「体験」にモノはいらない

最近「実体」という概念について、思いを巡らすことが増えてきた感じがしています。自分の中の誰かが、実体があるということで生きてきたのに、実体がないことが判明してしまったのが辛いのでしょうね。

「実体」という言葉は「モノ」という言葉とほぼ同義語ではないかと思うのです。なぜなら、普通に考えて実体がないモノなどないからです。

夢の中とか、イメージや妄想で現れるモノの時だけは実体がないという表現ができますけれど、この現実の中ではあり得ないと信じていますね。

ところが、私たちの日々のこの現実の中で起きるあらゆる体験では、実はモノの実体はないのです。言い換えれば、モノは存在しないのです。

モノはなくても、体験はできるのです。正確に表現すれば、モノはなくても体験は起きるということです。

そしてもう少し違う表現をすれば、体験自体はモノの存在、モノの実体というものを必要としないということ。

この世界にモノが充満しているからこそ体験が起きると考えがちですが、そうではなかったということですね。

体験、あるいは起きることの方を主軸にして見ればいいのです。そのようにして見方を変えてしまえば、まあそんなものかと。

モノがないということは、この宇宙も地球も誰もいないままに、体験、もしくはこれだけがあるということですね。

物理学と非二元は比べられない

最近ちょっとハマって見ている動画があるのですが、それは物理学入門というごく普通の人が聞いても理解できるように、優しく解説しているものなんですね。

カルフォルニア大学バークレー校で教授をしている日本人の方の説明が非常に秀逸で、思わず引き込まれてしまいます。

古典物理学から始まって、相対性理論、そして量子力学そして最後に宇宙論のような構成で、一通りの知識が身につくようにしてくれています。

私は理系だったので、ある程度知っている内容ではあったものの、当然全部ではなくて、なるほどな〜今頃分かったというものもありました。

自分でも不思議なのですが、なんとなくニヤニヤしながら聞いていたりするのです。これはきっと、自分の中の誰かが喜んでいるんでしょうね。

ああやっぱり、自然科学っていいなあと。特に量子力学は魅力満載なのです。ずっと知りたかった量子コンピューターの仕組みも少し知ることができたし。

その一方で、非二元の気づきのことを思い出して、そうはいってもこの世界には本当はなにもないんだようなあと。素粒子一つもないよと。

いったい自分にとってどちらが性に合っているのかなと。物理学と非二元を比べること自体が馬鹿げたことなんですけどね。

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中道よりも更に非二元を推す

私たちが暮らしているこの世界は全てが二元でできていて、右と左、上と下、善と悪、優と劣、ポジティブとネガティブ、愛と憎という具合です。

そのペアのどちらであれ本当は同等なんだということが分かればいいのですが、そうはいかないのが人間です。

元々動物というのは、快を求めて不快を避けるように本能的にできているので仕方のないことではあるのです。

その上、人間だけがマインドを持ってしまっているため、どちらか片方に非常に強い思い入れを持ってしまっているのです。

ネガティブよりはポジティブを、暗いよりは明るいを、悪よりは善をよしとするのです。その偏りが酷ければそれだけ、苦しむことになるとも知らずに。

どちらにも肩入れせずにちょうどど真ん中にいることを仏陀は中道と呼んだし、非二元というのも二元に非らずなので似てますね。

私は中道の生き方をずっと推してきたのですが、非二元に気づいてからはよりそれが明確になった気がします。

それはなぜかというと、ど真ん中以外は本当は「ない」ということに気づいたからです。これからは、中道よりも非二元を推します。

非二元ではど真ん中というものもなくて、ただ体験だけがあるのでそこから見るとどんなペアも何の違いもないと分かるのですね。

実体はない

この世界は実体のある世界だということを、私たちは意識的であろうが無意識的であろうが信じ込んでいて全く疑う余地がありません。

以前左脳はモノを全てオブジェクトとして脳内のデータベースに登録しているというお話をしたことがありました。

例えば、リンゴも一つのオブジェクトです。実体のあるリンゴを扱う前にまずは、リンゴのオブジェクトクラスというものを作るのです。

実世界で言えば、リンゴという概念のようなものです。概念なので、まだ実体はありません。私たちの脳は、リンゴと聞くとリンゴという概念を想起します。

そして脳内プログラムは、実際のリンゴを見ている時には、リンゴの実体がそこにあるという具合に、リンゴオブジェクトを具体化するのです。

それをりんごオブジェクトのクラスを用いてオブジェクトのインスタンスを作ると表現します。インスタンスというのは、あのリンゴとかこのリンゴという具合に、リンゴの実体を指すのです。

つまり、私たちの脳内ではすでにモノには実体があるという想定がなされているということになるわけです。

なので、この世界には実体がないという主張は、これを覆すことになるので相当な抵抗が出てしまっても当然ですね。

でも実体はないんです。

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夢の中での体験もリアル

昨日のブログでは、ただ体験だけがある、それだけがリアルなんだというお話をさせていただきました。

それで思ったのですが、この状況ってどうやら、寝てる間にみる「夢」に似ているんじゃないかなと。

なぜなら、夢というのは全てが作り物でリアルな世界では決してありませんね。全ての登場人物しかり、場所や景色、そして中で起きる出来事も全部仮想的なものです。

ところが一つだけリアルなものがあるのです。なんだと思いますか?実はそれは体験なんです。体験だけはリアルなのです。

もしも得体の知しれない何かに追われたら、恐怖を感じて心臓がバクバクしますよね。あれは本当にそうなるのです。

感動的なドラマ仕立ての夢だったなら、胸が熱くなって涙すら出てきたりするのです。だから、夢の中での体験そのものはリアルなのです。

ほらね。非二元的には体験だけがある、体験だけがリアルと私が言う時、夢と非常に似ているということに気づいたのです。

ただし、夢の中身が支離滅裂だったりする一方で日常的に起きている体験は理路整然としていて、滅多に変なことは起きたりしないという違いはありますね。

この現実が夢だったのか?という結論を急ぐ必要はないのですが、今後この辺りはしっかり見つめてみたいなと思っています。

体験だけがある

ちょうど一週間前に、小さな気づきがやってきてこれまでの探求を辞めざるを得なくなったのですが、それでもまだ釈然とはしていなかったのです。

だから違う探求がまだ続くなと思っていた矢先、昨夜のことですが、もうそろそろ寝ようかという時に、また気づきがやってきたのです。

前回の気づきを補足して、もっともっと明確にしてくれるようなものでした。それは、結果だけ言うと「体験だけがある」というものです。

そこに至るまでには、少し紆余曲折はあったのですが、そこは全部端折ると最後に残ったのが「体験だけがある」でした。

この気づきのおかげで、ものはない、自分はいないということがより鮮明になった気がして、そこはちょっと嬉しい。

謎だらけだなあと思っていたのですが、その原因は自分の存在だったのです。自分がいると思いたいがために、あらゆることがおかしくなってしまっていたのです。

非二元の本当の意味は、行為をしている誰かもいないし、行為そのものもない。あるのは、ただその行為の体験だけということ。

体験という言葉を使うと、誰の体験?というのがすぐにやってきてしまうので、本当はこの言葉を使わないほうがいいことは分かっているのです。

けれども、私自身にとって一番わかりやすい言葉がこれだったのです。紆余曲折の部分を本当は書きたいのですが、ここでは長くなってしまうので割愛しました。

また機会があれば、お伝えしたいなと思っています。

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探求者の嘆きかな

久しぶりにoshoの言葉を聞いてみましょう。

『探求者が消え失せてしまったとき
そのときはじめて目標は達せられたと言える
体験者がいなくなってはじめて
その体験があり得るのだ
求めてごらん
あなたはそれを失うだろう
その探求を通じて探求者が強められてしまうからだ
求めないこと
そうすればそれは見つかるだろう』

この言葉、実はずっと以前から知ってはいたのですが、本気になって読んだことはなかったのかもしれません。

なぜなら、これまでずっと探求を終わらせるつもりが全くなかったからです。探求は自我を強めることは、よくわかっていました。

それでもそれは一時的なことであって、それを知りつつも探求をせざるを得ないのが人間なんだと思っていたのです。

今でもまだ探求が完全に消えてしまったわけではないのですが、このoshoの言葉が突き刺さりますね。

探求者が一番自我を強化してしまうのです。探求者の自我は完全な状態で守られるからです。それも見事な方法で。

だって自我ベースの考え方が染み付いた状態での探求なので、決してやめられないのです。ただそれでも、ちょっと気づいてしまったのです。

だから今少しだけ困った中途半端な感じになっているのでしょうね。これからも、思考に頼らず、思考に答えをもらおうとせずにいる。

長年の習慣をやめていくことは、なかなか難しいものですね。

ちょっとした危機

これまで毎日コツコツと、特別な努力もせずに続けてきたこのブログですが、なんだか書くことがなくなってきたというか。

もちろんこれまでのように、変わらずに自我だ、本質だ、意識だ、と言ったことを書こうと思えば書けるはずなのです。

けれども、どうもその意欲が湧いてこないような感じがしていて、今困っているのです。どうしたものだろうかと。

というのも、このブログで書いてきたどんなことも全くの物語としか言いようのないことだとなってしまったからです。

物語という言葉の意味も、これまで使ってきた物語という意味とは違うのです。いや、似てると言えば似てるのですが。

決定的な違いを説明すると、これまでは思考が物語を紡ぎ続けてきたという言い方ができるのです。

ところが、今使っている物語の意味は、思考とは全く関係のないところでの話。文字で表すあらゆることが全て物語だということなのです。

私たちがこれが現実だと思っているものの一切合切が物語に過ぎなかったということです。これは困りましたね。

クライアントさんとのセッションはこれまで通りできるはずですが、もしかしたらちょっとしたニュアンスの違いは感じられてしまうかもしれません。

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非二元だけが残る

この世界の全てが例えば表裏、明暗、上下、幸不幸、善悪、長短などあらゆるものがこうした二元的なものによって出来上がっているのです。

そしてそれを否定するもの、つまり二元に非らずという「非二元」という世界観があるというわけです。

非二元の世界観では、何も何の違いもないということ。二元に見えるのは見かけだけであって、それは存在しないのだと。

それを見抜いたなら、非二元の気づきが起きたということになるのかなと。そうなると、そこにリンゴがある感じというのと、ここに自分がいる感じというのが同列になるのです。

リンゴはあたかもそこにあるかのように感じるけれど、それを感じている自分はいるように感じるのではなく、実際にいるのだというのはおかしいことですよね。

自分の存在もリンゴの存在と同じように、この世界にはあるように感じるけれど実はどちらも存在しないのです。

自分の存在を特別視してきたことがここでばれてしまいましたね。これは、どう感じようと逃げ場を失ったわけです。

あらゆる妄想を排除してしまうと、あたかもそのように見える、感じるということだけが残るのです。そしてそれは、二元に非らずなのですね。

「非二元」との再会

かれこれ10年くらい前になりますが、「非二元」というキーワードに関連する書籍やら、それを説く魅力的な人物たちが目立った時期がありました。

それが実際どういうものなのかを知りたくて、何冊かの本を読んだのを覚えています。「非二元」に気づいた?とされる人たちの言葉を聞いたりもしました。

そのころは、どうにも釈然としない感じが強くて、これは自分にはイマイチ嵌まらないものなのかなと。

とても残念に思ったものの、それ以上どうすることもできずに、「非二元」について語る彼らの不思議な言葉から離れていったのです。

そして非二元という言葉の意味を自分なりに勝手にでっちあげて、たまにはそれをこのブログで書いたこともありました。

それがここにきて、ある人物の一冊の本とある人の動画チャンネルとの出会いによって、また新たな「非二元」との関係が始まりました。

そしてほんの2〜3週間の間に、ふとしたことから小さな気づきが起きたのですね。と言ってもそんな大それたものではありません。

けれども、それでもこれまでの自分の探求の方法を辞めなければならなくなったので、個人的には結構大きなことだったのです。

この気づきによって、今まで以上にものごとには意味はない、善悪はない、そう言ったことが明確になりましたね。

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