真実は元々剥き出しになっている

子供の頃から不思議なことにはとても興味を持っていました。テレビでは、UFOとか宇宙人の特集をやっていたり、あるいは超能力者やマジックの番組などもよく見ていました。

たとえば、なぜマジック(手品)は不思議に思えるのかと言えば、それは通常想定されることから外れた結果が見れるからですね。

絶対にあり得ないと思っているようなことが起こってみたりするわけです。何もないところから鳩が出てきたり。

でも必ずマジックにはタネがあるのです。そのタネを使って、一般的に想定されている見方を覆すようにするわけです。

要するに、「常識的な想定」と言うものが必ず必要になると言うことです。たとえばそうしたものを持っていない赤ちゃんに何を見せたところで、不思議がることもありません。

つまり、私たちは自らは気づかずにどれほどの思い込み、想定をしつつ生活をしているかと言うことです。

こうした想定は、驚くべきことに赤ちゃんといえども、あっという間に身につけてしまうのです。以前そうした実験をしているのを見たことがあります。

その実験は、赤ちゃんがこの世界には重力があることを想定していることを証明するものでした。私たちが、人生のごく初期に作る想定は、向こう側に見たままの世界があるというものです。

その次に、こちら側には自分がいるという想定ですが、これは数年後に作り出すものです。自分が作ってきた想定を一旦脇に置いて、全てをそのままに体験できれば、真実が元々剥き出しになっていたと気づくことになるのですね。

疑うことで真実と出会うことができる

「信じる」ということについて、二つの場合があると言うお話です。私は◯◯を信じていると言う時、自覚があると言うことを意味します。

私は神様がいると信じているとか、あなたが裏切らないと信じていると言った場合です。なんだか、少し願望が入り混じっている感じもしますね。

そして、もう一つは自覚がなくて信じてしまっている場合があるのです。それは、自覚がないのでそれを事実だと思っているのです。

私は一人の人間として生きている、私は日本人だ、私は女性だ。誰もがこう言ったことは事実だと思って疑ったことがありません。

一番根っこにある信じ込みは、この世界はこのようにあると言うこと、そして私と言う個人は存在していると言うこと。

この二つが二元の世界をでっちあげているのです。自覚がないので、そこを疑うと言うことができないのです。

だから、疑ってみると言うことがどれほど大切なことか。疑うというと、なんだかネガティブな印象を持ってしまいますが、そうではないのです。

疑うことでしか、信じていることに気づくことができないからです。事実ではなかった、ただ信じていただけだと気づいた時、人は何か大きな変化を体験することになるのですね。

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非二元では嘘はない

人は時として嘘をつきます。その理由は意外と簡単で、本当のことを言ってしまったら、自分を守ることができないと感じるからです。

場合によっては、本当のことを言ったら、相手を傷つけることになるからということもあるでしょうけれど、それも全く同じように究極的には自分を守るのが目的です。

相手を傷つけることになったら、自分が罪悪感で苦しむので、そこから自分を守るために嘘をつくわけです。

たまたま見ていたYouTube動画で、不倫をした人が家族から真偽の程を責められて、嘘を言い続けるという場面を見たのです。

どう考えても、すぐに嘘だとバレるような幼稚な嘘を連発してしまうのを見て、人間というのは追い詰められると急に子供に戻ってしまうのだなと。

理性的な大人だったら、決してつかないような嘘を言ってしまうのには理由があるのだろうなと思うのです。

追い詰められて自分の立場が危険な状態になると、理性がすっ飛んでしまって幼い馬鹿馬鹿しい嘘をでっち上げるのです。

大人が見るとほとんどジョークのような言葉を発したりするのです。ということは、何か子供っぽいことを言い出したなと思ったら、即嘘を言っているとして間違いないということ。

不思議な感じがするかもしれませんが、非二元の立場では嘘というのは存在しません。なぜなら、どんな言葉であれそういう現れが現れているだけだからですね。

「好み」の傾向はなくならない

子供の頃からずっとパンが好きで、今でも夕食にお米が出てくるよりもパンが出てきた方が嬉しいくらいなのです。

小学生の頃には、夕飯までの暇な時間にトースターで食パンを焼いて、それにカチカチのバターを乗っけながら食べていました。

場合によっては、それに練乳をかけて甘くして食べるのも好きでした。それなのに、ここ10〜20年くらいは自分で食パンを焼いて食べることがなくなっていました。

理由の一つは、どうもバターが健康に良くないというイメージが定着してしまったせいかもしれません。

それとトースターがなくなってしまったこと。ある時期、仕方なくフライパンで焼いていたりしていたのですが、やはり美味しくは焼けない。

バターだけでなく、どんな食材であれ食べ過ぎなければいいと分かったので、またバターでトーストを食べたいなと。

そう思ったら、少し高級なパン焼き器が欲しくなりました。外側が香ばしく、中がフワッと焼けるものがいいなと。

非二元の体感がやって来るようになったとしても、「好み」の傾向がなくなるということはないようですね。

ルールは何のためにある?

私たちは大なり小なり、様々なルールの中で暮らしているのです。ルールとは、〜でなければならない、〜であるべき、などで表現できます。

大勢で共有している社会のルールもあれば、個人的なルールもあるのです。そのルールを守るか守らないかによって、二つの結果がやってきます。

ルールを守らなければ、自己否定感や罪悪感がやってきます。これは、自分を苦しめる結果となるのです。

一方でルールを守った場合には、一過性の安心を得ることができます。ルールを守ったことへの褒美のようなものです。

けれども、またすぐに次のルールを守れるかどうかがやってきます。もしも元々ルールがなければどうなるでしょうか?

単純に一過性の安心という褒美がもらえなくなるか、あるいは自己否定感や罪悪感がやってくることも無くなるのです。

ルールがあるのとないのとであなたならどちらがいいでしょうか?冷静に考えてみれば明らかですが、ルールがない方が生きやすいはずです。

もしも自分は何となくルールが多いなと感じるのであれば、一過性の安心を求めて生きていると気づく必要があります。

社会生活を円滑に生きるための最低限のルールは必要ですが、それ以上のルールは安心と自由を天秤にかけて両者を取引していることに気づくことです。

そしてあなたが独自に作ったルールであれば、いつでもそれをゴミ箱に捨てることができると気づくことも大切なことですね。

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脱会支援

この二元の世界は、信じることで成立しているということが言えるし、一方の非二元というのは信じるということを一切せずにいることによって見えてくる世界なんだなと。

そしてその両者の違いは途方もなく大きなものになってしまっているのです。信じるか信じないかの違いだけなのに。

なぜこれほどまでに違う世界になってしまっているのかを考察してみたいと思います。まず、信じるということは知らないということを意味しています。

知っていることを信じることは不可能だからです。つまり、二元の世界では知らないことを全てこうに違いないと信じてしまうわけです。

そうして、真実だと思い込むことを積み重ねていくのです。だから一般的には、その積み重ねを根本から見直すなんてできないのです。

これは宗教の世界感に似ていませんか?信者をその教団から抜けさせて、目を覚まさせることがどれほど難しいかは、一般に知られている事実です。

その難しさは、二元から抜けて非二元へと向かうことの困難さと全く同じなのかもしれません。

二元信者の目を覚させて、全ての信じ込みから足を洗い、リアルなものだけを相手にすることで非二元へと気づいていくことができるのですね。

非二元を理解しようとしない➖その2

昨日のブログの続きのような内容になるかもしれませんが…。ずっと左脳中心で生きてきた私としては、論理矛盾が一種の敵のようなモノでした。

どんなに素晴らしい画期的な内容であっても、そのうちのたった一つでも論理矛盾を発見してしまったら、全てが台無しになってしまうのです。

信用がガタ落ちになってしまう感じがしてしまうからです。興味深い話であればあるほど、矛盾がないことを期待してしまうのです。

10年くらい前にoshoの本を読むようになって、そこにちょっとした風穴が空いたのを自覚したのですね。

彼の言葉は鋭く真理を突くのですが、時としてアレっという感じで矛盾を感じてしまうことがあったのです。

その時に思い出すのです。osho 曰く、「私の言葉を理解しようとするのではなく、私を丸ごと飲み込みなさい」と。

あの時は、その言葉がピンとこなかったのですが、今なら分かるのです。理解ではなくて、感覚を感じ取るということかなと。

osho とはレベルが違い過ぎるのですが、非二元の話も理解するのではなく、ただそのフレーバーを感じ取ることですね。

理解できないことや矛盾に思うことを、解決しようとせずに、そのままに抱きしめてみるといいかもしれません。

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非二元を理解しようとしない

非二元の話というのは、本当にツッコミどころが満載なわけで、何から何まで論理矛盾をきたしていると言っても過言ではないです。

言葉で伝えられないことだと言っておきながら、言葉を駆使してなんとか説明しようとしているのもおかしな点です。

そもそも誰もいないと言っているのなら、一体誰が誰に伝えようとしているのか?本当は何も起きていないと言っているのに。

全てが全自動で起きているはずなのに、探究をするとか、苦しみから解放されるためには、こうして下さい、ああして下さいとか。

それでも、どんな矛盾があっても不思議となんとも感じないのです。矛盾を感じているということが、現れとして起きているだけだと分かるから。

実際、論理矛盾というのは思考の中での話です。どれほどそれが馬鹿馬鹿しいと感じられても、それもただのコレの一部なのです。

これは本当にずるい話なのですが、非二元をどれほど否定されても、非二元が否定のはるか外側だという静かな立ち位置があるのかなと。

非二元を理解しようとすればするほど、論理矛盾の中へと入り込んでしまうのです。全てはただ起きているように見えるだけなのですね。

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「相手にしない」を実践する

私たち人間は、たった一人で生きていくのは不可能です。集団で生きるように脳が出来ていると言ってもいいくらいです。

その集団の中にいるということは、必ず人と人の関係性が発生します。自分と相手とのコミュニケーションが欠かせません。

コミュ障などと言われる人はそこにちょっとした問題を抱えているわけで、それは必ず一定程度の生きづらさを作り出しますね。

それと同じことを、私たちは自分の内側、つまり心の中でもやっているのですが、あまりそのことに気付いていません。

心の中、あるいは頭の中にやってくる声というのは、実は自分自身の声ではなくて、脳の声なのです。

その声を相手に、長い時間を費やしてしまうのです。その声の特徴は、その相手をすればするほど、心がすり減っていくということ。

特に以下の三つは要注意です。不安感を煽る声、罪悪感を武器に攻めてくる声、自己否定感を投げてくる声。

これらの相手をしてしまったら最後、いつまでもその会話はループしてしまいます。これがいわゆるグルグル思考です。

こうしたことを避けるためには、上記の三つの声が聞こえたら、ああまた来たなとして、決して相手にしないことです。これをなるべく徹底するのです。

あなたに相手にされない頭の声は、間違いなくいずれは消えていく運命にあるのですから。これを実践することです。

視覚とは色とその変化

一般的に言って、私たちが自分の視覚によって捉えているものは、様々なモノの色や形だと思っています。

ところで小学生になると、図工の時間に絵を描かされるようになるのですが、その時に使うのが絵の具です。

絵の具というのは、単に色で塗る道具であって、それだけで人の顔を描いたり、景色を描いたりできるわけです。

ということは、視覚によって実際に見えるものというのは、単に色でしかないということに気づくことができます。

そう、色しかないのです。テレビやスマホの画面においては、小さな色の粒が集まってあらゆる画像を作り出しているのです。

色の違いが仮想的な境界を作り出し、それが形という二次的な概念を生み出すのですが、それでもそこには色があるだけ。

もしも色が刻々と変化するなら、それを我々は何かが動いているというように感じるわけです。

そうした色という視覚において、その色を見ている主体としての私がいるということが言えるのかを見て欲しいのです。

それはもう色という視覚の範疇ではないと気づくはずです。また同時に、色の出現とそこにモノがあるということがどれほどかけ離れたことかにも気づくはずですね。