近道も正しい道もない

もう10年以上も前になるのですが、初めて瞑想をやり出した時に、どのような状態になったら瞑想が深まったことになるのかを知りたいと思っていました。

師匠がいるわけでも、周囲に瞑想の達人がいたわけでもないので、とにかく見よう見まねで始めたわけです。

それでも続けていくうちに、ああこれが深い瞑想状態ってやつなのかな?と思えるような体験をするようになったのです。

自分なりにはある程度満足したのを覚えています。ところがしばらく経つうちに、それがまったく見当違いだったということを知ることになるのです。

自分としては、身体の感覚が変わってなんとも言えない状態になるのですが、それはあくまでも身体の変化だったために、リアルタイムでマインドが喜ぶのです。

瞑想中にマインドが喜んでいるのですから、瞑想とは程遠いに違いないのですが、そのときには分からなかったのですね。

結果自分は随分と無駄なことをしてきてしまったと思ったのですが、それでもそれなりにやった意味はあったのです。

効率よく、そして首尾よく深い瞑想ができるようになれたらと願うことこそが、瞑想の妨害になっていることに気づけたからです。

大切なことに近道はないのです。さらに言えば、大切なことには正しい道というのもありません。

ただ一歩一歩愚直に練習することでしか、身につかないということですね。意識的であり続ける練習も同じなのですね。

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