自分の内面を見つめるというときに、内観とか内省と言った言葉で表わされるやり方があると思います。セラピーでもそれが基本です。
それは今まで自分が生きてきたそのストーリー、都合の悪い「私」を無視してきてしまったそのストーリーを見にいくわけです。
みなさんが一生懸命自分の心を癒そうとしてやっていく方法ですね。これは確かに、心の不自由さや苦しみへのパターンなどを少なくしていくためには、とてもいい方法です。
ところで、今日の内容は、それとは根本的に異なるやり方で、「私」を探求しようとすることです。これは、「私」とは誰か?ということに対する探求です。
なぜ、「私」を探求する必要があるかというと、苦しみや不自由さを感じるその根っこには、それを感じている「私」が居るからです。
その「私」を探求することで、あらゆる問題や苦悩から開放されるという期待が少しでもあるなら、それを試してみても決して損はないですね。
やり方はいたって簡単です。過去のストーリーを見る代わりに、今この瞬間の「私」にずっと意識を向け続けていればいいのです。
目をつぶったほうがいいかもしれません。心を静かにして、しばらく「私」を見ていると、過去が追ってくることがなくなってきた段階で、人物としての「私」が薄れていきます。
なぜなら、人物としての「私」はそのすべてが過去からの寄せ集めによって出来上がっているからです。今の「私」はもっと身軽な感じがするはずです。
もっと見つめていると、「私」が所有しているものが消えて行き、さらに「私」の年齢や性別、名前などにも関心がなくなっていく感じがしてきます。
そしてもっともっと意識を向けていると、どうやら何も知らない、何一つ分からない、そして自分のことも分からないという地点にやってきます。
ただ、個としての「私」だけが居続けるという感覚です。しかし、その個という感覚は、それ以外のものとの区別がなくなってしまうので、とてもうっすらとした個でしかありません。
個というのは、別の個との違いによってその存在が明確になるということを考えれば、当たり前のことだと分かります。
そして、個としての「私」はとてもぼんやりとした状態となって、ここが「私」の誕生したところなのかもしれないと分かります。
しばらくすると、個である「私」はそのままに、「全体」としての感覚と重複していることに気づきます。それは、ただ在る、静かに在る、すべてに在る、今に在るであって、そこに「私」はいないのです。
個として局所的な「私」よりも、「全体」としての非局所的な意識の方へと注意が向くといったような感じなのかもしれません。
残念ながら、私の場合には、個としての「私」がうっすらとでも残り続けるので、本当に「私」が消えてしまうわけではありません。
したがって、しばらくすると「私」が「私」を取り戻そうとしてやってきます。「私」はこのままでは消滅してしまうと知って、個人としての自分に戻そうとするのでしょうね。
それでも、「全体」としての在るというあの感覚を忘れることはありません。繰り返し探求することで、いずれは「それ」として在るという気づきへとシフトしていけるかもしれません。
そのときには、苦しみや不自由さから脱却しようとする「私」そのものが消えていくことになるのでしょうね。それは、解決する必要のない意識へと移行することになるはずです。