輪廻転生

催眠療法を希望されるクライアントさんの中には、ご自身の過去世あるいは前世と言われるものを見てみたいと言われる方もいらっしゃいます。

あるいは、ごく普通に幼少期のことを見に行っているときに、自然とそうした前世のようなところに戻ってしまう場合もあります。

いずれにしても、本人が経験した別の人生の記憶を思い出す、あるいはそうしたイメージが浮かんでくるのですから、普通に考えたら不思議ですね。

ごく一般的には、われわれは肉体が死を迎えた後は、この自分は意識もろとも消滅してしまうと考えるわけですが、身体とは別に何がしかのものが残るということです。

そうやって、しばらく死後の世界にいて、その後にまたこの世界に新たな生命体として戻ってくるということですが、私にはそのことは謎でしかありません。

ただ、セッションではそうしたことが時々あるので、それはそのままに受け入れていますし、それがクライアントさんにとっての何かの助けになるのであればいいわけですから。

最近では、自分の本質というか、本当の本当の自分とは何だろうということをいつも見つめる癖ができてしまったので、その輪廻転生というものについてあらためて考えるようになりました。

真の自己は時間を越えたものであるので、一度死んでまた生まれ変わるというように時間の中で起きている事柄については、どう考えたらいいのだろうと思うのです。

それはこの世界で起きていることの中の一つであると考えてしまえば、それはそれでいいのでしょうけれど、自分の身体が消滅したあとに残るものとは一体なんだろうという疑問は残ります。

それも含めて、この世界、この宇宙で起きるすべての事象を丸ごと受け止めているのが、本当の自己であるということですね。

それは私たち人間にとって、嬉しいことばかりではなく、今回のような大きな災害なども起こるわけですが、そうしたことのすべてをそのものとして受容するのが本当の自分なんだろうと思うのです。

こんなはずじゃなかった

この二ヶ月間のうちに起きてきた心の中でのつぶやきは、「こんなはずじゃあなかった!」というものです。それはつくづく思っているような感じです。

どういうことかというと、自分の人生というのは、もっと平和でもっと普通でごくごく当たり前の一般的なものであるはずと思っていたということです。

特別な波風も立つことはないし、波乱万丈とは間逆な穏やかで静かなある意味模範的な人生になるはずだったと思っていたようです。

それが最近、たぶん自分はやはり普通の人とはどこか違うのだろうと何となく思っていたものが急激に大きくはっきりしてきたのではと思っています。

11年前に癌を患ってから、会社員を辞めて今の仕事をするようになって、ずいぶんと大きな変化をしたはずだったのですが、内側ではそうでもなかったということかもしれません。

それよりも、この数ヶ月の自分の方がよほど、根底から覆されるような何らかの変化をし出しているということを察知しているのかもしれません。

人間としての自分の変化というよりは、もっと奥の中心にある自分への気づきというものが、抜き差しならないものを感じ取っているのでしょうか。

だからこそ、とうとう「こんなはずじゃあなかった!」という心の声が聞こえるようになったのではないかと思うのです。

でもそれは、心の一部からであって、勿論今の自分を相当に喜んでいる自分もいるわけで、それらが渾然一体となっているのでやや疲れるのですね。

それが、身体にも出ているようで、首や腰が痛くなって見たりしているようです。それと、何だか自分が生きている感じがしないという面も今までよりも強くなったかもしれません。

それは特別いやな感覚というのではないのですが、「なんだかな~」というような漠然としたものです。

自分とは何なのか、ということを突き止めることがこの人生の目的だったなんて、あまり大きな声では言えないですが、たぶんにそんな気がしています。はぁ~~

男女の違い

今回の大震災を各人が各様に経験して、いろいろなことを感じたり考えたりしたと思うのですが、平均的にみて、女性と男性で少しその反応に違いがあるように思いました。

それは、女性のほうが総じて震災を怖がっている人が多いということでした。天災というのは、勿論誰にとっても恐怖を伴うものですが、女性の方がそれを肌で感じてそれが行動にも出てしまうということのようです。

パニックになって部屋の外に飛び出そうとしてしまったり、慌ててしまって何をどうしたらいいのか分からなくなってしまったという話しを主に女性から聞きました。

それは、きっと女性の本質は誰か大切な人を守るという母性的本能が強いために、その原動力となる恐怖が大きく出てしまうのではないかと思うのです。

一方、男性は危機的状況においては、恐怖を攻撃的な感情に変換するような体質があるように思います。それは、誰かを守るというよりも獲物を捕らえるという役割から来ているのかもしれませんね。

子供の頃に、家のすぐそばにある石神井川が集中豪雨のたびに氾濫したのですが、そうなると川の水かさがあっという間に増えて、地上と同じくらいの水位になってしまうのです。

濁流が地上すれすれのところをを猛スピードで流れるような状態になるのですが、それ以上雨が降り続けるとすぐに床上浸水になってしまうのでした。

そんな中、どういうわけかそうしたごうごうと流れる濁流の淵を上半身裸になったおじさんが現れて闊歩しながら、俺が来たから何かあったら助けるよ、みたいなことを言っているのです。

それを見るたびに、子供心にこのおじさんは今とても生き生きとしている、こういう災害が好きなのではないかなと思ったものでした。

つまり、男性というのは危機的状況になったときに、ある種アドレナリンが大量に分泌されて戦闘態勢になるのでしょうね。そのアドレナリンおじさんを目撃するたびに、そう思いました。

そういうわけで、一般的には今回のような災害が起きたときには、女性と男性では反応の仕方に違いが出るのも自然なことなのかもしれません。

地震がとても怖くて仕方ないと感じる女性のみなさん、大して怖がらないような男性がいたとしても尊敬しなくてもいいと思います。持って生まれた役目に違いがあるというだけです。

それでも、私の目からみて、咄嗟のときに冷静でいられるようにした方がかえって、安全を確保することができるように思います。

起きることは起きるし、起きないことは起きないということです。身に降りかかることを心のどこかで受け入れる準備をいつもしていることが大切なのかもしれませんね。

助けを請うこと

4輪レースの世界最高峰にF1(フォーミュラワン)というカテゴリがあるのですが、その一昨年のワールドチャンピョンであるジェンソン・バトンという人が今回の日本の震災についてコメントしているのを読みました。

彼は、「日本人はまだ助けて欲しいと訴えていないが、我々はそれを待っている必要はない。」と言っていました。

彼の恋人は日本人の有名モデルということもあるのですが、日本のホンダと共に6年以上もレース生活をしてきたことで、日本人の友人が沢山いるということもあるのでしょうね。

日本の被災地の人たちに対してチャリティを企画したり、様々な活動をしていると聞きました。それ以外にも、各国のF1ドライバーたちがこぞって日本の復興を応援しているというメッセージを沢山聞くことができました。

確かに、日本はまだ全世界に対して、本当に助けて欲しいというメッセージを投げかけてはいないのではないかと思うのです。

こうした大災害のときこそ、世界に向けてできるだけの援助をして欲しいと訴えることがとても大切なのではないかと感じるのです。

今日本人がやらなければならないことは、きっとそれなんだと思います。自分の努力と頑張りで確かに何とか問題を解決してしまえるかもしれませんが、周りの多くの力を欲しいと言えばいいのです。

そうやって、誰もが、そしてすべての国々が単独で成り立っているのではないと、すべてが繋がってそして助け合って存続しているのだということを示すチャンスなのではないかと思うのです。

困っているときに、素直に「助けて下さい」と言えることはとても素敵なことですし、大切なことだと思います。国をあげて、助け合うだけではなくて、全世界に向けて援助を求めることも大切だと思うのです。

悪者探し

私たちは、何か問題が発生したときには、その内容をよく吟味してできるだけ速やかにそれを解決しようと努めます。

今回の大震災でも、さまざまな不備や疑問、問題点などが沢山露呈してしまったと言わざるを得ません。大切なことはそれを真摯に受け止めて、反省して改善できるところを探して活動していくということです。

ところが、そのときにどこに問題があったのかということと関連して、誰が悪かったのかということに話しの中心が反れて行ってしまうことがあると感じます。

言ってみれば、うまく事が進まないときの悪者探しの状態ですね。この悪者探しをしてしまう心というのは、その根っこに自分はそれほど悪くはないというものが潜んでいるのです。

ここを見逃してはいけません。なぜなら、誰かの間違いを責めてしまうその気持ちそのものが、何かの間違いを引き起こす原動力になっているからです。

したがって、問題が発生したときに悪者探しをすると、その次にまた同じような問題を発生させる要因を作り出してしまうことになるのです。

それでは堂々巡りになってしまうのは目に見えています。私たちに最も必要なのは、勇気を持って悪者探しをやめることです。

現象だけをよく見つめて、ひたすらできる手助けをすることです。ややもすると、どこに責任の所在があったのかを分析しなければ、改善できないと考えるかもしれません。

それはもっとなことですが、そこは注意深くやらなければ結局誰かが責任を取って終わりになってしまいます。

実際に被災された方々の言葉にも大きく二通りのものを感じることができます。一方は、こんなに助けてもらってありがたいというもの、もう一方は国も行政も何もしてくれないという不満。

その気持ちは痛いほどにわかるのですが、私たちはみなできることをするだけです。誰かを責めることをやめない限り、苦しみは続くということを決して忘れないことだと思います。

人間をやめる

ずいぶんと昔に、近所に2~3歳の男の子がいて、時々ふらっとうちに遊びにくるのですが、「○○ちゃん、何してるの?」と聞くと、「遊びやってるの~」と答えたものでした。

彼はすでにその年齢にして日本語の正しい使い方を学んでいたのでしょう。「遊ぶ」という動詞の連用形である「遊び」を使うことで、名詞として用いるという方法を知っていたのです!

それはそうとして、「あなたは今まで何をしてきたのですか?」という質問や、「あなたは今何をしていますか?」という質問に対して誰もが同じ答えをすることができるのです。

それは、「人間をやってきました。」とか、「人間をやっています。」というものです。この答えはとても奇異に感じるかもしれません。

でも、これはとても的を得た答えであると言えるのです。ただ、人間として生まれて、生きているだけだと誰もが思っているかもしれませんが、実はそうではありません。

私たちは、人間をやっているのです。それも、かなりの努力をし続けています。この努力を放棄するとどうなるかというと、生まれたときの純粋無垢な存在へと帰ることになります。

赤ちゃんの時に森に捨てられて、偶然にも狼によって育てられた少年がかつて発見されたことがあったのですが、彼はまるで狼のように四足歩行をしていました。

勿論、生物学的にはどこからみても人間であることは間違いないのですが、ここで大切なことは本人が自分をどう見ているかという点なのです。

彼は決して人間をやってはいなかったということです。彼と私たちの違いは、ひとえに環境にあります。狼に育てられれば狼になるし、人間に育てられればこそ人間になるのです。

そして、人間になり、人間であることを維持し続けるのはとても大変なことです。なぜなら、人間になった途端にそれまでとは違って、自分とはひどく弱々しくて傷つきやすい存在となってしまうからです。

だから人間には病がつきものです。大変疲労することもあるでしょう。かつて、「人間やめますか、それとも覚せい剤やめますか?」というCMがありました。

私にしてみれば、覚せい剤をやめられない人ほど、どっぷり人間をやっている人だと思うのです。そして、人間をやっているすべての人はそうした快楽を使って気晴らしでもしなければやってられないのです。

人間をやりながら、そこそこ楽になっていく方法がありますが、それがいわゆる心理療法です。これは見方によればとても役に立つものです。

でも本質的な癒しを更に求めるとしたら、ある意味人間をやめる必要があるのです。それも人間をやりながらそれをする方法があります。

それは、本当の本当の本当の自分に気づくことです。それが、生まれたときのあの純粋に周りを見ているだけの自分であり、自分の存在を「無」にした自己の気づきです。

今後はより多くの人と、そうしたことを分かち合っていきたいと思っています。

節電と消費

夕べ、長い間ずっと使っていたドライアーが突然動かなくなってしまいました。ちょうど、10年前に気に入って買ったものだったので、仕方なく分解して直すことにしました。

故障箇所を見つける前に驚いたのは、何とまあホコリがこれでもかというくらいに溜まっていたことです。こうしたものは、壊れない限りは分解などしないので、掃除することはできないわけです。

そのため、手付かずに使って10年も経つと、ひどいことになってしまうのですね。丁寧にホコリを除去してから、面倒な修理作業を無事終えて電源を入れてみてまたびっくりです。

それは、驚くほどの風速が戻っていました。元々、購入するときに大型電気店で一番風力の強いものを選んで買ったのですが、ここまですごいとは、すっかり忘れていました。

長い間のホコリの蓄積で、少しずつ風力が弱くなっていたのに気づかなかったのですね。髪を乾かす時間がかなり短縮されるはずなので、これも一つの節電に繋がるなと思って内心ホクホクしています。

きっと、また10年くらいは使うことになるのかもしれませんが、あまり物持ちがいいというのも問題なのかもしれませんね。

というのも、今の経済というのは私たちが消費して購買することによって成り立っているからです。誰もが、買い控えをするようになれば当然経済は悪化していきます。

今回の大震災の影響で、多くの人たちの浪費癖が治ることはいいことなのですが、それがあまりにも急激にやってくると、経済への悪影響が懸念されてしまいます。

ただ、長い目でみればそうしたことも通らなければならない道なのではないかと感じます。大量消費による経済の発展というものが、大きく見直されなければならない時代に突入したということですね。

消費が減っても経済が成り立っていくようにするには、どのようなことを考える必要があるのか私には分かりませんが、きっと大きな変化が全世界的にやってくるような気がしています。

潔癖について再び

このブログで以前、きれい好きと潔癖症とはまったく違うということを書いたことがありました。きれい好きというのは、きれいなもの、美しいものを好むという人間に本来備わっている性質だといえます。

一方、潔癖の方はというと、きれいなものに目がいく代わりに汚いものに注意を集中することで、それを拒絶して自分の安全を保ちたいという欲求からくるのです。

つまり、恐れが潔癖のエネルギー源であると言うことができます。今日、水道水に原発から漏れ出した放射性物質が含まれていることが伝えられました。

確かに、この水には毒がごく少量含まれてはいますが、身体には害はありませんのでたっぷりお飲み下さい、と言われてもそういい気持ちで飲めるものではありませんね。

しかし、含有量からしたら気にする必要のないレベルであることがはっきりしているなら、殊更それを恐れることもないはずなのです。勿論乳児などはその限りではありませんが。

水道水はたとえ浄水器を通したとしてもしばらく飲まずにおこうと思うのは、やぱり潔癖から来るものなのではないかと思います。

これはいい悪いの話しをしているわけではありません。心の中に、愛が中心としてあるのか、それとも潔癖を起こしてしまう恐怖が中心にあるのかを考える必要があるということです。

我々は日々、もっともっと身体に有害なものを沢山摂取しているはずです。ただ、致死量からはかけ離れたくらいに微量であるから安心して飲み食いしているのです。

ある知人から聞いた話しですが、冷凍食品を製造している工場に勤めている人から漏れ聞いた話ですが、作るところを見たら決して食べることなどできなくなると言っていたそうです。

それくらい、体内に入れたくはないと思われるものを沢山使用しているということですね。勿論、自分の身体の健康に気を配らないのはどうかと思います。

しかし、ごく普通にバランスのとれた食事や運動を心がけることと、それ以上の潔癖からくる行動をしっかり分けて考えることも大切ではないかと考えます。

とりあえず、特別な理由がない限りは、ミネラルウォーターの買い占めに奔走しないようにしたいものですね。

機が熟すのを待つ

自分が生まれてから死ぬまでの間に、どれだけの人たちと知り合いになったり友人になったりして関係を作っていくのでしょうか?

ずっとなんらかの関係が継続していく人もいるし、あっという間に関係が無くなって行ってしまう人たちもいます。

そうしたことは、自分が意図してそうなっていくわけではないのですが、どうしたわけか自然の成り行きに従って様々な関係がやってきては去っていくものですね。

そこに個人的な期待や望みなどが強く入り込んでくると、執着やわだかまりなどが発生して結局辛い思いをする羽目になってしまいます。

人間関係でトラブルが起きていると感じることがあったとしても、すぐに結論を出そうと急がないようにするのがいいかもしれません。

トラブル、あるいは問題というものはいつでも起きるものですし、それがただちに人生にとって悪いことだと決め付ける必要もありません。

それよりも、その問題をじっくり味わって、それを楽しんで、心の中に留めておくことです。決してそっぽを向いて見ないふりをしたりしないことです。

そうやって、真正面から自分なりに考えられることを考えてみて、何が起こるかじっと待ってみることです。

そうすると、機が熟したころには必ずなんらかの道が見えてきます。自分が急いで決める代わりに、むこうからやってきてくれた結論は、大抵最善の方法に違いありません。

この方法は、人生の中であらゆる問題に対処するときに利用できるはずです。是非、試してみて下さいね。

地震の影響

大震災が起きてから、初めて大型スーパーにクルマで買い物に出かけたのですが、巷のうわさ以上に道路が空いているのに驚きました。

行く途中に二店ほどガソリンスタンドがあるのですが、両方ともお休みになっていて、これももしかしたら買占めの結果なのかなとやや悲しくなりました。

東京は直接の被害はなかったはずなのに、人々の危機感によってクルマを利用する多くの人たちがこぞってガソリンを入れに行ったら、さすがに無くなってしまうこともあるのでしょうね。

尤も物流の滞りが原因でガソリンが入荷できなくなっているということもあるのかもしれませんが、いずれにしてもガソリンスタンドが地震の影響で営業していないというのは初めての経験だと思います。

スーパーの中は照明を落としているために、いつもよりもかなり薄暗くて、かつてアメリカに仕事で滞在していたときのことを思い出しました。アメリカのお店というのは、常に日本よりもかなり暗いイメージだったのです。

スーパー内では、商品によってはまったく入荷されてないものもありましたね。でも、不思議な感覚なのですが、商品が品薄で棚が空き空きになっているのも悪くないなと思ってしまったのです。

ちょうど、家の冷蔵庫の中がいつも何かでぎっしり詰まっているよりも、定期的に空っぽになってくれたほうが新鮮な感じがしていいというのと同じかもしれません。

スーパーでもコンビニでも、いついかなるときに行っても、商品で溢れかえっているのは、どうなんだろうと密かに思っていたのです。

あれだけいつも満杯に陳列されているということは、売れ残ってしまうものも沢山あるはずだし、それは本当にもったいないと思ってしまうのです。

今後も余震が続くでしょうし、まだまだ予断を許さない状況だと思いますが、一ヶ月二ヶ月経って喉もと過ぎれば…というようにならないようにしたいと思います。