探究が終わった後に残るもの

探究を続けて行ったところで、それは目的志向なので、自我の範疇だし、どこへも到達することはできないと気づいたのですね。

逆に、探究こそが自我の中に留まることでもあると知ったのです。それなら、探究はもう意味がないのでやめようと。

それでも、それはそれで何かを変えることにはならないわけで、これまでの自分のままでずっと生きていくことになるのです。

じゃあもうどうしようもないじゃないかと。何をしても何をしなくても、何も変わらないし、苦しみから解放されることはない。

完全に行き詰まったなと。自我が行き詰まることは決して悪いことではないと、知識としては知っているのです。

けれども、やはりそれは進むべき方向を見失ってしまった感じがするのです。でも本当は進むべき方向なんてないのですね。

目指すは、死に至るときに全く動じない内面を作っておくこと。それだけが残っていることだと思うのですね。

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ただ静寂だけが在る

誰でも知っていることではあるのですが、目は目自体を見ることができませんし、耳は鼓膜の振動そのものを聞くことができないのです。

当たり前と言えば当たり前のことですが、これには非常に大切な真理が明示されています。つまり、主体はそれ自体を直接知ることができないということ。

もしもあなたが、自分の思考を見ることができるなら、あなたは思考ではないということになるわけです。

あるいは、自分の感情を見ていられるなら、あなたは感情ではないということ。痛みを感じていられるなら、あなたは痛みそのものではないのだと。

知ること、分かること、理解すること、認識すること、こういったことの全てはターゲットとの間に距離が必要になるのです。

これが可能となるのは、この二元の世界でだけだということに気づくことができます。逆に言えば、非二元では見ることも聞くことも理解することも、全く不可能になるのです。

それが本当のこの世界の姿なのですが、これは想像を絶するものですね。あとに残るのは、ただ在るという静寂さだけなのですね。

人には本当のことが言えなくなる瞬間がある

自分が幼稚園に通っている頃の話です。よく遊ぶ男の子の友達がいたのですが、彼は確か私が持っていない何か(たとえばおもちゃなど)を持っていると言ったのでしょうね。

私はそれがどうしても見たくて、彼にそれを明日持ってきてくれる?と頼んだところ、彼は気軽に「いいよ」と。

そして次の日の朝一番で、あれ持ってきてくれた?と聞くと、彼は「今日は忘れた」と言ったのです。な〜んだ、楽しみにしていたのに残念。

じゃあ、明日は必ず持ってきてねと念を押してその日は終わったのです。そして次の日もまた次の日も、毎朝同じように「あれ持ってきた?」と聞くと、「忘れた」と。

そんな日が続いたある朝、彼と一緒に彼のお母さんが幼稚園にやってきて、私に「◯◯は持ってこれないの」と。

その瞬間に、幼い私は無邪気にただ持って来て欲しいと願っていただけなのに、何やら彼に迷惑をかけていたのかもと気づいたのです。

その友達は、気軽に持ってきてもいいよと言ったものの、家に帰って何かの理由で持って来れないことを知って、きっと困ったのでしょうね。

もしかしたら、私がそのうちには忘れてくれるんじゃないかと思ったのかもしれません。でも実際には毎日私から尋問をされる羽目に。

私は馬鹿正直に何で持ってきてくれないの?と食い下がったのでしょう。その結果、彼はどうしようもなくなってお母さんに泣きついたのかもしれません。

子供心に、なぜ持ってこれない理由を言ってくれなかったのかなと、不思議に思ったことを覚えています。

子供なので、そんなことはまるでなかったかのように、その後も一緒に楽しく遊んだのは言うまでもありません。

自動運転には救われる

クルマを運転していて、普段走り慣れた道ではないちょっと緊張するような高速道路などを走っている時に、ふとこれは自動運転だなと感じることがあるのです。

自動運転なら、自分は何もしなくてもいいの?と思うものの、必要なことが自分のこの身体を使って遂行されていくのです。

ああ、これが自動運転というものかと。それに任せて自分の命を預けていいのだろうかという邪推も起きてくるのですが…。

それでも、この状態でもう何十年も過ごしてきたわけだから、今さら心配したところでもうどうしようもないわけで。

そうすると、運転だけでなく何から何までが自動運転だったことに気づくのです。自分の人生の全てがその自動運転のもとにあったのです。

じゃあ、一体全体自分は何をしているのかなと。その時に、ふと自我としての自分が本当はいないんじゃないかと思うわけです。

だって、自動運転なわけですから。身体は勝手に動くけれど、思考でああでもないこうでもないとやるのも、ただそれが起きるだけだったのですね。

そのことに気づくと、本当に救われるのです。ただ自我の立場からすると、なんの役にも立っていないということに驚くことになるのですけど。

想像を絶するような大いなる流れが、ひとりでに起きているだけなんだと腑に落ちた時、心の底から解放される感じがしますね。

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「何もしない」が一番難しい

自我にとっては、何もしないことほど難しいことはありません。正確に言えば、それはほとんど不可能なほどです。

過去のことを思い出さない、未来のことを想像しない、何かについて解釈しない、これだけでもほぼ無理ですよね。

また、自分の内面を調べない、物事をコントロールしない。これだけのことを何もせずにいることが如何に難しいか。

たとえば、不安が来たら、それを放っておくということだって、放っておこうとするのなら、それをやっていることになるのです。

何もしないでおこうとすることだって、それをやっていることになるわけですから。じゃあどうしたらいいのだろうと考えてしまいます。

一言で表現するなら、ただただ在るということです。あるいは、ただ気づいているということでもあります。

気づきの立場に立つということ、これが何もしないということかもしれません。この時には、非二元という現実の本質が見えてくるでしょうね。

視覚や聴覚などの五感はない

現代の物理学においては、私たちの五感、たとえば視覚や聴覚などがどのように機能しているのかという仕組みを詳細に解明しています。

視覚においては、対象物に当たった光の反射光が我々の網膜の中に入り、それが電気信号となって視神経の中を通って脳に到達するのです。

あるいは、聴覚においては、対象物の振動がそのまま空気の振動として伝播し、その一部が我々の鼓膜を振動させるのです。

そしてその振動がやはり電気信号に変換されて、その情報が脳へと伝達されるというわけです。全くもって、うまくできているなと。

こうして五感の仕組みが100%解明されているように見えるのですが、実は最後の部分は手付かずのままなのです。

つまり、最終的に脳に到達した情報からあの色とか形、あるいは音といった感覚がどのように作られるかは分からないのです。

物理学者たちはそこの部分にはあまり触れたがらないのです。なぜなら、どうやったって科学的に解明できないのを薄々気づいているから。

ここの部分が分からないのであれば、これまでの物理学の説明は全て不毛なものになってしまうはずですが…。

本当は視覚や聴覚といった五感なんてものはありません。目も耳もありません。夢の中で肉眼を使わずに景色が見えるのと同じなのです。

そうやって科学的常識のウソを暴いていくと、自然と非二元が身近になっていくのです。当然の帰結としか言いようがありませんね。

求めなければ、分離は消える

「ニワトリが先か卵が先か」、という言葉がありますね。それと同じようなことが他にもきっとたくさんあると思うのです。

その中でも、特に重要なことを一つ挙げてみたいと思います。それは、「分離が先か、求めることが先か」というものです。

分離のない非二元の立場に立ってみると、求める主体も求められる客体もないので、求めることは不可能と分かります。

そうなると、分離というイメージが先にあって、その分離を信じ込むことによって対象を求めるということが起きると分かります。

ところが、実はもう一つの言い方もできて、求めることによって分離を継続させてしまうということです。

求めるということがあって、その行為自体が分離という幻想を継続させるということです。ということは、求めることをしなくなれば、分離という幻想も消えていくということです。

つまり、二元という幻想から非二元というリアルな現実に戻るためには、ただ求めることをやめればいいと分かりますね。

何も求めずにいるということの中に静かに在ると、確かに分離というのがただの概念でしかないということに気づける感じがします。

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ホログラムは凄いけど

最近よく聞くようになったホログラムの技術を使うと、2次元の画像を立体画像のように見せることができるのです。

たまたまお勧め動画に、そのホログラムの技術的解説をしているものがあがって来たので、それを興味深く見たのですが。

技術の詳細は難しくて理解できなかったのですが、要するに人間の目に入ってくる光を立体を見ている時と同じようにできるというものなのです。

なるほど、それなら立体に見えるのは当然だなと。そうなると、我々が外の世界を見るときの科学的な説明は正しかったのだと。

けれども、そこでふと気づくのですが、これこそが二元の世界での出来事なんだろうなと。そうやって我々は騙されるのです。

この二元の世界が本物なんだと。技術の積み重ねが、結果として現在の便利な世界を作り上げたのだと思えるからです。

それがどれほど正しいと感じたとしても、所詮はイメージの世界なんですね。このことは、非二元に気づかなければ決して分からなかったことです。

この壮大な間違いさえも、単なる現れの一部でしかなかったと気づくことができるのです。これは誰にも強制することはできないですけどね。

求めること、知ろうとすること

何かを探究することというのは、聞こえはいいですが、その実態はというとまさに知ろうとすることだと言えます。

何が知りたいのかというと、真実だったり自己の本質だったりと、人によって色々ですが、とにかく分からないことを分かりたいと願うこと。

そしてこの欲望が二元の世界を確固としたものにしてしまうのです。なぜなら、知りたい主体と知られる客体とに二分するからです。

もしも、自分自身のことを深く知りたいのなら、自分自身を二つに分離することになってしまうのです。

そして、知ろうとすることは、求めることの中の一つのバリエーションに過ぎません。つまり、知っている状態を求めると言い換えることができるので。

対象が何であれ、私たちは常に何かを求めてやまないのです。その対象が多岐に渡ってあるということです。

逆に言えば、何も求めない、何も知ろうとしない、そうしてただ在ることの中にいることができれば、そこには非二元の静寂が待っていてくれるのでしょうね。

小学生でやってきた人生の転機

昨日に続いて、もう一つ小学生の頃のとても大きなエピソードを書いてみたいと思います。それは、エピソードというよりも、もっと大きな一大変革をしたのです。

小学3〜4年生の頃というのは、かなり考え方が真面目で、毎日夜寝る前に今日の自分の1日の反省会をするのです。

あれは本当にあれでよかったのか?もっとこうしなければいけなかったのではないか?そんな感じでダメ出しを続けるのです。

そうやって、1日の総括をして、明日はもっと良い自分になれるようにしようと思うのです。すごいですよね。

あの頃は、先生と友達の間に自分がいるような感じがして、どっちつかずの辛い立場にいたように思います。

結構布団に入ってからも反省する日々で、時には泣いたりも普通にありました。今思えば異常な感じさえします。

ところが、5〜6年生の頃の事です。今でも明確に覚えているのですが、なんだかこんな生き方がばかばしいなと思えるようになったのです。

そうして、もっと適当に生きればいいじゃない、というのがごく自然にやってきたのです。肩の力を抜いて、反省会などしなくなりました。

すると、それが今度は普通になるにつれて、すごく楽に生きられるようになったのです。それが今でも続いているのです。

昔ある超能力者の方に、小学校高学年の時に大きな変化がありましたねと、言い当てられたことがあり、その時はすぐには気づけなかったのです。

後になって、あのことを言っていたんだなと分かったのです。あの変化がなぜやってきてくれたのかは分からないのですが、あの変化が起きていなかったらかなり厳しい毎日になっていたはずです。

あれから、普通以上に力を抜く人生を生きられるようになったのですが、その後45歳の時にガンを患って、より自然な生き方ができるようになったのが、大きかったですね。

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