいだけです。福も鬼もずっと居座るということは決してあり得ないからです。すべては一過性なのです。

私は会社を辞めた直後の半年くらいの間、眠りに就く前にずっと内面から持ち上がってくる鬼を見せつけられていたことがありました。そのおどろおどろしい姿は、言葉では表現できないくらいです。

でも少しも怖くはなかったですよ。見てしまえば、そのエネルギーは自然と消滅していくのです。無自覚に隠そうとしてきたものだけが、ずっと残っていたというわけです。

今でもたまに、瞑想中に鬼のイメージが見えて来ることがありますが、可愛いもんです。しっかりと自覚すべきは、福は~内、鬼も~内ですね。

意識について

子供の頃に、この世界には生物と無生物があるのだということを習いますね。その両者の違いは歴然としています。生物とは、生命を持って生まれて、生きて、死んで行くものの総称です。

私たちはそれを植物と動物というように大別しています。そして、その動物の頂点に君臨するのが私たち人類ということになります。

一般常識的には、人間も含めて動物には意識があって、植物にはないということになっていると思いますが、意識というものを深く理解してみると、こうした捉え方が間違っていると分かります。

今現在の私なりの感覚で言えば、意識というのは生物であれ無生物であれ、この宇宙の神羅万象ありとあらゆるものの内側に在るものだということです。生きているということと、意識の有無とは無関係なのです。

私たちは朝目が覚めると意識を取り戻し、眠りに入ったり気絶すると意識を失うというふうに言いますが、それは決して正確な表現ではありません。

意識にはグレードがあるのです。それはどれだけ注意深くあるかというレベルです。そういう観点から言えば、意識を失うということは、単に注意深さのレベルが落ちた状態と思えばいいのです。

無生物の場合には、意識における注意深さのレベルが最少だということです。植物はそれよりもややレベルが上がり、動物になるともう少しまたレベルが上になるのです。

実際、私たち人間は動物の意識レベルにちょっと毛が生えた程度だと考えた方がいいかもしれません。なぜなら、ほとんどの人々は、概ね何等かの思考に巻き込まれて、注意が下がった状態で生活しているからです。

その逆に、できるだけ注意深く在ることによって、動物よりも意識レベルが上がることになるのです。瞑想は、注意深く在ることの最もよい練習になりますね。

そして、かなり深くそして繊細な注意を持ち続けていると、思考という雲が薄くなり、意識という青空が広がっていくのが分かります。そのとき、時間の流れが幻想だったとはっきり分かります。

そう、意識は時間の中にはないからです。思考という雲に邪魔されずに青空でいれるといいんですけどねえ。

「私」は葛藤と混沌を生み出す

人質になっていた日本人が残虐な人々によって、酷い殺され方をしてしまいましたね。何とも胸が痛くなる事件です。こういうことが起きると、安倍首相が進めている積極的な平和主義を問題視する人が出てきます。

わざわざ彼らを刺激するようなことを敢えてしなければ、こんなことにはならなかったはずだと。今後は日本人が、テロの標的になることは間違いないだろうと。

確かにそういう面があるのも事実ですが、それは自分さえ安全であればそれでいいという短絡的な発想ではないかと感じます。それは、きっと日本の現憲法のことを平和憲法と呼ぶ発想と同じです。

戦後の日本が再び戦争に巻き込まれずにこれたのは、その平和憲法があったからだと真面目に考えているのであれば、それはあまりにも幼過ぎます。

その幼さは、これまでの日本という国の幼さと同類なのでしょう。アメリカというある種の怖い父親がいたからこそ、家の中の秩序が守られていたということを見ていないのです。

その父親のコントロール下にあったおかげで、不自由はしたもののひどい怪我をせずにこれただけです。70年前にその父親が作った憲法を守っていたのでは、いつまでも日本は独り立ちできないでしょう。

その父親の力が弱体化していく中で、このままの依存した日本のままでいいわけはありません。私は個人的には、憲法をなるべく早く改正することを希望します。

とここまでは、一般市民的な立場で書きました。たまにはね。でもですね、世界平和を望むのであれば、それは我々一人ひとりの心の中が平和にならなければ実現しないのです。

なぜなら、この世界の在り様は、私たちの心の状態を反映したものでしかないからです。あなたの外側に平和を望むのなら、まずその前にあなたの心の中の闘いについてしっかり見てあげることです。

そして本当の意味で、心の闘いがなくなるとき、それはあなたの中の「私」が落ちるときです。「私」がいる限りは、葛藤と混沌が消えることはないと見抜くことですね。

すべては生の思い通り

最近どうも、以前のようには前向きな気持ちで瞑想することができなくなっています。続けてはいるものの、一週間前のあの「私」がいなくなる体験をしてしまってからというもの、どうも真剣みが薄くなってしまったのですね。

なぜなら、あのエゴが落ちる体験というのは、それまでの瞑想の延長上にはどうもないということが分かってしまったからなのです。間接的には何かの繋がりがあるのかもしれませんが…。

あれについて、「私」にできることは本当に何もないのかもしれません。それは、寝入るために直接できることは何もないということと同じなのでしょうね。

寝る準備や寝るのに適した環境を作ることはできますが、本当に眠りの中へ入っていくための方法など、一つも持ってはいないのですから。

それと同じなのです。直接的にどんな方法を使ってでも、エゴが落ちるということなどないのです。それに関しては、私たちは誰も無力だということですね。

それでもやっぱり、またいつかと願ってしまうために、その欲望がそれを邪魔するのです。上手くできているというのか、本当に皮肉なものです。

そうなると、これまで感じられていた自分が彼方にいるという感覚さえも、もうどこかへ行ってしまったかのようになっているのです。不思議なものです。

こういうときは、ふて腐れずに自分に正直に、いつものようにすることをするというのがよさそうです。正直スランプですよ~。でもきっと、これも通過するときがやってくるのでしょうね。

すべては生の思い通りに事が進んで行くだけなのですから。トホホ…。