大いなるシナリオ

みなさんは、ご自分の人生をみずからの力で切り開いてやってきたという自覚をお持ちでしょうか?それとも、何となくこんな風なことになったという感覚が強いでしょうか?

私の場合は完全に後者ですね。人生のどこの時点をとっても、自分が明確に決意して人生の進路を決定したということがないからです。

時々、少しじっくりと時間をかけて、これまでの自分の人生がどのようにして展開してきたのかを振り返ることがあるのですが、そこで驚くべき事実を見つけました。

それは、自分の望むと望まないとにかかわらず、次々とあらゆる事象がやってきて、自分はただそれと共に進んできたという感覚しかないのです。

勿論それぞれの場面で、自分なりの決意、決定をしているはずなのですが、それが今になって思い返してみると、どうもそうならざるを得なかったに違いないと感じるのです。

つまり、選択肢があったように見えているのは表面的なものであって、実はこの道しかなかったのではないかという疑いです。

結局自分はたった一本しかない道をただ歩いてきただけだったのだという思いです。もちろんその道は紆余曲折があったようにも見えますが、でも間違いなく一本道なのです。

私がこのような気質と肉体を持って生まれたことも、自分の両親の元で育ったあの環境にしても自分が選んだわけではありません。

その後も次から次へとやってくる大小さまざまな波にもまれながら、ひたすら一本道を歩き続けてきたとしか考えられないのです。

それはまさしく、大いなるシナリオの元に突き動かされてきただけなのではないかということです。だからこそ、なぜ今このような自分がいるのかは、はっきりと説明ができないのです。

ただここまで流されてきてしまった結果が今あるだけなのです。だとしたら、これから先の未来もこれまで通り、たった一つの道を淡々と歩き続けるだけなのだろうと。

それなら、この自分は一体何の役目があるのだろうかと考えずにいられません。いてもいなくても、同じはずです。

自由意志があると思い込んでいるのは、自分だけであって、真実はそのシナリオに沿って粛々と人生が展開しているだけなのだろうということです。

このことを真剣に突き詰めていくと、この自分と思っている自分は本当はいないのではないかという、昨日のブログの話しに繋がるのです。

仏陀はこう言ったそうです。物事は起き、行為は為されるが、個々の行為者は不在である、と。すべては大いなるシナリオだけが在るということです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です