放っておくとすぐ無意識的になる

子供の頃、親などからよくボーッとしている子だと言われていたのを覚えています。そう言われてあまりいい気分ではないのは当然です。

けれども、そのうちには確かに自分にはそういうところがあるなと自覚できるようにもなったのです。

うまく表現できないのですが、何か魂が抜けてしまっているような感覚というのか、そしてそれをどこかで楽しんでいるのです。

ボーッとしている状態というのは、思考は小さくなるのですが、ほとんどが無意識状態になるので、いわば動物と同じようなものなのです。

せっかく人間として生まれて来たのですから、我々だけに与えられた特権である意識を目覚めさせておくべきなのに…。

一方で、現代人は朝目覚めた瞬間から忙しく思考を働かせているのです。ボーッとしているのとは一見真反対に見えて、その実やはり無意識的なのです。

考えてばかりいると気づいた瞬間だけ、意識が少し戻った状態になるのですが、またしばらくすると思考にからめとられて意識はどこかへいってしまうのです。

結局、どちらにしても意識的であるということがどれほど難しいことなのか、それを忘れずにいられるだけでも意味はあるはずです。

夜寝る前に、今日一日どれだけ意識的であることができたのか、振り返ってみるのもいいかもしれませんね。

特別なマインドなどない

自分のことを嫌っていて、どうしても好きになれないという人がいると思えば、自分のことが好きという人もいますね。

心の癒しとは、自分のことを嫌っていた人が自分を好きになっていく道だと思っているとしたら、それは間違いです。

確かに癒しの初期のころに、自己嫌悪や自己否定が小さくなっていくので、嫌いな気持ちが薄れていくことはあります。

もしかしたらこんな自分でもいいところがあるということに気づいて、少しは好きになっていくこともあるかもしれません。

けれども、実のところ嫌いと好きは表面的な違いであって、本質的には同じなのです。同じように自分に対して関心を持っているということです。

自分という個人を特別視しているからこそ、嫌ったり好いたりすることになるのですが、もしも地球上にある70億以上のマインドの一つだと分かれば、それほど特別視しなくなるのです。

真に癒されていくと、好きでも嫌いでもないという状態へと向かうのですが、それはまさしくただのマインドに過ぎないという見方ができるようになるからです。

自分のことも他人のことも単なるマインドの一つだと気づけば、それを受け入れないという選択肢が消えていくのです。

どれ一つとして、特別なマインドなどないのですから、もっと気楽に生きればいいのです。マインドを見つめることで、自分の本質はマインドではないと気付くことにもなるのですから。

マインドだけが不自然

一昨日の夜のあまりにも強烈な突風のために、マンションのバルコニーがまるで地獄のような様相となりました。

目隠しのために手すりに這わせてあった浴室用カーテンの一部が、ズタズタに敗れてしまっただけでなく、手すりそのものが湾曲してしまいました。

なんともすさまじい風の力を思い知らされました。これまでどの台風がやってきたときも、これほどの被害が起きたことはなかったのに。

適当で脆弱な DIY のせいということもあるのですが、自然の力をあまく見ると痛い目に遭うということかもしれません。

アメリカなどで大きな竜巻が来て、家やクルマが宙に巻き上げられてしまったりするのを見たことがありますが、あり得ることを実感しました。

自然の立場から見たらごく当たりまえのことですが、さきほど「地獄のような」という言葉で自分の印象を書きましたが、それが思考なのです。

マインドがなければ地獄も天国もありません。自然現象が、ただ起きるべくして起きているだけなのですから。

ときどきはこうした自分のマインドがなかったら…、という視点で現象界を見てみるのもいいかもしれませんね。

そうすると、マインドだけが不自然なのだと気付くはずです。

嘘をつく子供

私たちが日常的につく嘘というのは、自己防衛の一つの方法であることは間違いありませんね。

大人になると、それこそ巧妙な嘘を使うようにもなるのですが、子供のつく嘘というのは見え透いていることが多いです。

すぐに後で嘘だとバレることは分かっているはずなのに、そういうことを考えることもせずに嘘をつくのです。

それは、その場をしのげればいいという思い、今この状態から逃れられたらという切実な思いから嘘をつくのです。

昨年のことですが、家の近くで小学生の男の子が自転車ごと停車中の私のクルマにぶつかってきて、クルマにそのままにはしておけない程度の傷がついてしまいました。

その子はすぐにごめんなさいと言ってくれたのですが、これは親に伝えなければと思い、自宅はどこなのか聞いたのです。

すると彼は、親に知られるのは困ると思ったのか、引っ越してきたばかりで分からないとか細い声で言ったのです。

すぐに嘘だと分かったので、なだめすかして家まで案内させることができたのですが、母親が留守だったので夜になってから再度そのお宅を訪ねたのです。

すると、家の中から突然またあの声でごめんなさい!が聞こえてきたのです。彼はそれまでクルマにぶつかったことを言えずにいたのですね。

私はお母さんに話しておいてねと伝えておいたのですが。でもすぐに言えずにいた理由が分かりました。

そのお母さんの彼を叱責する声がいかにも怖くて厳しいのです。子供は怒られるのが恐ければ恐いほど、嘘をつくのです。

こう言った子供じみた嘘のつき方をすることがあると自覚があるなら、それはあなたの中の子供が何かしら恐い現場から逃げようとする悲しい防衛方法が残っていると思って間違いありません。

しっかりその子を癒してあげることが大切ですね。

立場をひっくり返す

私たちは常に自分を中心にして物事を捉える習慣がついているのです。相手の立場や相手の気持ちを見ているつもりでも、本当は見てはいないのです。

特に子供の頃は、マインドに余裕がないために視野も狭く、自分のことを客観視することが難しいのです。

何事においても決めつけてしまう傾向というのは、自己防衛のために必要なことなのです。そうした子供の頃のマインドが残存していると、大人になってもそうした傾向が残ることになるのです。

たとえば、自分についてのこんなことを告白したら、きっと大切な人に嫌われてしまうと思って、決して真実を伝えられないでいるのです。

そんなとき、逆の立場だったらどうかを考えて見るのです。もしも相手が同じようなことで悩み、それを告白できずにいるとしたらどうでしょう。

きっと、そんなことは取るに足りないことだから、もっと早く言ってくれればよかったのにと言うかもしれません。

そのくせ、立場を元に戻して見ると、やっぱり自分が告白してしまったら、相手に否定されるという恐れが強いのです。

大人になっても、自分のことを客観視することができないと、このような立場をひっくり返したところで、その効果は見込めないのです。

自分を見つめる練習を繰り返すことで、自分との距離が少しできるようになるのですが、そうすれば自分のことを他人のことと同列に見てあげることができるようになるのです。

そうなったら、互いの立場を逆転してみることで新たな発見をすることができるかもしれませんね。

いかに信念を落とすか?

強い思い込みのことを信念と呼ぶことができますが、結局はそれも思考の一つであることには違いありません。

ただちょっと思い込みが強すぎて、本人としてはそれが事実である、あるいは真実であるかのように錯覚してしまうのです。

当たり前すぎて、疑うことすらできなくなってしまうのですが、あくまでも思考が作ったものであり、実在もしないし正不正もありません。

癒しというのは、生後培ってきたあらゆるものを落としていく作業だというとき、その落とすべきものこそが信念などの思い込みなのです。

どうすれば落ちていくのか?実のところ、それを自分の意思で落としていく、あるいは手放していくということはできません。

なぜなら、落とそうとする努力、手放そうとする試みをすると言うこと自体が、それに価値があると思い込んでいるマインドの部分がある証拠だからです。

もしもそれが自分にとってはもう意味をなさない、あるいは取るに足らないくだらないことだと気づいたなら、その瞬間にあなたの手からひとりでに落ちていくのですから。

つまり信念や思い込みが落ちていくためには、それがゴミだったと気づくこと以外にはないのです。

ゴミだと分かれば、どんな努力もいらずにゴミ箱へ捨てることができますね。すべての信念はゴミだと気付くかどうか、そこが鍵なのです。

近道も正しい道もない

もう10年以上も前になるのですが、初めて瞑想をやり出した時に、どのような状態になったら瞑想が深まったことになるのかを知りたいと思っていました。

師匠がいるわけでも、周囲に瞑想の達人がいたわけでもないので、とにかく見よう見まねで始めたわけです。

それでも続けていくうちに、ああこれが深い瞑想状態ってやつなのかな?と思えるような体験をするようになったのです。

自分なりにはある程度満足したのを覚えています。ところがしばらく経つうちに、それがまったく見当違いだったということを知ることになるのです。

自分としては、身体の感覚が変わってなんとも言えない状態になるのですが、それはあくまでも身体の変化だったために、リアルタイムでマインドが喜ぶのです。

瞑想中にマインドが喜んでいるのですから、瞑想とは程遠いに違いないのですが、そのときには分からなかったのですね。

結果自分は随分と無駄なことをしてきてしまったと思ったのですが、それでもそれなりにやった意味はあったのです。

効率よく、そして首尾よく深い瞑想ができるようになれたらと願うことこそが、瞑想の妨害になっていることに気づけたからです。

大切なことに近道はないのです。さらに言えば、大切なことには正しい道というのもありません。

ただ一歩一歩愚直に練習することでしか、身につかないということですね。意識的であり続ける練習も同じなのですね。

真実、事実、幻想の違いを明確にする

一昨日のブログで、事実と幻想について書いたのですが覚えていますか?私たちがこれは事実だと思っているものの中にも、幻想が混在しているということでした。

目の前に一個のおいしそうなリンゴがある、という場合に、一個のリンゴがあるというのが事実であり、おいしそうなというのが思考、つまり幻想だということでしたね。

このように事実を述べているようでいて、本当のところは幻想の部分が含まれているということなのです。

ところで、事実というのは真実ではありません。事実と真実はまったくもって異なるのです。というより、そもそも次元が違うと言った方が近いかもしれません。

じゃあ、一個のリンゴがある、という事実に対して、真実はどうなるかというと、「・・・・」なのです。

つまりそれに対して無言であること、どんな説明をしても一言でも表現したならその瞬間に真実からは遠ざかってしまうのです。

「リンゴ」というのは概念であり、思考そのものです。だからただそれを見つめていることで真実に近づくしかないのです。

真実、事実、幻想という3つの違いを明確にしておくことですね。そして、事実も幻想も思考であることを忘れないことです。

結論を出さずに生きる

幼いマインドというのは、何につけ白黒はっきりさせたがるものです。あの人は良い人で、あの人は悪い人という具合に。

なぜなら、幼いときというのは非力なためにできるだけ危険を回避する必要があるのですが、そのためには周囲の状況を明確にしておく必要があるのです。

いい人なのか悪い人なのかが分からないまま、一緒にいたらとんでもないことになってしまう危険性があるわけです。

悪い人には近づかないようにするためにも、どちらかはっきりさせておくということが肝心なわけです。

固い信念を持っているなどというのも、一見良さそうに感じるかもしれませんが、それも実のところ防衛からくるものなのです。

信念は人生を硬直させて、一瞬一瞬の流れに乗ることができなくなってしまうのです。逆に柔軟に感応できるほうが軋轢に悩まされることがないのです。

一般的な感覚からずれるかもしれませんが、結論を出すことを急ぐ必要はないのです。優柔不断と間違えられる可能性もありますが、前もって決めないという態度です。

決める必要があるときに、それはおのずと決まるのです。結論を持って生きなければ、その都度最適な波に乗れるのですから。

それは無防備な生き方、つまり愛が溢れる生き方へと変わっていくのでしょうね。

生きることはとてもシンプル

あなたの思考すべてが、あなたとあなたの生を創りだしていることがわかる。それらがあなたの地獄を創りだし、あなたの天国を創りだす。それらがあなたの惨めさを創りだし、あなたの喜びを創りだす。いずれも幻想だ–苦痛と快楽、甘美な夢と悪夢、いずれも幻想だ。

by osho

幻想というのは、実際にはないものをあたかもあるかのように想像することですね。寝てる時に見る夢もそうだし、勝手に宝くじが当たったらと想像を膨らますのも幻想です。

ここまではとても分かりやすいのですが、人生も幻想だと言われるとちょっと抵抗があるかもしれません。

なぜなら私たちは、思考が作る思いとそれが作り上げる幻想を区別して捉えているからです。

実は思考の中味はすべて幻想なのです。なぜなら、思考の中味は実在するものではないからです。

たとえば、宝くじが当たってラッキーだ、という時、それは事実だと安易に捉えてしまいがちですが、実は事実は宝くじが当たったという点だけです。

ラッキーだ、というのは思考することで作り上げた一つの思いに過ぎません。ラッキーだという思いがあって、それが興奮や喜びをもたらすのです。

今日は大事にしているクルマを事故でぶつけてしまって、なんてついてない日だろう、というときも同じです。

クルマをぶつけたことは事実であり、ついてない日、というのは思いに過ぎません。それは思考の中味であり、実在しないのですから幻想なのです。

このようにして、単に起きていることとそれに付随して思考が作る様々な思い、つまり幻想とがごちゃごちゃになってしまうのです。

その二つをしっかり分けて見ることができるようになると、人生という物語は幻想に過ぎないということに気づけるようになるはずです。

幻想の部分を落としていくなら、生きることは非常にシンプルなものだということにも気づくようになるでしょうね。